テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
白波 灯
219
鬼霧宗作
303
超音波写真を見つけた日の夜、遼介を問い詰められなかった。
写真は看護師の取り違えだった可能性がある。『私たち』が真帆と夫の航平を指している可能性も、理屈の上では残っている。
何より、怖かった。
確かめてしまったら、もう知らなかった頃には戻れない。写真の裏の言葉を、ただの勘違いだと思っていたかった。
玄関の呼び鈴が鳴ったのは、私が夕食の支度を始めた頃。
扉を開けると、大きなキャリーケースを二つ抱えた妹の莉央が立っていた。
「お姉ちゃん、助けて」
二十四歳の莉央は、都内のアパレル会社で販売企画をしている。私より華やかな顔立ちで、流行にも敏感だ。昔から人に頼るのがうまく、母や私が結局は折れることを知っている。
「どうしたの、その荷物」
「上の部屋から水漏れ。天井も壁もびしょびしょで、修繕が終わるまで住めないって」
「お母さんのところは?」
「職場まで遠すぎるよ。二週間だけでいいから、ここに置いて」
私が返事をする前に、リビングから遼介が出てきた。
「莉央ちゃん、来たんだ」
「お義兄さん。急にごめんなさい」
「電話で聞いてるよ。大変だったな」
私は二人を見比べた。
「電話したの?」
「うん。お姉ちゃん、手術中かもしれないと思って。先にお義兄さんへ聞いたの」
「俺がいいって言った。客間は空いてるし、家族なんだから問題ないだろう」
夫婦の家へ泊まる話を、私より先に決めていた。
胸に引っ掛かるものはあったが、水漏れが本当なら追い返せない。
「二週間だけね」
「ありがとう、お姉ちゃん」
私へ抱きつき、そのまま慣れた様子でキャリーケースを客間へ運んだ。
夕食時、遼介をまじまじと見た。
「お義兄さん、会うたびに格好よくなるよね」
「そうか?」
「うん。昔の写真と全然違う。お姉ちゃんの作品みたい」
遼介の箸が止まった。
「俺は誰かの作品じゃない」
「ごめん。褒めたつもりだったんだけど」
軽く笑ったが、遼介の口元は硬い。
私が眼鏡や服を選んだことを、以前の遼介は喜んでいた。女性から褒められれば、「妻のおかげです」と笑っていた時期もある。
いつから、それを侮辱のように受け取るようになったのだろう。
食事を終えると、私のお気に入りのエプロンを勝手に着けた。
「洗い物、私がやるよ」
「いい。初日なんだから休んで」
「居候なんだから、これくらいさせて」
皿を洗うだけならありがたい。そう思ったのに、翌朝には遼介のシャツへアイロンを掛け、次の日には彼の好物を作り始めた。
「どうして遼介の好きなものを知ってるの?」
「前に聞いたよ。鶏肉のクリーム煮が好きだって」
「私、話した?」
「お義兄さん本人から」
屈託なく答えた。
遼介からも否定はない。
私の当直の日は、必ず早く帰宅した。二人で映画を見た話、近所の店へ買い物に行った話を、翌朝楽しそうに聞かされる。
「お姉ちゃんも一緒ならよかったのに」
「仕事だったから仕方ないでしょう」
「医者って大変だね。私なら、夫を一人にする仕事は無理かも」
問い詰めても、きっと「冗談だよ」で逃げられる。私が怒れば、気にしすぎだと笑われる。そういう、ずるい言い方だった。
ある朝、洗面台に置いた香水の減りが早いことに気づいた。
「莉央、これ使った?」
「少しだけ。お姉ちゃんと同じ匂いなら、お義兄さんも安心するかなって」
冗談めかして笑う。
「勝手に使わないで」
「ごめんごめん。そんなに怒らないでよ」
遼介が新聞越しに私を見る。
「香水くらい貸してやればいいだろう」
「量の問題じゃない」
「最近、細かいな。疲れてるんじゃないか?」
遼介と莉央の間で、私だけが神経質な人間にされていく。
莉央は五歳年下で、子どもの頃から人の懐へ入るのがうまかった。
