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付き合い始めて最初の月曜日。
ネクストリンクのオフィスは、いつも通りの忙しさに包まれていた。
けれど、山下葵の心の中はまるで別世界だった。
週末、雨の中での告白。そして、風滝涼と交わした「はい、!」の言葉。
まだ夢のようで、ほんの少し信じられない気持ちと、胸いっぱいの幸福が交差している。
「……おはよう、山下さん」
風滝が通りすがりに、ほんの少し柔らかい声で挨拶をしてきた。
いつもと同じように見えて、いつもより少しだけ近い視線。
その違いに気づくのは、おそらく葵だけだ。
「おはようございます、風滝さん」
いつも通りに返したつもりだったのに、どうしても声がわずかに上ずってしまう。
数人の同僚がすぐ近くにいた。だからこそ、自然にふるまわなければならない。
まだ、誰にも言っていない。社内恋愛。
だからこそ、2人の関係は「秘密」で、「特別」だった。
***
お昼休み。
オフィスビル1階のカフェスペースで、葵がひとりでサンドイッチを食べていると、風滝がそっと隣に腰掛けた。
「隣、いい?」
「……もちろんです」
普段なら、なんでもない同僚同士のランチのはずなのに。
たったそれだけの言葉で、葵の心臓は跳ねるように動いていた。
風滝はさりげなく声を潜めるようにして言った。
「昨日のこと、何度も思い出してた」
「……私もです」
それだけで、2人の間にふわりとした空気が流れる。
ただ、ここは社内。誰が聞いているかわからない。
「……バレたら、気まずくなるかな」
風滝がカップのふちを指でなぞりながらつぶやいた。
「でも、ちゃんと伝えたい気持ちもあるんだ。君のこと、大事にしてるって」
葵は小さく笑って首を横に振った。
「……今は、私たちだけが知ってる“関係”って、それだけでちょっと嬉しいです」
そう言うと、風滝の目尻が優しく緩んだ。
***
午後のミーティング。
2人は別々の部署の人たちと同じ会議室に座っていた。
隣同士になるように仕組んだわけではなかったのに、なぜかいつも視線が合う。
ふとした瞬間、手元のノートに視線を落としたふりをしながら、指先がほんの一瞬だけ触れる。
それだけで、頭が真っ白になるくらいにドキドキする。
――こんなにも、誰かと「こっそり繋がっている」だけで、世界が違って見えるんだ。
***
夕方、定時を少し過ぎた頃。
葵がPCをシャットダウンしていると、Slackに通知が入った。
《少しだけ、屋上で話せる?》
社内の人にはほとんど知られていない、開発棟の小さな屋上テラス。
ほとんど使う人もいないその場所で、2人は並んで立った。
もう空は夜に変わりかけていて、ビルの灯りがぽつぽつとともり始めていた。
「……山下さん。いや、葵」
その名を、初めて“呼び捨て”で言われた気がした。
名前が、自分のものじゃないみたいに、柔らかく響く。
「これから、きっといろいろあると思う。気をつけないといけないこととか、距離の取り方とか……でも、何があっても、ちゃんと向き合うから」
葵は、ゆっくりと頷いた。
「私も、ちゃんと話し合って、支え合っていきたいです。恋人として、仕事仲間としても」
その言葉に、風がほっとしたように笑った。
「じゃあ……ご褒美に、ひとつだけお願いしてもいい?」
「え?」
風間は周囲を確認して、誰もいないのを確かめると、葵の手をそっと握った。
それは、ほんの短いキスよりも長く、優しく、あたたかい触れ方だった。
「……好きだよ」
葵の頬が赤く染まるのを見て、風滝は満足げに微笑んだ。
「明日も仕事頑張ろうな、“彼女さん”」
「……はい。よろしくお願いします、“彼氏さん”」
夜風に吹かれながら、2人はそっと指を絡め合った。
まだ誰も知らない、2人だけの恋が、静かに深まっていく――。