テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
この物語はキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
リアスとの出会いの後。
地下へと続く古びた階段を降りた先、静寂が降り積もった観測機関の元研究室。
その研究室は、かつて因果音の研究がされていたと言われている。
だが今は、音も、何も無く、薬品やガラスが床に散りばめられていた。
「……この部屋。散らかってるな」
「ええ、もう。誰もいないもの。」
イロハは一歩踏み出し、部屋の中を調べる。
レンも後に続くように足を踏み入れた。
ホコリの被った棚には、薬品やなにかの機械がいくつも置かれている。
「……なんだろ、この機械。」
レンはひとつの小さな機械を取り出す。
「きっと、研究に使っていたのではないでしょうか。」
「……そうか、でもさーー。」
レンがイロハの方に振り向く。
「因果音の研究なんだろ?じゃあなんでそこに、でかい実験台みたいなものがあるんだよ?必要ないだろ?」
レンは、鎖が着いた寝台を指さす。
イロハはそれを見て、目を細めた。
「……確かに、必要ないわ。この寝台……まるで……」
「……誰かを実験する時に使ってたみたいだな」
イロハは首を振る。
「いや、観測機関はそんなこと、していないと……思い……たい。」
沈黙に包まれる。
レンは寝台のほうへと歩く。
すると、ひとつの端末を見つけた。その端末は、ヒビが入り、もう動くかさえ分からない。
「……これ、壊れてる……」
だが、朽ちかけた端末が、奇跡のように微かな反応を返した。
『ーー因果条件、完全一致。』
イロハが画面をのぞき込む。
「因果……条件……。」
「こんなに古いのに……まだ動くのか」
レンが低く呟く。無言のまま、慎重に指先を添えて操作を始める。
青白く光を放ち、断片化された記録の羅列が浮かび上がった。
『試作体実験記録ーー。』
イロハとレンは目を見開く。
「試作体、実験……?」
そして少年少女達の写真と、記録が映される。
その中に、見慣れた顔がひとり。
――対象《試作体No.07・凪津(なぎつ)フユリ》
イロハは一瞬、まぶたを伏せた。
フユリ、それはイロハが亡くした友の名。
この名を、ここで目にすることになるとは思っていなかった。
「……え?」
画面には続けて、記録が表示されていく。
「初の適合試作体として幽影層監視任務に割り当て」
「高位虚霊《始原個体》の封印維持に対応」
「魂体安定傾向観測:良好。継続観測指示」
「幽影固定限界に達し、消失」
それは、イロハたちがすでに知っていたことを裏付けるものだった。
フユリはイロハの母が封じた最初の虚霊を、長い間たったひとりで見守っていた。
封印が限界を迎え、虚霊が解き放たれたあの日――フユリの魂もまた、静かに消えていった。
イロハの声が震える
「……フユリは……試作体……?フユリは、フユリは……」
だが、記録の最後に、見過ごせない一文が添えられていた。
「最終記録……魂反応:観測不能区域にて微弱継続」
「因果的存在座標:特異点への変位観測」
「備考:完全消失未確認。干渉可能性:低だが否定不可」
イロハの瞳が揺れる。
それは「終わり」ではなく――もしかすると、「続いている可能性」があるということ。
「……フユリは、完全には……消えていない……?」
イロハの声は震えていた。
封印の限界による喪失。それは最期だと受け止めていた。
けれど――そうじゃなかったのかもしれない。
「この記録が正しければ……フユリはどこか、“因果の外”にいるのかも」
レンが静かに言った。
「…どういうことだよ?試作体って……観測機関は因果音の研究をしてたんじゃないのか……?」
イロハはそっとモニターに手を置く。
そこに映るのは、数値と記号の連なりに過ぎない。
けれど、その向こうに、あの優しい声が、静かに囁いている気がした。
——私はまだ、ここにいるよ。
イロハはリアスの言っていたことを思い出す。
ーー’’この先にあるわ。あなたを消すために、利用された子達の記録が’’ーー。
「……観測機関は私を消そうとしている。もしかしたら試作体は、私を消すために利用された存在かもしれない。フユリもそのうちの一人。」
イロハの言葉は、空気に溶け、記録の静寂へと吸い込まれていった。
