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青い絵の具をこぼしたような青空。
鬱は、空から落ちていた。
いや――そう、まるで自分が空から落ちているような感覚だった。
風もなければ音も無い。落ちているというよりは、浮かんでいるような、そんな不思議な感覚。
でも何故か心地良かった。
『――お前は、まだこっちに来ちゃダメや』
聞き覚えのある声に、微睡んでいた意識が戻ってくる。
「シャオロン…?」
変だ。
さっきの声は確かにシャオロンだった。
だがその声の主はシャオロンじゃなかった。
いや、シャオロンに似たなにかだった。
彼の背中からは、純白の透けるように美しい翼が生えていた。
その顔は笑ってはいたが、どこか引きつって見えた。まるで何かを隠すかのように。
彼は脱力した手をゆらりとこちらに振った。
『ばいばい大先生』
「おま、」
彼の手を掴もうと、慌てて伸ばした手は、ただ宙を切り――――
目を開けるとそこにあったのは見慣れた自分の部屋と、天井に向かって伸ばされた手だけだった。
目元が少し湿っている気がする。泣いていたのだろうか。
すでに空は明るくなっており、夏のうるさいほどの強い日差しがカーテンの隙間から差し込んでいる。
時刻は7:08。
遅刻ではないが、いつもよりかなり遅い。
「うぉ、やっべぇ…!」
慌てて布団から飛び出て、流れるように身支度を整える。
階段を滑るように駆け下りると、優雅にテレビを見ながらコーヒーを啜る母親がいた。
優雅とは言ったものの、下ネタ満載の深夜アニメを見ていたので別にそこまで優雅でもないかもしれないが。
「あんた、行ってきますくらい言いなさいよ‼」
「うっせぇ似非優雅‼」
「だれが似非優雅や!」
口うるさい母親の怒声を背に浴びつつ家を飛び出すとシャオロンが花壇に腰をかけスマホをいじって待っていた。
彼は鬱の存在に気づくとスマホをしまい、こちらに向かって手を振ってくる。
立ち上がった拍子に、彼の鞄についている向日葵のキーホルダーが軽快に音を立てた。
「おはよ、大先生」
「今日も早いなぁ、シャオちゃんは」
「いや、お前がいつもギリギリすぎんねん」
鬱がギリギリなのは間違いないが、彼はそれにしても早い。
この前なんか5時頃にいたこともあった。ちゃんと寝てるのだろうかと思う。
一度、シャオロンに「お前、朝早くに何してんの?」と聞いてみたこともあったが、「ちょっと色々あって…」とはぐらかされた記憶がある。
なんというか謎だ。
そんなことを考えていると、シャオロンは「はよ行くぞ」と言い、歩き出そうとした。が―――
「あ、ちょ、待って。あの子かわいい。すみませーん!」
「は?おいお前‼ どこいくねん‼」
もうどうでもよくなったのか、鬱は制服姿の中学生と思われる少女に声をかけようとする。
その瞬間、シャオロンは彼を反射的に掴み、引き戻す。
「おまっ、なにしてん!こんな朝っぱらから」
「ちょ、ま、シャオちゃんっ! 首っ! 首しまってる!まじ死ぬ…!」
「じゃあ、さっさと歩けや!また遅刻すんぞ!」
「はい、すみません!」
手を離された鬱は、思わずぴしりと敬礼した。
―――
「おわっだあ゛ぁ゛ぁ……」
長かった授業が終わり、思いきり伸びをしてそのまま机に突っ伏す。
「じじいかてめぇは」
すぐそばで聞こえた声に顔を上げると、シャオロンが呆れたように笑っていた。
「おやー?シャオロン僕んとこなんか来て、僕のこと好きなん?」
もちろん、いつもの冗談。だがシャオロンは一瞬びくつき真顔になった後少しだけ目を泳がせた。
「すっ、え、あー……うーん…そうかもしれへん……」
「うぇ」
