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シャリーに連れ去られてから何度目かの夜が更け、何度目かの入相の鐘を聞く。今夜も今夜とて月は哀れな囚われの娘に微笑みかけるだけで助けを寄越しはしない。シャリーがいない時に周囲に【呼びかけ】、助けを求めるが話し相手以上にはならなかった。
シャリーがメルコーの街で買ってきた堅い麺麭と野菜の欠片が入った塩水のような汁物の食事を摂る。冷たくて侘びしい。なぜ同じ革袋に入れて持って帰るのだろう。お陰で少しばかり麺麭が柔らかくはなるが、浸すかどうかは自分で決めたいものだ。
「魔術を使って良いですか?」とユカリは尋ねる。
シャリーは同じ食事を不味そうに食べた後、部屋の端に座って魔導書を床に並べ、とりわけ『我が奥義書』の中身を見ている。
シャリーがいる時だけ両手足は自由を得たが、何かする時は許可を貰う決まりになっている。
「皿の上の料理を温めなおす魔術です」
ベルニージュに習ったもののついぞ使う機会のなかった魔術だ。
シャリーはユカリの持つ革袋を見つめて言う。「それは皿ではないが」
「物は試しです」
「じゃあ駄目だ」
ユカリは子供っぽく膨れっ面をするが、それを見た者は誰もいない。
シャリーは無口だが横暴ではなかった。多少の軽口は聞き流してくれる性格で、監禁生活ながらユカリはそれほど辛くは感じていなかった。食事以外。
「じゃあ暖炉を使っていいですか?」とユカリは尋ねる。
「構わないが、寒いのか?」とシャリーは魔導書から目を離さずに言った。
「まあ、寒いのもありますけど。夜って焚火したくなりません? 焚火じゃないですけど」
ユカリがそう言うとシャリーは顔を上げ、自身が攫ってきた少女の顔をじっと見る。
「火が好きなのか?」とシャリーに尋ねられる。
「いえ、別に好きとか嫌いとかはないですけど」妙な問いに戸惑いつつもユカリはそう答えて、シャリーの様子を探るようにゆっくりと立ち上がり、静かな暖炉を検める。
ずっと使われていないようだが、煙突には何も詰まっていない。脇に積まれた乾いた薪も十分な量だ。ここ数日なぜ火を熾すことを思いつかなかったのだろう。火かき棒で灰を除けながらユカリは思い、考える。
それにシャリーが魔導書を眺めて考え事をしている姿はここ数日で初めて見た。あのドボルグたちとの密会での会話から考えるに、シャリーはどこかの国から魔導書を得るために遣わされたらしい。もしもあれだけの魔導書を持ち帰れたなら、きっと国の英雄として祭り上げられることだろう。
その為に築かれた荘重なる凱旋門には英雄とその偉大な所業が刻まれる。人々は大いに讃え、神々もまた掘り刻んだばかりの新しい祝福を給うことだろう。王は英雄に永劫の栄誉と勲を授け、その帰還を記念する日を設ける。そして魔導書は、その力はその国の更なる興隆のために振るわれ、戦火を振り撒き、憎悪を煽り、栄光と名声を希求する勇士たちはその国に目をつける。消えぬ火種は終末の日まで燻り続ける。
「火打石と打ち金をください」と頼むとシャリーはユカリの合切袋を勝手に漁って放って寄越す。「あと火種、小枝か紙か何かあります? いえ、合切袋には入ってないです」
「魔導書くらいしかないな」
冗談だろうか? 分からないのでユカリは真面目に返す。「いえ、魔導書は燃えないです」
「そうか。そうだな。拾って来よう」
拾ってきてくれるんだ、とユカリは心の中で呟く。そして魔導書を抱えて外へ行くシャリーを見て、妙な満足感を覚える。
満足感? ユカリはいまの状況に相応しくないその感覚に得体の知れなさを感じる。
その正体に気づく前にシャリーは戻ってきた。
「小枝どころか。木がほとんど生えてないな」とシャリーは言う。「薪を一本、寄越してくれ」
そう言われてユカリが薪をシャリーの方へ放ると、空中で突然破裂して木屑になった。ユカリは悲鳴を堪えた代わりに仰け反る。
「木を破砕する、魔法?」とユカリは呆然と呟く。
「斬っただけだ」とシャリーは難なく言ってしゃがみ込み、木屑を掻き集める。
ユカリにはシャリーの言った意味が分からなかったが、その強力な剣士が律義に木屑を集めて持ってくる前に薪を組み上げる。使い古された呪文と新鮮な火花を散らし、さっきまで薪だった木屑に火を灯し、時間をかけて薪に移していく。
「木を切る魔法が使えるなら初めから使ってくださいよ」とユカリは横で覗き込んでいるシャリーに言う。
「魔法? 剣で斬っただけだ」と言ってシャリーは剣の柄頭をとんとんと指で叩く。
「剣で木を切る魔法ってことですか?」とユカリは幼い火を見守りながら言う。
「貴様が何が言いたいのか分からん」と言ってシャリーはため息をつく。
「だって抜刀どころか刃の閃きすら見えなかったですよ。魔術じゃなければ……そんなの人間に出来っこないです」
それでもシャリーはやはりユカリの言っていることが分からないようだ。
シャリーは不思議そうに尋ねる。「魔術を使った場合は人間がやったことにはならないのか?」
その何気ない問いにユカリは頭を打たれたような衝撃を受ける。魔術もまた人間の知恵で力で技だ。その境目がどこにあるのかも知らないまま、無自覚に分けていたことを気づかされる。
火を育てながらユカリは呟く。「言われてみればそうですね。何でそんな風に考えていたんだろう。魔術は人から教わるものだからでしょうか?」
「剣術もそうだろう。少なくとも私は自ら作り上げた剣術など一つも持っていない。全て教わったものだ。自慢できることではないが」
しかし、そうは言っても、とユカリは考える。人間が目にも映らぬ速さで剣を振るって薪を微塵切りに出来るだなんて信じられる話ではない。もしかして人間ではないのだろうか。
「とにかく何らかの、すごい才能の持ち主ってことですね、シャリーさんは。それにその力を人の役に立ててる」
「そうだな」とシャリーは肯定した。
ユカリは皮肉のつもりだったが、シャリーにとっては本当に誰かの為の仕事なのかもしれない、と気づき、少し嫌な気持ちになる。
「そういえばさっき、魔導書を眺めてどうかしたんですか?」ユカリは取っておいた麺麭を火で焙りながら尋ねた。
「いや、厄介な魔導書だと思ってな。なぜ貴様の手元に戻るんだ?」
「さあ。それを知るのも私の旅の理由の一つですよ」
「『禁忌の転生』とは関係があるのか?」とシャリーが言う。
ユカリは驚いてシャリーの方を振り返る。シャリーは燃え盛る火を見つめている。
「何ですか? 何の話ですか? それ。知りたいです。教えてください」とユカリは希う。
麺麭が良い香りを放ち始めて火から離すが、口にはせずシャリーの返事を待つ。
シャリーはさしたることではないかのように話し始める。「恩寵審査会の寺院に忍び込んだ時にクオルとかいう尼僧の記録を読んだ。ある研究を称して『禁忌の転生』と呼んだとか。詳しいところは分からなかったが、その尼僧の熱意だけは伝わったな」
まさかシャリーの口からクオルという名が出て来るとは思わなかった。当然だ。実際のところ、それは偶然の所業で、二人に接点はない、はずだ。
ユカリはクオルの話した忌まわしい実験を思い出す。生まれながらにして力ある子どもを作る魔術の開発。その研究の呼び名が『禁忌の転生』ということだろうか。