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白波 灯
219
鬼霧宗作
303
真帆が安定期へ入る頃、遼介は妊娠経過を隠さなくなっていた。
「つわりは落ち着いたのか?」
「誰の?」
「真帆ちゃんだよ。そろそろ十六週だろう」
夕食の席で、当然のように口にした。
「週数まで知ってるのね」
「前に相談されたから」
「予定日は?」
「そこまでは知らない」
一拍置いた答えだった。
私は味噌汁の椀を置く。
「真帆の夫の航平さんは、妊娠を知ってる?」
「俺に聞かれても分からない」
「遼介の方が詳しそうだから」
向かいに座る莉央が、箸を止めた。
「真帆さんって、お姉ちゃんの親友だよね。お義兄さんとも仲いいんだ?」
「妊娠の相談を受けただけだ」
「脳外科なのに?」
「医師なら一般的なことは分かる」
「ふうん」と笑った。
食事を終えると、逃げるように書斎へ入っていく。
私は莉央へ向き直る。
「何か知ってる?」
「何を?」
「遼介と真帆のこと」
「知らないよ。お姉ちゃんの方が親友でしょう?」
軽い口調だった。けれど、視線を合わせなかった。
その週、私が当直の夜に電話を掛けると、莉央が出た。
『あ、お姉ちゃん』
「遼介は?」
『一緒に映画見てる。お義兄さん、明日休みなんだって』
「遼介、電話に出られる?」
『今、シャワー』
自宅の浴室を使う夫と、それを知る妹。夫婦の家なのに、私の方が外から確認を取っている。
電話を切ったあと、胃の奥が重く沈んだ。
翌朝帰宅すると、リビングのソファに毛布が二枚落ちていた。テーブルには空いたワインのボトルと、グラスが二つ。
「映画見ながら飲んで、そのまま寝ちゃった」
莉央が説明する。胸元の開いた部屋着を着ていた。
「客間で寝なかったの?」
「眠くて動けなかったの。お義兄さんは先に寝室へ行ったよ」
「二人でワイン一本?」
「少しくらいいいでしょう。私、成人してるよ」
遼介が寝室から出てきた。
「朝から何を揉めてるんだ」
「莉央との距離が近すぎると言ってるの」
「妹だろう」
「私の妹であって、あなたの妹じゃない」
「義理の妹は家族だ。何を疑ってる?」
真帆のことを疑っている私に、同じ言葉を使う。
家族だから疑うな。親友だから信じろ。
そう言われたら、疑った私だけが嫌な人になる。……ずるい。信頼を盾にしているのは、私じゃない。
「最近の千紘はおかしい。患者にも影響が出てるんじゃないか?」
「どうして、それを知ってるの」
「何?」
「私が仕事で集中を欠いたことを、誰から聞いたの?」
遼介の顔が僅かに固まった。
「真帆ちゃんが、検査中に揉めたと言っていた」
「患者の検査内容を、あなたと話したのね」
「大げさに取るな。友人同士の会話だろう」
「私の患者よ!?」
「その前に友人だろ」
苛立った声を残し、洗面所へ向かった。
もう、ここだけは曖昧にしちゃいけない。
私は自分の中で線を引いた。真帆の担当を外れよう。
疑惑が事実であろうとなかろうと、今の私が親友の妊娠へ冷静に向き合えない以上、それが患者のためだった。
病院へ着くと、上司へ事情を全ては明かさず、個人的関係を理由に担当変更を申し出た。
「もともと友人なら、その方がいいかもしれない。次回から別の先生へ回そう」
了承を得て、肩の力が少し抜けた。
慧の言葉を認めたようで腹立たしかったが、患者を守る選択として間違いではない。
昼休み、真帆へ担当変更を伝える電話をした。
『どうして? 千紘に診てほしい』
「親しい友人を継続して診ることに、私情が入る可能性があるから」
『榊原さんに何か言われたの?』
「これは私の判断よ」
『私、千紘じゃないと不安なの』
「ほかの医師へ、必要な情報は引き継ぐ」
しばらく黙った。
『遼介さんは、千紘なら安心だって言ってたのに』