だんだん小さくなっていくシャオロンの声。
思っていた反応と違い、変な声が出てしまった。
「…え?うそ。えぇ?いやきしょー……」
冗談で返されたのだろうと思い軽口をたたいてみたが、彼は何も言わない。
ワンチャン、いやワンチャンないがもしかしたら本当に……。
「え、と、……まじ…で……?」
恐る恐る訪ねると、シャオロンはすこし体を震わせた。
「まじ?って! 冗談にきまっとーよ! あほなんちゃう?」
そう言い、ツボに入ったのか一人で腹を抱えて笑っていた。
そりゃそうか。少しでもあるかもしれないと思ってしまった自分を殴りたい。
「お? お? どーしたのかな? どうちたのかなうちゅくん?本気だとおもってたのかな?」
「……シャオカスがよぉ…」
「えー?照れてるん?いやー俺その気にさせちゃったかー」
シャオロンがぺろりと舌を出す。
「うるせぇ!しるか!今話しかけたら殺すぞ!」
「えーこわー。てか耳赤。うけるー」
シャオロンのうるさい声を無視し、鬱はゆらりと立ち上がった。
「わ、びっくりした……。急に動くなや、危ないやろ」
文句をいう彼を横目に鞄を肩にかけ教室を出る。
「ちょ…無視すんなやお前」
シャオロンも慌てて自分の鞄を背負い、下駄箱に向かう鬱を追いかける。
「おい、 無視はよくないやろー。勝手に勘違いしただけやのに」
ちらりと声の方向を見ると、不服そうな顔をしたシャオロンが頬を膨らませていた。
まぁ、見ようによってはその辺の有象無象なら全て許してしまうような可愛らしい表情。
だがプレイボーイ鬱はその程度では動じない。はずだ。
「ちょぉ……なぁってばー、悪かったってぇ…」
情けなく肩を揺すってくる彼がだんだんと哀れに思えてきたので、靴を履き終えたところで、ようやく鬱は口を開いた。
「はぁ……もうええよ」
安心したようにため息をつくシャオロンを軽く小突いて歩き出す。
しっかりと殴り返そうとしてくる手を払い除けながら、軽くあしらっていると彼がぼそりとなにかを呟いた。
声が小さくて聞き取れなかったが、後々思うとあれは――
―――
「てかなんでお前ついてくるん…」
女の子と帰りたいとでも言いたげな表情の鬱は、平然と横を歩くシャオロンに、学校を出た時から思っていた疑問をぶつけた。
「えーやろ今日くらい別に」
「えー…他の奴らに一緒に帰ろう言われてたん断ってまで僕についてこんでもええやろ」
「何お前、俺のこと嫌いなん?」
「いやそういうわけちゃうけどさぁ……」
「まぁええやろ。俺はお前と帰りたいねん」
このセリフを言ったのがシャオカスじゃなく可愛い女の子だったら完璧だったのになぁと鬱は思いつつ、歩幅を少しだけ早めた。
人の多い通りを抜け、見晴らしの良い海沿いの道に来ると、塩の匂いと、すこしべたりとした生温い風がほほを撫でていった。
シャオロンは「おー」と小さく感嘆し、眩しそうに空を見上げる。
そしてそのまま、絶妙な高さの落下防止用のガードレールに手をつけ身を乗り出し、海を覗き込んだ。
「うっわ、きれーやなぁ」
「いつも見てるやろ海なんか」
「それはそうやけどさぁ、なんかやっぱいいよな。空も、海も」
ふわりと笑う彼につられて鬱も隣に並び、そのまま海を見る。
夏の海は日差しを受けてキラキラと輝き、今だけは全部飲み込んでくれるような気がした。
「んーやっぱ俺、夏が一番好きやなぁ」
「えー…夏なんて暑いだけやん」
鬱がシャツを引っ張り、風を入れながら言うと、シャオロンは「わかってねーなぁ」と笑い肩をすくめた。
鬱も、そんな彼につられて微笑を浮かべた。
そんな時、突然強風がふいた。
ここら辺は海が近いから強めの風が吹くことは日常茶飯事ではあったが、そんないつもとは違うレベルの強風が彼らを襲った。
