テラーノベル
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「お腹が……空いたの?」
飲みつけない異国の酒と、船の揺れにどうにも体調が優れなくて、客室へと続く通路の片隅で暗闇へ紛れるようにしてうずくまっていたランディリック・グラハム・ライオールは、突如降り注いできた可憐な声にうつむいていた顔を上向けた。
(血が飲みたい……)
こういう時は持病の発作が抑えられなくなりがちだ。歯止め役の友、ウィリアム・リー・ペインがそばにいない今、ランディリックに出来るのは人から距離を取ることくらいだというのに――。
この状況は、非常にまずい。
投げかけられた声は、まるで天使が鈴を転がしたかのような耳触りの良い旋律だった。けれど、目の前に立つふわふわ猫毛の少女は天使におあつらえ向きの輝くような金髪……ではなくて、それとは程遠い〝くすんだ暗い赤〟の髪の毛をしていた。
ランディリックの住むイスグラン帝国には珍しい髪色だが、今現在国交の途絶えている隣国マーロケリー国にはありふれた毛色だ。
本来ならば〝仲の良くない国〟の者同士。こんな風に親し気に話すのは有り得ないことだったし、イスグラン帝国ではこの髪色は不吉の象徴だとさえ言われている。だが、どうしたことだろう? ランディリックには、そんな赤毛の彼女のことが、とてもまぶしくて好ましいものに見えたのだ。
年の頃は六つかそこらだろうか。
「大丈夫? 凄く顔色が悪いわ」
少女は「そうだっ」とつぶやいて、手にしていた小さな紙包みをガサガサとあさると、中から血のように真っ赤な色をした果実を差し出してくる。
「林檎。さっきお母様に頂いたの。甘酸っぱくて美味しいのよ? 貴方にあげる」
そこでふと思いついたように、
「皮付きがイヤなら……これで皮を剝くことも出来るわ」
林檎と一緒に持っていたのだろう。包みの中から折り畳み式の小さな果物ナイフを取り出した。
「私は練習中で……まだ上手く剥けないのだけれど」
照れ臭そうにはにかんだ少女の指先には、小さな切り傷があった。切ったばかりなんだろうか? まだ薄っすらと血が滲んでいる。
(まずいな……)
その小さな手で林檎とナイフを片手ずつに捧げ持つようにして目の前へ突き出されて、ランディリックは彼女の傷口から漂う甘い芳香に眩暈を覚えた。
「……僕のことは気にしなくていいから……。早く……この場を離れなさい」
グッと奥歯を噛みしめるようにして懸命に言葉を紡げば、声が掠れて如何にも苦しいのだとアピールしているように聞こえて、ランディリックは己の不甲斐なさに舌打ちしたくなった。
とにかく、これ以上少女に近付かれては危険だ。
「でも」
それでも傍を離れようとしない女の子に、ランディリックは小さく吐息を落とす。
「こんなところへ長居していたら、母君に心配をかけてしまうだろう?」
――一刻も早く自分から離れて欲しい。
その一心でもっともらしい理由を述べれば、「林檎は嫌い?」と眉根を寄せられた。
余りに悲しそうな声音で問うてくるから、ランディリックは「頂こう」と手を差し出さずにはいられなくて。自分がそれを食べることは叶わないけれど、ウィリアムなら食べられるはずだ。
ランディリックが林檎を受け取ったと同時。青緑色の大きな瞳がパッと輝いて、ストロベリーレッドの愛らしい唇が嬉しそうに弧を描いた。
「お母様の生まれ故郷の林檎! 絶対美味しいから!」
その笑顔を見て、ランディリックは思わず「リトルレディ、貴女のお名前は?」と問い掛けていた。早く少女にこの場を立ち去ってもらいたいと希っておきながら、こんなことをするのは矛盾でしかない。
(けど……)
手の中の果物ナイフに視線を落としたランディリックは、『これを返さねばならないからね』と、心の中でもっともらしい言い訳をした。
「あら! 人に名前を尋ねる時は、まずはそちらから名乗るのが礼儀だって教わらなかったの?」
幼い割にこまっしゃくれた物言いをしてクスッと笑った少女に、ランディリックもつられて破顔する。
「これは失礼。僕はランディリック・グラハム ・ライオール。イスグラン帝国ニンルシーラ地方の管理者になる予定の者だよ。親しい者からはランディと……。レディは?」
本来ならば立ち上がって礼を取るのがマナーだろうが、今は体調的に少し無理そうだ。それを申し訳なく思ったランディリックだったが、少女はそんなことを気にするような、狭い心の持ち主ではないらしい。
「私はリリアンナ・オブ ・ウールウォード。エスパハレに住んでいるの。お父様やお母様からはリリーって呼ばれているわ。よろしくね、ランディリックさん」
愛らしくスカートの裾をつまんで一丁前に膝折礼をしてみせる少女に、ランディリックは「ランディで構いませんよ、リリアンナ嬢」と答えたのだが、どうやらリリアンナはそれが不満だったらしい。
「だったら私のこともリリーって呼んでくれなきゃフェアじゃないわ、ランディリック様」
先ほどは「さん」付けだったはずなのに、あえて「様」付けでランディリックを呼んだリリアンナが、小さな唇を突き出して拗ね顔をする。幼く見えても立派に淑女なのだと感じさせられるその仕草に、ランディリックは「これは失礼いたしました、リリー」と返しながら、口の端を緩めずにはいられなかった。
さて、今リリアンナが口にしたエスパハレは、イスグラン帝国の王都名だ。ランディリックは、実はそのことに少し驚いていた。
(イスグランの人間で、彼女の髪色は珍しい。血縁にマーロケリー国の者でもいるんだろうか)
てっきりその見た目から、リリアンナのことを異国の少女だろうと目星をつけていたランディリックにとって、彼女の答えは意外だった。
ランディリックが統括する予定の領地ニンルシーラと国境を隔てたすぐ先の隣国・マーロケリーには、彼女のような赤毛の人間が多い。
***
「ところでランディ。誰か頼れる人は? もしも一人旅なら……私、お父様とお母様に頼んで……」
少し物思いに耽り過ぎていたらしい。不意に降ってきた心配そうな声音に、ランディリックは意識を引き戻された。
「大丈夫だよ、リリー。今はちょっとはぐれてしまっているけれど、友人と乗船しているから」
「本当? 私をじっと見つめてきてたのって、一人にされるのが不安だったからじゃないの?」
どうやらランディリックがリリアンナの赤毛をぼんやり見詰めていたのが、寂しそうに彼女を引き留めたがっているように見えてしまったらしい。そんなリリアンナの優しさを無下にしたくなくて、ランディリックは柔らかく微笑んでみせた。
「不安がないと言えば嘘になるけど……連れとはじきに合流できるはずだ。彼は優秀だから……すぐに僕のことを見つけてくれると思うよ?」
友・ウィリアムは、ランディリックの幼なじみだ。いい意味でも悪い意味でも、ランディリックの行動パターンをよく理解している。
「なら安心ね? けどランディ。私、貴方のお連れさんがいらっしゃるまで、ここにいても構わないかしら?」
言うなり、リリアンナはランディリックの返事も聞かず、彼の横へちょこんと腰かけた。
そうして結局。ウィリアムが「やっと見つけた!」と駆け寄ってくるまで、ランディリックの傍にいてくれたのだ。
もっとも途中で眠ってしまって、ウィリアムに頼んで両親の元へ送り届けてもらわねばならなかったのだけれど――。
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