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「ここか…」
Bar. Aqua Blueと書かれたダークなガラス扉の前で、吾郎はゴクリと喉を鳴らす。
(ここが俺達の恋の聖地。俺も今夜、ここで誰かと出逢えるのかも?)
真顔でじっと考えてから、思い切って扉を開けた。
(おおっ!なんてスタイリッシュでオシャレな空間なんだ。まさに運命の出逢いの場にふさわしい)
照明を絞った店内の中央には、大きな水槽。
そして正面の窓ガラスの向こうには、綺麗な東京の夜景が広がっている。
ピアノの音が控えめに聞こえてきて、吾郎は思わず壁際のピアノに目を向けた。
ブラックのロングドレスをまとい、緩やかなウェーブの長い髪のピアニストが、伏し目がちにグランドピアノを弾いている。
透き通るような肌の色と明るい栗色の髪、そしてくっきりとした目鼻立ちで、見るからに外国人の血を引いているであろう美女だった。
見惚れていると、マスターに声をかけられる。
「いらっしゃいませ。どうぞお好きな席へ」
「あ、はい」
吾郎は店内をざっと見渡した。
大きな水槽を囲むカウンター席や、その周りのテーブル席は埋まっている。
窓際の二人がけのソファはいくつか空席があったが、どう見てもカップルの為の席だろうと思い、吾郎はマスターの前のカウンターチェアに腰を落ち着けた。
ウイスキーを水割りでオーダーし、吾郎は背を向けたままピアノの音色に耳を傾ける。
雰囲気たっぷりに弾きこなされるジャズナンバー。
(はあ、大人の世界だなあ。こんな雰囲気のいいバーなら、そりゃ恋の1つや2つ、いや3つか、芽生えたっておかしくない)
泉と出逢った洋平。
恋が動くきっかけとなった瞳子と大河。
思いがけない再会を果たした透と亜由美。
全ての舞台がこのバーだったとあらば、否が応でも吾郎の期待は高まる。
(今夜このバーで巡り逢えた人が、きっと俺の運命の人…)
数日前、透と亜由美の結婚式で幸せそうな二人を見たばかり。
心底羨ましくなり、吾郎は本気で恋を探そうとしていた。
その時ピアノの音色が止み、人々はピアニストを振り返って拍手する。
吾郎も振り返って、惜しみない拍手を送った。
立ち上がったピアニストはにっこりと微笑んで会釈してから、馴染み客らしい数人と軽く言葉を交わしつつこちらに歩いて来る。
やがて吾郎のいるカウンターまでやって来た。
えっ!と吾郎は目を見開く。
(も、もしや!彼女が俺の…?)
頭の中がフリーズし、身を固くしたまま横目で姿を追っていると、マスターがカウンターから出て来て彼女に声をかけた。
背の高いイケメンのマスターを見上げ、彼女は嬉しそうに微笑む。
(…あ、なるほど)
見つめ合う二人に吾郎は全てを察した。
やがてマスターが優しく彼女をハグし、耳元で何かを囁く。
彼女は幸せそうに微笑んでから、もう一度マスターを見つめ、STAFF ONLYと書かれたドアの向こうに消えた。
(はあ、がっくり…………)
わずか数秒のときめきは呆気なく終わった。
(そうだよな、そりゃそうだ。いくら何でも夢見過ぎだ)
吾郎はグラスをグイッと煽る。
(オシャレなバーだからって、そう簡単に声をかけられたりは…)
そう思った時、隣から「あれ?もしかして…」と声がした。
セリフだけ聞くと期待してしまうが、その声は明らかに男性の声だった。
真顔のまま、吾郎は声の主を見上げる。
「やっぱり!あの、アートプラネッツの方ですよね?」
「はい、そうですが?」
「実は私、半年ほど前にテレビで取材されているのを拝見しまして。とても興味を惹かれたので、近々ご連絡して仕事を依頼したいと思っていたんです」
そう言って、30代半ばに見える男性は、スーツの内ポケットから名刺を取り出した。
「私、内海不動産の原口と申します。ちょうど弊社が新しく売り出す新築マンションについて、ホームページやモデルルームでもデジタルコンテンツを駆使したいと思っていたんですよ」
一気にまくし立ててから、「あ!すみません。お隣よろしいですか?」と断って吾郎の隣に座る。
「いやー、こんなところでお会い出来るなんて。夏の御社のミュージアムにも伺いました。素晴らしい技術ですね!うちのマンションも、お客様がそこでの暮らしを想像しやすいように、ARやMRを使った楽しめるコンテンツを用意したいと思っていたんです。ファミリー向けの1000戸ほどの大規模低層レジデンスで、俺の営業マンとしての全てをかけて取り組もうと…」
男性はカバンから資料を取り出すと、次々とテーブルに広げて吾郎に熱弁をふるう。
結局この夜、吾郎が出逢ったのは運命の彼女ではなく、熱血な営業マンだった。