前髪が煽られ、視界が海に飲まれたその瞬間――
バランスが崩れた。
階段を踏み外したような、そんな感覚。
「大先生ッ‼」
シャオロンの焦ったような声と共に、世界がぐるりとひっくり返る。
あ、落ちた―――。
それを理解するのにさほど時間はかからなかった。
空と海がドロリと混ざって、重力だけがはっきりと自分を引きずりおろしている。
重力とともに感情までもが、すとんと抜け落ちてしまったらしく、自分でも驚くほどに、焦りも恐怖もわかなかった。
段々と、世界が音を失っていくような気がした。
海が近づいてくる。
空がどんどん遠くなっていく。
死ぬんだな。
そう思った。ただそれだけだった。それが嫌とも思わなかった。
ただ一つだけ、申し訳ないなと思う。
シャオロンに―――
腕を引っ張られる感覚
続いてちゃぽん、と軽い水音が聞こえ、目を開ける。
「シャオロン………?」
目の前には何故か諦めたような表情をしてこちらを見下ろす彼の姿。
そして、鬱は自分の足元を見る。
地面。
夏の陽に焼かれ、熱くなったアスファルトの硬く、焼けるような感触。
ほんの数秒前まで、落下していたはずの自分の体は、何事もなかったかのようにそこに存在していた。
「…なんっ、…で……」
何故か震えるようで、うまく言葉にならなかった。
シャオロンは腕をつかむ力を少し弱め、ぽつりとつぶやいた。
「俺な、しっててんこうなるん…」
その声には、諦めが混ざっているような気がした
「は?え…?知ってたっ…て…てかそもそもなんで僕ここにおるん……僕、落ち…て」
思いつくままに疑問をぶつける。
だが返ってきた回答はまったく違うものだった。
「……大先生。天使ってわかるやんな」
「は?」
「神話とか、ファンタジー物に出てくる翼生えたやつや」
「いや、それはわかるけど…だからな」
彼は小さく首を左右に振り、ぼそりと言った。
「俺それ…やねん」
「………お前、何言って…」
ふざけている場合か、と思った。
「いいから…一旦話すのやめ――」
鬱は思わず息を呑んだ。
シャオロンの背中に
翼が生えてるように見えた。
見間違いかと思った。
見間違いであってほしかった。
だって本当なら、それはとても、
「天使ってのはな、この世界でいう死神…的なやつやねん」
彼の声が現実に引き戻す。
「まぁ死神とはちょっとちゃうけど…、人間の魂を正しく導いて送り届ける。それが俺らの仕事。その時が来るまでずっとそばで見守って、時が来たら連れていく」
「連れて…それ、が僕…?」
「そう、お前が俺の担当やった」
静かで淡々としている声だった。
「で、でも僕生きて、て」
「せやな。俺が助けたからな」
「そ、んなことして……ええ、のか?」
「だめやね」
沈黙。
波の音だけが、現実だと主張するように響いた。
沈黙を破るように、鬱は震える唇を開く。
「なんで」
少しの沈黙の後、シャオロンは冗談めかしたように笑った。
「なんでって?」
「だってお前の仕事は」
「俺は、」
遮って入ってきた声は、
――ひどく震えていて、とても、
「俺は!こうするしかなかった…!」
彼は視線を逸らし、吐き捨てるように言った。
「仕事で、仕事でたまたまお前が対象になって!」
「しゃおろん」
「こんなはずじゃなかった‼」
それはほぼ叫びに近かった。
「天使はな!仕事みすったら消えるんだよ。意味わかんねえだろ?」
彼は嘲るように笑い、服をつかむ拳に力が入った。
「俺はそんな人間ごときに情がわくわけねーし、わいたとしても自分が一番かわいいからな」
「シャオちゃん…」
「でも、なんで!なんで……」
ぽたりと一滴、大粒の涙が頬に落ちた。