レンの沈黙に包まれるなか、端末のログがさらに自動でページを進める。
表示されたのは、「試作体No.08」に関する極秘の開発記録だった。
《試作体No.08 三日月マシロ》
《因果模倣:対象 桜月イロハ》
「観測干渉記録断片より、対象の行動・反応・霊質変動データを抽出」
「旧《月見の森》に残留していた因果片断・魂痕を基に再構成」
「構成要素:観測時差分による魂相転写・感応因子遺伝ベクトル・補完型虚構記憶」
「再生成功率:10.6%に過ぎなかったが、特異環境《幽影培養槽》により応答反応取得」
「人格形成:自己像におけるズレ有、戦闘思考偏重傾向あり。継続監視指示」
「最終記録……自我を持ってしまい実験失敗。抹消しようとしたところ暴走し制御不能に。その後脱走し行方不明。」
イロハはただ沈黙してした。
見慣れない語句が、頭の中でゆっくりと繋がっていく。
彼らは――
「……私がかつていた“場所”の記憶と、観測記録から、私を模した……?」
声は細く、掠れていた。
かつて“月見の森”に残された因果の欠片。
そこに、イロハがいたという痕跡――母との暮らし、旅立ち、戦いの記録。
それらは微細な魂の“振動”として世界に染みついていた。
そして観測機関は、そこから“因果的構造”を抽出し、魂の疑似構築に成功していた。
――つまりマシロは、“記録から再現された”もう一人のイロハだった。
だがその魂は、イロハ本人のものとは決定的に異なっていた。
そこには、“倒すため”という明確な目的が刷り込まれていた。
生まれた時から、誰かのために――イロハを超えるために、生きるよう設定された魂。
目に光もなく、手を差し伸べてしまえば吸い込まれそうなほど、深い群青の色をしていた。
「そんな……生まれ方……」
イロハの声は震えていた。
「私の……残った因果で……誰かが……そんなふうに生まれたなんて……」
レンはそっとイロハの背を支えるように手を添えた。
「でも、イロハ。マシロは……自分の意思で脱走したんだよな?」
イロハが顔を上げる。
目には、確かな困惑と――わずかな希望があった。
「ええ……記録には、制御不能、行方不明と……」
「だったら……その子はもう、“誰かのため”じゃなくて、“自分の意思”で生きてるんだと思う」
レンの言葉が、静かに染みていく。
「最初がどうであれ……その先に、選ぶ自由はあるはずだから」
イロハは、ゆっくりとうなずいた。
「もう…会うことはないと思う。けれど、“マシロ”という名前を持って生まれたあの子が、ほんの少しでも、自分の生を肯定できたなら――それでいい。」
観測機関の廃棄拠点を後にして、ふたりは夕暮れの道を歩いていた。
空は鈍色の雲に覆われ、風は遠い雨の匂いを運んでくる。
「さっきの記録……やっぱり、信じられない」
レンが小さく呟く。
イロハは頷いたものの、どこか上の空だった。
フユリの魂が、完全には消えていないかもしれない。
それは事実として心に刻み込まれたはずなのに、胸の奥に残った感覚は、もっと曖昧で不確かなものだった。
『……イロハ』
「っ!」
イロハは振り向く。だがそこにはレンしかいない。
気のせいかもしれない。風の音かもしれない。けれど確かに、少女が「イロハ」と呼んだような気がした。
「イロハ?」
レンの声に我に返る。
「あ……いえ。少し、耳に残っただけです。風の音でしょう」
そう言いながらも、イロハは考え込む。
ふと、足元に何かが転がっていた。
「ん……これ、なんだろう」
レンがしゃがみ込む。拾い上げたそれは、欠けたガラスの髪飾りだった。
桜を模した意匠は半分ほどが割れ、細い糸が巻き付いたまま風に揺れていた。
「……これは」
イロハはそれを受け取り、そっと掌に包む。
懐かしい。確かに、見覚えがあった。
「フユリの……もの…」
その髪飾りは幼いころ、イロハがフユリにプレゼントしたものだった。
消えてしまったはずの彼女の痕跡が、なぜ今ここに落ちているのだろう。
「やっぱり……彼女は、まだ……」
イロハの言葉は風に紛れた。
けれどその瞬間、空気がふと静まり返った気がした。
「……この髪飾り、持っておこう。いつか、会えた時に返さないと」
イロハは髪飾りを懐に入れる。
——また会えるかもしれない。
理由も確証もないのに、そう思えてしまうのは、きっとこの髪飾りが語っているからだ。
第九の月夜「魂の傷跡」へ続く