父が亡くなったあと、私は母を困らせないよう勉強と家事を覚えた。莉央は泣きたい時に泣き、欲しいものを口にした。母がどちらを愛したという話ではない。ただ、姉は我慢できる子、妹は守らなければならない子という役割が、いつの間にか家の中で固まっていた。
莉央がアパレル会社へ就職した時、私はスーツを贈った。初めて一人暮らしをする時には、家電の購入費も貸した。返済は急がなくていいと言ったまま、まだ全額は戻っていない。
だから、大きなキャリーケースを引いて現れた妹を、最初から疑うことはできなかった。
「二週間だけだから。迷惑は掛けないよ」
「客間は自由に使って。合鍵は?」
「お義兄さんが作ってくれるって」
「もう話したの?」
「だって、お姉ちゃんは仕事中だったし」
遼介へ先に連絡したことを悪びれない。
夕食のあと、食器棚を開け、私が普段使う皿を迷わず取り出した。何度も遊びに来ているから知っていても不思議ではない。それでも、自分の家の中を自分より滑らかに動く妹を見ていると、薄い膜を一枚ずつ剥がされるような落ち着かなさがあった。
「お義兄さん、明日は何時に帰る?」
「手術次第かな」
「じゃあ、遅くても食べられるものにしようかな」
「莉央が作るの?」
「居候代。お姉ちゃんも助かるでしょう?」
私へ向けた笑顔は明るい。断れば、妹の善意を疑う姉になる。
入浴後、私の基礎化粧品を使い、洗面台の前で髪を乾かした。
「お姉ちゃん、最近この香水使ってないよね。借りてもいい?」
「勝手に使わないでって言ったでしょ」
「減るものでもないのに」
「減るでしょう」
「細かいなあ」
笑いながら、香水を元の位置へ戻した。
遼介はそのやり取りを見て、「姉妹って面白いな」と笑った。私だけが、笑えなかった。
夜中に水を飲もうと寝室を出ると、リビングから二人の声がした。ソファの肘掛けへ腰を乗せ、遼介のスマートフォンを覗き込んでいる。肩が触れるほど近い。
「お姉ちゃんには、この写真見せない方がいいよ」
「どうして」
「昔の方が好きって言われたら嫌でしょう?」
二人が笑う。私の足音に気づくと、すぐ離れた。
「何の写真?」
「医学部の頃の俺。莉央ちゃんが見たいって」
「見せて」
「恥ずかしいから駄目」
夫はスマートフォンを伏せた。莉央の視線だけが、私の顔を探るように動いた。
翌朝、母へ莉央の水漏れについて連絡しようか迷った。だが、二週間で戻るなら大げさにしたくないと思い、やめた。
その時の私は、妹が持ち込んだのが荷物だけではないことを、まだ認めたくなかった。
その夜、真帆からメッセージが届いた。
『この前の写真、遼介さんに渡してくれた?』
私は返信せず、写真を保管した封筒を確かめた。
まだ渡していない。
それなのに、浴室から出てきた遼介が私へ言った。
「真帆ちゃんの赤ちゃん、順調なんだってな。写真もきれいに撮れてた」
背筋が冷えた。
「写真、見たの?」
「ああ……真帆ちゃんから送られてきた」
「どんな写真だった?」
「普通のエコー写真だよ」
私が持っている二枚とは別に、真帆は遼介へ直接送っていた。
画面越しでは足りず、私を使って原本まで渡そうとしたのだ。
背後で、莉央が静かに会話を聞いていた。
視線が合うと、妹は口元だけで笑った。
コメント
1件
うわ、このエピソード、じわじわ来ますね……。妹・莉央の「お姉ちゃん、助けて」が最初はただの水漏れ避難だと思わせておいて、読んでいくうちに家の中にいつの間にか居場所を奪われていく感覚がリアルで、すごく怖かったです。特に、夫のシャツにアイロンをかけ始めた場面や、基礎化粧品を勝手に使う細かい行動が、善意の皮を被った支配に見えてきて。最後の真帆からのメッセージと遼介の「写真見たよ」で、もう何層にも重なってる伏線が一気に不気味さを増しました。「妹が持ち込んだのが荷物だけではない」——この一文が効いてる。次が気になります。