「消えたくないよ……」
今にも消えてしまいそうな悲痛な叫びとは裏腹に、彼はゆらりとガードレールに足をかけた。
「お前、なにやってるん…いくら飛べるからって」
とっさに手をつかんだが、シャオロンはその手を平然と振り払った。
「俺は」
その言葉が静かに落ちた。
「お前に…お前が、死ぬのが嫌だった」
「俺が消えるの以上に、お前がいなくなるのが…」
彼の顔がゆがみ、濁りかけている金色の瞳から大粒の涙が溢れ、こぼれ落ちた。
「ほんっとに…辛くて、いやだった……」
絞り出すような声だった。
「だから、な」
すこし引きつったような顔で笑う。
そして、脱力した手をゆらりとこちらに振った。
「ばいばい」
「え」
甘栗色の髪が揺れる。
「待って」
シャツが風に吹かれてはためく。
「なんで」
「俺は、仕事を放棄したから」
「待って待って」
「でもよかった」
「待っ」
風が強くなる。髪で前がよく見えない。
「お前といれて楽しかった」
「嫌だ」
「幸せやったよ」
「なあ、急すぎるやろって」
必死に手を伸ばすが何故か届かない。目の前にいるのに。
「ありがとう。俺と」
「ねえ嫌だ」
「俺と友達になってくれて、俺と仲良くしてくれて」
「まって、置いていかな」
「できたら」
長い髪の隙間から一瞬、彼のゆがんだ顔が見えた。
「いっしょに死にたかったなぁ…」
「しゃおろ」
彼が微かに微笑んだ。
「じゃーな、大先生。いや」
「じゃーな”鬱”」
青嵐が起き、”鬱”はとっさに目をつぶった。
次に目を開けると、██は何処にもいなかった。
██の荷物ごと――まるで最初からは存在しなかったかのように、その場から消え去っていた。
鬱はしばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。
なにかを失った消失感と共に。
足元には散乱した荷物。響き渡る波の音だけが、夢の終わりを知らせる合図のようだった。
あたりは誰もいない。つい数分前までいたはずの██の声や、笑顔、気配、記憶すらも、潮風にとけてしまっていた。
「――――」
その声は風に攫われ、空に吸い込まれていく。
鬱は散乱した荷物を一つずつ拾い集め、まるで何事もなかったかのように歩き出す。
誰もいない海沿いのこの道を、いつもと同じように。
見覚えのない向日葵のキーホルダーが、手のひらの中でかすかに揺れていた。
絵の具をこぼしたような鮮やかな夏の青空は、彼のことを静かに見守っていた。
―――
あの夏の日から約一年が経ち、再び夏を迎えようとしていた。
勢い良く開かれた教室の扉からは息を切らした鬱が滑り込む。
時刻は8:50
もうすでに一限目が始まろうとしている。
「遅刻しましたぁぁっ!」
「またかお前!」
見事鬱は連続遅刻記録を更新し、もはや恒例行事となっている担任による生徒指導が始まった。
「なんでお前はこう遅刻ばっかするんだ……」
「なんででしょうね?わかってたら苦労しませんよ。」
鬱が肩をすくめ、他人事感のある発言をする。
担任は諦めたようにため息をつき、「もういい、席につきなさい」と、鬱を促した。
窓際の自分の席に腰を下ろした鬱は心の中でガッツポーズをし、ゆっくりと授業準備を始める。
そしてふと目をやると、窓の外にまばゆいばかりの若々とした青葉が広がっていた。
吸い込まれるように窓を開けると、初夏の爽やかな風が鬱を包んだ。
その風に乗って、どこか懐かしい声が鬱の横をふわりと通り過ぎていったような気がした。
風に吹かれ、彼の鞄に付けられた向日葵のキーホルダーが軽快に音を立てる。
「…?」
もうすぐ夏が来る。
あの日と変わらない夏の香りが、鬱の鼻先をかすめていった。