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楓弥side
「……また明日」
そう言い残して、えいくんは背を向けた。
薄暗いスタジオに、スティックを置いた音がコツンと響いて、
まるで、その音がふたりの距離を切り離すようだった。
俺はただ、そこに立ち尽くすしかなかった。
照明の落ちた室内に、残っていたのは、
リムショットの余韻のような静けさと、
胸の奥で、かすかに軋む心臓の音だけ。
えいくんの背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。
一歩、二歩と。
暗闇に溶けていくその姿を、何もできずに見送った。
声をかけたら壊れてしまいそうで。
追いかけたら拒まれてしまいそうで。
だから、ただ――
リムに残った手の熱を、そっと握りしめて、目を閉じた。
次の日の朝は、どこか空が霞んで見えた。
曇りでもないのに、太陽がやけに白くて。
その光の中、スタジオへ向かう足取りが、妙に重たく感じた。
けど、リハーサルが始まってしまえば、
いつもの時間が、ちゃんと流れていった。
メンバーの笑い声。
スタッフの掛け声。
リズムに合わせた軽快な動き。
何も変わってない。
そう振る舞わなきゃいけなかった。
でも――
えいくんと目が合った瞬間だけ、
時間が、ふっと止まったような気がした。
視線の中に、昨日までとは違う何かが宿っていて、
それが何かを語るようで、でも何も言わないようで。
沈黙の隙間に、小さな鼓動が生まれていた。
***
リハが終わる頃。
スタッフがいなくなったスタジオの片隅で、えいくんが俺の袖を引いた。
指先は、ほんの少しだけ冷たくて、
でもその力は、どこか震えているようだった。
「ふみや。ちょっと……来て」
廊下の奥。
防音の壁に囲まれた空間は、外の喧騒とは切り離されたように静かで、
空調の音すら聞こえないほどだった。
空気が張りつめる。
互いの呼吸だけが、そこにあった。
「この前は……ごめん」
えいくんが、ぽつりとつぶやいた。
その声は、まるで何かを押し殺すように震えていた。
「謝ること、ないです」
即座にそう返した俺の声も、
少しだけ掠れていたかもしれない。
えいくんは、ゆっくりと顔を上げて言った。
「あるよ。……ふみやの気持ち、知ってたのに、ずっと気づかないふりしてた」
薄い照明の下、その目はどこまでもまっすぐだった。
ずっと見上げてきた背中。
憧れて、追いかけて、何度も遠いと思ったその人が――
今、俺だけを見てる。
「……好きだよ、ふみや」
その言葉が、深く静かに落ちてきた。
まるでスネアに一打を置いたみたいに、俺の中心に響いた。
言葉の意味が、ゆっくりと胸に沁みていく。
俺の世界が、その一言で、やっと色づいた気がした。
「でも、怖かった。年も上だし、先輩だし……」
「関係ないです」
即答だった。
迷いなんて、もうなかった。
「先輩とか、年とか、そんなのどうでもいい。俺は、えいくんが、好きで……」
言いかけたところで、えいくんの手が、そっと俺の手に重なった。
あたたかい。
でも、少しだけ震えてる。
俺と同じだ。
不安も、想いも、全部、共有してる。
「……もう、知ってるよ」
その言葉が、やさしくて、胸がいっぱいになった。
「……ふみや」
「……えいくん」
互いの名前を呼び合っただけなのに、
まるで全てを許されたような、そんな気がした。
気づけば、自然と顔が近づいていて。
ほんのわずかに目を閉じると、
ふたりの距離は、何の音もなく重なった。
そっと触れるだけの、初めてのキス。
だけど、今までのどんな言葉よりも、
ずっと、あたたかくて、確かなものだった。
その夜。
ひとりきりの部屋は静かだったけど、
心はずっと、あのキスの熱を覚えていた。
明かりを落として、ベッドに潜り込んで、
それでも眠れなくて。
スマホを手に取る。
えいくんの名前を表示して、少し迷ってから、
短いメッセージを打った。
「“明日”が、また来てよかった」
送信ボタンを押したあと、
胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。
