その日は朝から雨だった。しとしとと降り続ける冷たい雨が、街の喧騒を少しだけ静かにしている。ネクストリンクのオフィスの窓に、雨粒がリズムよく打ちつけられていた。
山下葵は、いつもより少し重たい気持ちでデスクに向かっていた。ここ最近はずっと忙しく、気持ちの余裕が持てていなかった。けれど、本当の理由は――風滝涼との関係が「曖昧なまま」だからだった。
土曜日に会ったあの夜、彼の言葉は嬉しかった。でも、「もっと一緒にいたい」という気持ちは確かに伝わってきたのに、言葉にされることはなかった。
“好き”の一言が、どうしてこんなに遠いのだろう。
そんなことを考えていた時、スマホに通知が届いた。
《今日、少し話せる? 帰り、オフィス出たところで待ってる》
風滝からだった。ほんの短いメッセージなのに、胸の奥がドクンと高鳴った。
「……わかりました。私も話したいことがあります」
返事を送る手が少しだけ震えていた。
***
仕事を終えた頃には、雨脚は強くなっていた。オフィスのビルを出ると、少し離れた歩道に風滝の姿が見えた。スーツの上から濃紺のコートを羽織り、大きな傘をさして立っている。
「お疲れさま、山下さん」
「お疲れさまです……わざわざ、ありがとうございます」
風滝は無言で傘を差し出し、自然に二人はその下に並んだ。
「雨の日って、嫌いじゃないんだ」
風滝がぽつりとつぶやいた。
「なんだか、音が静かになって、いろんなものを考えたくなる」
葵も少しだけ笑う。
「わかります。雨の音って、不思議と落ち着きますよね。ちょっと寂しくもなるけど……」
そうして二人は、並んで歩き出した。会話は多くなかった。でもその静けさは、気まずさではなく、心の距離を埋めていく優しい間だった。
そして、ふと足を止めた風滝が言った。
「……このまま曖昧なままじゃ、ダメだと思ってさ。今日、ちゃんと話そうと思ってたんだ」
葵の心臓が跳ねる。
「俺、山下さんのことが好きです。最初はただの仕事仲間だった。でも、いつの間にか、君の頑張りとか、笑った顔とか、全部が気になるようになってて……一緒にいる時間が、何よりも大切に思えてきた」
雨音が、少しだけ遠ざかった気がした。
「……だから。俺と、付き合ってください」
それは、はっきりとした言葉だった。
ずっと聞きたかった一言が、ようやく届いた。
葵は何度も瞬きをして、それから小さく笑った。
「……はい。私も、風滝さんのことが好きです。ずっと、伝えたかった」
風滝の表情が、ふっと緩んだ。まるで安堵と嬉しさが一度にこみ上げてきたように、彼は微笑んだまま立ち尽くしていた。
「なんか、変なタイミングかもだけど」
「いえ、雨の日に告白って、ちょっとドラマみたいで……忘れられないです、」
二人は笑い合った。どちらともなく手が伸び、傘の下でそっと繋がれた指先が、何よりもあたたかかった。
「これからは、ちゃんと言葉にしていくよ」
「私も、ちゃんと伝えます」
雨はまだ降り続いていたけれど、二人の心の中にあった不安は、静かに溶けていった。
この日――風滝涼と山下葵は、はじめて“恋人”になった。
第7話 終わり
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