初夏、東京ーー。
朝、八時すぎ。人々が行き交う中、私もまた通学のため歩いていた。
私の名前は、東条 愛《とうじょう あい》、二十歳。どこにでもいる普通の女子大学生だ。
あぁ、今日は昨日よりも暑い気がする。化粧、崩れてないかな。
大学生になって、周りに影響された。容姿を気にするようになり、、次第に化粧品の種類も増えた。
大学デビューって言われてもおかしくはないだろう。
彼氏はいないし、好きな人もいない。お化粧なんてしても、私なんか、誰かに好きになってもらえるはずがない。
それはわかってるけど……。
自分を変えたいって思ってるのは事実だ。
ふと時計を見た。
今日はいつもより早い電車に乗ることができた。大学に着いても、講義が始まるまで時間に余裕がありそう。
あれ、二限目の講義ってなんだっけ?
忘れ物がないか不安になり、カバンから時間割を取り出そうとした。
資料が入ったクリアファイルがカバンのチャックに引っ掛かって取れない。アタフタしていると――。
ああっ!!
クリアファイルの中身がアスファルトの上に広がってしまった。
時間割をはじめ、自分がメモをした資料なども散乱し、広範囲に歩道に散らばってしまった。
通勤ラッシュ、駅から近い場所でもあったため、迷惑そうに人々は避けていく。
「すみません……」
スマートフォンに視線がいっているため、落ちている紙に気づかず、踏みつけていく人もいた。
ああ、恥ずかしい……。
顔が熱くなる。
通り過ぎる人は多いのに、急いでいるためか誰一人として拾ってくれる人はいなかった。
邪魔になるから、早く拾わないと……。
しかし、急ぎ通り過ぎる人たちの間をぬって拾うには時間がかかった。
ふと前を見ると、スーツに身を包んだ若い男性が手伝ってくれていた。
「ありがとうございます」
良い人もいるんだ。若そうに見えるけど、会社員かな。
道に残った最後の一枚の資料は、彼が拾ってくれた。
恥ずかしくて、顔を見ることができない。
最後のお礼くらい、ちゃんと伝えなきゃ。
視線を合わせようと顔を上げ、声をかける。
「すみません。ありがとうございました。助かりました」
その時、初めて彼と目が合った。
赤くなっている顔がさらに赤みを増す。
「どういたしまして」
身長は180センチいかないくらいだろうか。
男性にしては少し長い髪、まつ毛は長く、髭は生えていない。白い肌。二十代前半に見える。細身なのに、貧弱さを感じさせない体型。香水の爽やかな香りがした。
かっこいい……!!
心の中で叫んでしまった。
「あの、本当にありがとうございました」
思いっきり頭を下げてしまった。
心臓が脈打っているのが自分でもわかる。
そんな私を見て、彼はほほ笑み
「どういたしまして」
一言返答をし、私の大学とは逆方向に歩いて行った。
私は通行する人の妨げにならないよう道の端により、しばらく動けなかった。
ドクンドクンとまだ心臓の音が聞こえる。
これって、きっと……。
一目惚れってやつだ。
大学に着き、講義を受ける教室に入る。
私の友人、伊藤 優菜《いとう ゆうな》は先に学校に着いていて、隣の席を空けてくれていた。
「おはよう。席、ありがとう!」
声をかけると
「おはよう、もちろんだよ。前の席とか嫌だもん」
音楽を聴いていたのか、耳からイヤホンを優菜な取った。
優菜とは大学で知り合った。
入学式の席が隣で、偶然にもゼミ(クラス)も一緒になった。
話も合うため、二年間で親友と呼べるほどの仲になり、学内ではほとんど一緒に過ごしている。
優菜は実家から通学しているが、私は田舎から上京してきたため、一人暮らしだった。狭いアパートだが、予定が合えば泊りに来てくれる。
「あのさ。聞いてほしいことがあるんだけど」
講義が始まる前に今朝の出来事を優菜に話すと
「えっ。マジ?その人、神じゃん!」
優菜は興味津々というような顔で、私の話を聞いてくれた。
「生まれて初めて、一目惚れをしてしまいました」
恋愛なんてしたことがない私が、一目惚れなんて。叶うわけないのに。
「いいな。私もイケメン見たかった」
「優菜は彼氏いるじゃん」
優菜は大学は違うが、高校生の時から付き合っている彼氏がいる。
私も会ったことはあるが、爽やかな同じ歳のスポーツ男子だ。
「大学入ってもさ、バスケバスケって言って全然会ってくれないんだよね」
優菜の彼氏は、バスケットボールサークルに所属をしている。
中学の時からバスケ部、高校の時には全国大会にも出場するほどで、少しは知られているプレーヤーらしい。
「もう別れようかな」
最近の優菜の口癖だ。
「でもさ、愛が男の人をかっこいいとか私に言ってきたの、初めてじゃない?」
「そう言われてみるとそうかも」
昔から男性にはあまり興味がなかった。
クラスの女子が騒ぎ立てるような恋愛話も、誰がかっこいいとかそういった話題も、私はいつも聞いているだけだった。
男性に興味がない、いや、怖いと感じてしまうのは過去のトラウマからだと自分でもわかっていた。
私は、両親の記憶がない。
事故で亡くなったと聞いていたが本当は離婚をし、親権があった母親も自分を置いてどこかに行ってしまったという事実を後から知った。事実を知ったのは、小学校高学年くらいの時だった。「離婚」とかそういった意味を理解できるようになった年齢、クラスメイトの男子から教えられた。
「お前の母親、お前を置いて違う男の人とどっか行っちゃったんだって?」
最初は何を言われているのかわからなかった。誤解だと否定をし、帰宅をした。
私を育ててくれたのは、母の実の姉だった。
実の姉《お母さん》にクラスメイトから言われた言葉を話し、泣いた。
否定をして慰めてくれるかと思っていたけれど、現実は甘くはなく
「ごめんね。本当のお母さんは生きているの。でも、どこにいるのかわからないの」
一緒に泣いてくれた。
それから、どこでそんな話が広がったのかわからなかったが、クラスメイトからは「捨てられた子」と陰口を言われるようになった。特に男子からは話題のネタにされ、その時のトラウマから男性をしばらく恐いと思うようになった。
成長してもそれは変わらず、会話はできるが誰かと付き合うとか、恋愛に対して興味が沸かない。
義母には本当の子どもがいたし、早く高校を卒業して自立したいと考えていた。
大学に入学してからは、自分の家賃や生活費などを稼ぐために、講義がない時はバイトをしている。仕送りをしてくれると言ってくれたが、できるだけ迷惑をかけたくはない。自分で何とかできる部分は、自分で稼ごうと思った。
こんな自分が、今日初めて会った男性《ひと》に一目惚れなどという感情が生まれたのは不思議だ。
でもこれは「恋」なのではないか。こんなにも男性に対して、ドキドキするのははじめての感覚で戸惑う。
「また会えるといいね」
ふいに優菜が呟く。まるで私の心の中を代弁してくれたかのようだった。
また会いたい。
私はそう願ってしまった。
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