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人間、本当に想定外の恐怖に直面すると、悲鳴すらまともに出ないらしい。
「ひ、あ……ぶべっ!?」
七月七日、午後十一時五十五分。
私はワンルームの自室で、百均で買ったプラスチック製の笹の葉を眺めていた。律儀に飾ったものの、なんだか虚しい。今年は梅雨明けが遅くて、外はジメジメとした雨。織姫と彦星も、今年はデート中止かな——なんて考えていた矢先のことだ。
ベランダの窓が、ガタガタと不自然に揺れた。
鍵を閉めていたはずのサッシが、すうっと開く。網戸をすり抜けるようにして、一人の男が部屋に侵入してきた。
不法侵入。あるいは強盗。
最悪の事態が頭をよぎった。けれど、次の瞬間、私の鼻腔を刺したのは、この世のものとは思えない異臭だった。
「うおっ……くさっ!? え、何、ドブ!? ドブ川が溢れたの!?」
慌てて、部屋に置いてあった「ちょっと贅沢なラベンダー&バニラの芳香剤」のトリガーを狂ったように連射する。プシュー、プシューと虚しく響く人工的な花の香りと、眼前の不審者から漂う強烈な有機物の腐敗臭。二つの匂いが部屋の中で複雑に混ざり合い、結果として「ラベンダー畑に捨てられた生ゴミ」のような地獄の悪臭が完成した。
私は涙目で、手にした消臭スプレーを武器のように構えた。
「だ、誰ですか! 警察呼びますよ!」
「ひどいなぁ、美月。せっかく一年に一度のデートのために、天の川を渡って帰ってきたのに」
聞き覚えがありすぎる声だった。
低くて、少し鼻にかかった、優しくて大好きな声。三年前に交通事故で急逝した私の恋人——翼の声だ。
「え……たく、み……?」
スプレーを構えたまま、私は凝視した。
常夜灯の薄暗い緑色の光の中に、その男は立っていた。服装は、彼が生前一番お気に入りだった、セレクトショップで買ったという小洒落た開襟シャツに、細身のチノパン。着こなしは確かに翼だ。最後にデートした時も、それを着ていた。
だが、問題はその服から露出している『中身』だった。
シャツの襟元から覗く首筋は、健康的な小麦色ではなく、どす黒い緑色に変色している。ところどころ皮膚がずるりと剥がれ、下の肉が文字通り「腐って」いた。顔に至っては、右側の頬の肉が欠損しており、奥の白い歯茎と顎の骨がこんにちは、と挨拶している。残された左の目玉は、なぜか充血しきってギョロギョロと私を見つめていた。
完全なる、腐乱死体。
映画でももうちょっとCGに予算をかけるレベルの、ガチなゾンビだった。
「……え、待って。翼なの? 本当に翼?」
「そうだよー。ほら、胸のポケットを見てよ。美月が最初の記念日に買ってくれた、イルカの刺繍のハンカチ。ちゃんと持ってきたよ」
ゾンビ——否、翼は、腐りかけてドロドロになった指先で、器用に胸ポケットからハンカチを取り出してみせた。確かに私がプレゼントしたやつだ。泥と体液で見る影もなく汚れているけれど。
私の脳内で、三年分の恋しさと涙、そして疑問が一気に渦巻いた。
私はスプレーを床に置き、頭を抱えて叫んだ。
「いや、骸骨ならまだ百歩譲ってわかるけど、なんで腐乱死体なの!?」
「えっ、そこ!?」
「そこだよ! あんた、三年前の葬儀で、私も一緒に火葬場行ったじゃん! 骨上げの時、私が箸であなたの骨を、カツカツって拾って骨壷に納めたじゃん! 灰とお骨になったはずでしょ!? なんで今、絶妙に肉が残った状態で腐ってんのよ! おかしいじゃん、物理の法則が来いよ!」
翼は、露出した歯茎を剥き出しにしながら、困ったように頭を掻いた。その拍子に、頭皮から一房の髪の毛がハラリと畳の上に落ちる。少年漫画のギャグシーンみたいな抜け方だ。
「うーん、それがさ。神様が『一年に一日だけ、七夕の夜だけ現世に戻してあげる』って言って、体を用意してくれたんだけど……。なんか、神様いわく『急な発注だったから、見た目のクオリティはこれが限界。微妙だけど気にしないで!』って言われちゃって」
「気にしないって言われても……! いや、神様の予算不足か技術不足か知らないけどさ! ギャグのつもりかもしれないけど、純粋に怖いわ!!」