「どうして遼介が、あなたの担当医を決めるの?」
電話の向こうで息を呑む音がした。
『そういう意味じゃない』
「じゃあ、どういう意味?」
『……ごめん。仕事に戻るね』
電話を切ったあと、私はしばらく診察室の椅子から立てなかった。
真帆の声だったと断定できる。大学時代から何度も聞いた、少し鼻に掛かる声。旅行先でタオルの場所を聞く時まで、彼女は語尾を上げる。
もう一度電話を掛けると、遼介は出なかった。代わりに数分後、短いメッセージが届く。
『救急対応に入る。後で連絡する』
病院にいないことを知っている。なのに彼は、なお仕事を言い訳に使った。
私は共有カードのホテル予約画面を開いた。宿泊者名は遼介。二名利用。チェックイン時刻は、彼が病院を出た直後になっている。
予約確認書を保存し、印刷する。手が震えたが、ファイル名には感情を入れなかった。日付、店名、金額。それだけ。
帰宅すると、莉央が一人で夕食を食べていた。
「お義兄さん、当直じゃないの?」
「そう聞いてる」
「じゃあ帰らないね。お姉ちゃんも食べる?」
「今日はいい」
箸を止め、私の顔を見た。
「何かあった?」
「遼介に聞いて」
「夫婦のことに、私を巻き込まないでよ」
あまりに素早い拒絶だった。私はホテルのことも、真帆の声も話していない。
「何も言ってないでしょう」
「顔が怖いから。私、お義兄さんと仲良くしてるだけで疑われてるみたいだし」
「自覚はあるのね」
「姉の夫と話しちゃいけないの?」
食器を流しへ置き、客間へ戻った。扉が閉まった直後、廊下の向こうで小さく通知音が鳴る。続けて、彼女の笑い声。
誰と連絡を取っているのか尋ねる権利はない。けれど、妹の態度もまた、私へ知られたくないものを隠している人間のそれだった。
翌朝、遼介は七時前に帰宅した。白衣を持っていない。シャツには病院では嗅いだことのない甘い香りが残っていた。
「当直、お疲れさま」
「ああ。忙しかった」
「何人、救急が来たの?」
「三人くらい」
「へー。脳外科の当直は、昨日は別の先生だったよ」
遼介の手が止まった。
「急に呼ばれたんだ」
「どこへ?」
「関連病院」
「真帆も一緒に?」
私を睨んだ。
「何を言ってる」
「電話の後ろで声がした」
「看護師だろう」
「真帆の声を聞き間違えない」
「証拠がないのに決めつけるな」
否定する言葉より、「証拠」という言葉が先に出た。
私は印刷したホテルの予約確認書を見せなかった。今ここで問い詰めても、言い訳を作る時間を与えるだけだ。
「分かった。今は何も言わない」
「分かればいい」
安心した様子で浴室へ向かった。
その背中を見送りながら、決めた。
もう、言葉だけでは信じない。私が見るのは、遼介が残した事実の方だ。
夕方、病棟の看護師から、脳外科の当直表が変更になったと聞いた。
「久世先生、今夜の当直を急に代わってもらったみたいですよ。奥様と予定でもあるんですか?」
私は今夜も当直だ。
遼介からは、彼も当直だと聞いている。
仕事を終えたあと、共有しているカード明細を開くと、当日の日付で都内のホテルが予約されていた。
私は画面を保存し、遼介へ電話を掛けた。
『どうした? 今、忙しい』
「病院にいるの?」
『当直中だと言っただろう』
背後で、聞き慣れた女の声がした。
『遼介さん、タオルどこ?』
真帆だった。
コメント
1件
うわ、今回もすごかった……。千紘の冷静な観察眼が逆に痛々しいわ。最後の「タオルどこ?」で全部確定しちゃった感じがして、ここまで来るともう息が詰まるよ。夫に「証拠がないのに決めつけるな」って言わせておいて、千紘はちゃんと証拠残してるのがまた切ない。真帆の「千紘じゃないと不安」も、あれは単なる依存じゃなくて、千紘のポジションを奪い取るために言ってるようにしか聞こえなかった……次回、どう動くんだろう。続きめっちゃ気になる🔥