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ノックをして総務部長室へ入ると、段ボール箱に荷物を詰める作業をしていた屋久蓑大葉が、手を止めてこちらに視線を投げかけてきた。
倍相岳斗は、小さく吐息を落とすと、「突然なんですが、今から有給休暇を取らせて頂きたいのです」と単刀直入に用件を切り出した。さすがに業務中に突然〝今から〟だなんて、管理職に就いている岳斗が切り出すこと自体突飛な話だと思われたんだろう。
「やけに唐突だな。――理由を聞いても構わないか?」
有給休暇は、普通取得理由を会社に告げる必要はない。そのことを踏まえた上であえて問い掛けてきたのであろう大葉に、岳斗は「杏子ちゃんが……美住さんが職場で辛い目に遭っているようなので助けに行きたいんです」と答えた。
実際、自分が行って助けになるかどうかは分からない。
分からないけれど、そうせずにはいられないのだと言葉を重ねる岳斗に、大葉は「彼女の勤め先は知っているのか?」と至極もっともな質問を投げかけてきた。
「彼女の勤め先は……僕の実父の系列会社です」
あれから何だかんだと理由をつけては杏子との逢瀬を重ねてきた岳斗である。
彼女とさまざまな会話をしていく中で、杏子の勤め先はかつて自分が見切りをつけて蹴り飛ばした会社『はなみやこグループ』傘下の会社だと分かった。
はなみやこグループのことは実母・倍相真澄の死後、実父・花京院岳史のもと、従順なふりをして虎視眈々と反撃の機会を窺っていた頃に基礎的な知識は叩き込まれている。
やがては自分の後を継がせるつもりでいたのだろう。現在はなみやこグループを率いている花京院岳史から教え込まれたそれらのことは、ハッキリ言って覚えていたくもないくだらないことばかりだ。だが、知識はどんな形で武器になる日がくるか分からない。そう考えて、岳斗は父親と決別した後もはなみやこに関する情報のアップデートだけは欠かさず続けてきた。
だから杏子の勤め先を知ったとき、岳斗は何となく因縁めいたものを感じたのだ。けれど杏子自身がはなみやこ本社に勤務しているわけではないということで、彼女には特に何も告げてはいなかった。だが、その関連会社の社内で杏子がイヤな目に遭わされている、となれば話は別だ。
「はなみやこの代表取締役社長をしているクソ親父は……未だに自分を裏切った実の息子のことを諦めきれていないようで、しょっちゅう僕に連絡してきます。なので……」
岳斗はそこでじっと屋久蓑大葉を見詰めると声を低めた。
「僕は……その気持ちを最大限に利用してやるつもりです。でも……もしかしたらその結果、土恵を裏切ることになるかも知れません」
***
岳斗の真摯なまなざしを受けた屋久蓑大葉は、一瞬だけ瞳を大きく見開いたが、すぐにふっと口元を緩めた。
「本気で土恵を裏切るヤツが、わざわざそんな宣言しないだろ?」
「大葉さん……」
大葉の言葉に、ハッとしたようにこちらを見詰めてくる岳斗に、大葉は続ける。
「前にも話したがな、岳斗。俺はお前を信じてる。土恵も杏……彼女のことも、悪いようにはしない。岳斗、お前なら出来るよな?」
「……大葉さんは僕を買い被りすぎです」
一度吐息を落としてから、大葉に合わせて表情をほんの少し和らげると、岳斗がお馴染みのふわりと優しい腹黒スマイルを浮かべる。
「ま、とりあえず今は彼女のもとへ駆けつけなきゃいけないんだろ? 有給休暇の申請は後からで構わねぇから……気ぃ付けて行ってこい」
「有難うございます!」
大葉がニヤリと笑うと、岳斗が模範的なお辞儀をして部長室を出て行った。
「さて、と……」
荷物の整理も早めにつけなければいけないが、とりあえず今日は財務経理課長の穴を埋めねばなるまい。
***
土恵商事から車で約一〇分、恐らくは居間猫神社近くの杏子の住まいから三十分は掛かるであろう場所に、彼女の勤め先である『コノエ産業開発株式会社』はある。
コノエ産業は主に医療現場やクリーンルームなどで使われる手袋や、ビニールハウス向けフィルム、壁紙やコンドーム、ラップなどと言ったプラスチック・ゴム製品を中心に開発・製造・販売を行っている会社だ。
全国展開の土恵商事より規模は小さいが、そこそこに勢いはある。
農業用資材などの扱いも割と多いため、土恵とも取引があるし、土恵の契約先農家でもコノエの商品を使っているところは結構ある。
岳斗は父親への反骨精神から、はなみやこグループの関連企業の中で伸びる見込みのある会社には逐一チェックを入れているのだが、コノエ産業もそんな会社のうちのひとつだった。
(業績がいい会社って言うのはある意味好都合だな)
だからこそ、全くノーチェックの他社よりいろんな意味でやりやすい。
そんなことを思いながら、土恵商事下へあらかじめ配送手配をしていたタクシーへ乗り込むと、岳斗は「コノエ産業まで」と行き先を告げる。
コノエ産業には来客用駐車場も完備されているのはリサーチ済みだが、杏子は会社まで自家用車で通勤していると言っていた。
迎えに行って、杏子の車を置いて帰るのは忍びないし、かと言って自分の愛車を置き去りにするのは論外だ。
もちろん、別々に行動するという選択肢は元よりない。
自分の愛車は土恵の駐車場に停めてありさえすれば何とでもなる。最悪、飲み会の時なんかにそうしているように、一泊させても問題はない。
コノエ産業の近くでタクシーを降りると、岳斗は五階建ての社屋を見上げた。
――杏子のいる経理課は、何階だろう?
コメント
1件
杏子ちゃん、もう少しの辛抱よ