たったひとつの「明日」が、こんなに嬉しくて、
こんなに愛おしくて。
ようやく、ふたりで同じ景色を見られる。
それが、こんなにも幸せなことだったなんて。
この先、どんな“明日”が来ても。
隣に、えいくんがいてくれたら、
それだけで――もう、充分だった。
永玖side
「“明日”が、また来てよかった」
夜の静けさのなか、スマホにぽつんと灯る通知。
その文字を見た瞬間、
胸の奥に、小さな火が灯ったような感覚がした。
言葉はたった一行。
どこか不器用で、でもまっすぐで。
……ふみやらしいな。
画面越しに感じる体温が、手のひらに残るようで、
思わずスマホを胸元に引き寄せた。
部屋の明かりは落としていたけど、
そのメッセージだけが、まるで夜をやさしく照らしてくれていた。
布団の中、心臓の音がじんわりと響いている。
この想いを、どこまで伝えていいのか。
どこまで言葉にしていいのか。
まだ、正直なところ自信なんてない。
けど、たった今、ふみやが“明日”をくれた。
だから俺も、勇気を出して返した。
「……俺も、そう思ってた」
拙くて、頼りないかもしれない。
でも、これが今の俺の精一杯だった。
あの夜――
薄暗い廊下の隅で、言葉を飲み込もうとした唇から、
どうしても止められなかった言葉が落ちた。
「好きだよ、ふみや」
口にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
肩に背負っていた“先輩”という立場。
年齢差、責任、世間の目。
守るべきものだと思っていたそれらが、
実は、自分を守るための言い訳だったって気づいてしまった。
ふみやの、あのまっすぐな目を見ていたら、
もう、隠し続ける理由が見つからなかった。
強くて、優しくて、
そして誰よりも俺を見つけてくれる、あの眼差し。
俺の弱さも、迷いも、
丸ごと抱きしめようとしてくれるその存在が、
どうしようもなく愛おしくて。
気がついたら、自分から手を伸ばしていた。
ふみやの唇に、そっと触れた。
わずかな温度が、
静かに胸の奥まで広がっていく。
たった数秒だったけど、
まるで時間が止まったような感覚だった。
触れた唇の感触。
その向こうにある、想いの熱。
全部が、心に刻まれて消えない。
こんなふうに人を好きになるなんて、
今までの人生で、想像もしてなかった。
でも、もう――
戻れない。
戻りたくもない。
次の日。
スタジオに入ると、空気が少し違って感じた。
朝の光がレース越しに差し込む控室。
わずかに漂う整髪料の匂い。遠くから聞こえるチューニングの音。
その全部が、なぜかいつもより鮮やかに感じる。
ふみやは、すでにリハの準備をしていて、
俺に気づくと、ちょっと照れたように目を伏せた。
その表情だけで、胸があたたかくなる。
まるで、誰にも気づかれないように交わした小さな秘密。
リハーサルが始まれば、いつもと同じように時間は流れていく。
けど、ほんの些細な瞬間。
音と音の間に、
何気ない会話のすき間に、
ふみやと目が合うたびに、心の奥が優しく波打った。
まるで音楽みたいに、
呼吸のリズムが自然と合っていく。
何も言わなくてもわかる。
たった一日の変化が、こんなにも世界を変えるんだって。
俺にとって――
ふみやは、もうただの“後輩”なんかじゃない。
ふざけあって笑い合っていた頃には戻れない。
だけど、今のほうがずっといい。
こんなにも大切な人がそばにいる。
そう思えたことが、何よりの強さになった。
スティックを握る手にも、もう迷いはない。
音が、素直に出てくる。
心と繋がったドラムが、まるでふみやへの想いを語っているようだった。
ふと視線を向ければ、ふみやがこっちを見ていた。
唇の端を、ほんの少しだけ上げて。
俺も、わずかに目元で笑った。
互いに言葉は交わさない。
でも、音と目線だけで伝わることがある。
“おはよう”も、“大丈夫”も、“好き”も――
俺たちは、それを知っているふたりになった。
そして、これからの“明日”も。
きっとふたりで、音を重ねていける。
そんな確信が、
ドラムのリズムの奥で、静かに脈打っていた。
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