テラーノベル
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放課後の体育館は、外の柔らかな日差しとは対照的に、肌を刺すような熱気が渦巻いていた。
キュッ、キュッ。
バレーシューズが床を噛む、甲高くて鋭い摩擦音。
ドォォン、と重低音を響かせて叩きつけられる、ボールの衝撃。
それらが複雑に反響し、私の鼓膜を絶え間なく震わせる。
私は、ベンチの端でドリンクボトルの結露を指で拭いながら、その中心にいる彼――赤葦京治くんを凝視していた。
「……っ」
ふいに、鼻腔をくすぐる匂い。
練習の熱気に乗って漂ってくる、微かな汗の匂いと、制汗剤のシトラスの香りが混ざり合った、彼の匂いだ。
クラスにいる時の、あのひんやりとした空気とは違う。
今の彼は、剥き出しの生命力を放っていた。
トスを上げる瞬間の、しなやかな指先。
跳ね上がったユニフォームの裾から覗く、硬く引き締まった脇腹。
飛び散る汗の飛沫が、体育館のライトを反射して、一瞬だけ宝石のように白く光る。
「……赤葦、ナイストス!」「ヘイヘイヘーイ!!」
木兎さんの野太い声が、静かな体育館を揺らす。
赤葦くんは、肩で荒い呼吸をしながら、額の汗を手の甲で拭った。
「……佐藤さん」
名前を呼ばれ、私の心臓が「ドクリ」と大きく、一段と強く脈打った。
いつの間にか、彼はすぐ目の前に立っていた。
彼が近づくにつれ、肌を撫でる空気が、数度上がったような錯覚に陥る。
「あ、えっと……はい、ドリンク。お疲れ様、赤葦くん」
差し出したボトルの表面は、私の手汗と結露でじっとりと湿っている。
彼の手が、私の指先に、ほんの少しだけ重なった。
――熱い。
氷のように冷たいと思っていた彼の指先は、今は驚くほど熱を帯びている。
その熱が、触れた部分からじわじわと私の腕を伝い、心臓へと流れ込んでくる。
「……ありがとう、楓花」
ふいに、耳を掠めた低い声。
「えっ……?」
驚いて顔を上げると、彼はもう、背を向けてコートへ戻ろうとしていた。
今、なんて?
いつもは「佐藤さん」って呼ぶのに。
今はきっと顔が赤く染まってしまっている。
体育館の喧騒が、急に遠くなる。
私の指先には、まだ彼の熱の残響が、痺れるように残っていた。
夕闇が迫る体育館の隅で、私は、自分の高鳴る鼓動が誰かに聞こえてしまわないか、それだけが怖かった。
放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
長い廊下に差し込む西日は、目に痛いほどの琥珀色をしていて、床に並んだワックスの光をぎらつかせている。
ギィ……、と古い床が鳴る。
私歩く赤葦くんの足音は、驚くほど規則正しくて、静かだ。
部活が休みになった今日、図書委員の仕事で遅くなった私を、彼はなぜか校門の前で待っていた。
「……送るよ。佐藤さん、この時間は暗いし」
そう言った彼の横顔は、逆光に溶けて、表情がうまく読み取れない。
パタ、パタ。
私のローファーがアスファルトを叩く、少しだけ焦ったようなリズム。
それとは対照的に、彼の歩幅はゆったりとしていて、私の歩調を静かにコントロールしているようだった。
「……ねえ、赤葦くん」
沈黙に耐えかねて、私は乾いた喉を震わせた。
夕方の空気は少しだけ冷たくて、吸い込むたびに肺の奥がツンとする。
「……なに?」
低くて、滑らかな声。
彼がこちらを向いた瞬間、ふわ、と風が吹いた。
夕闇に混じる、沈丁花の甘い香り。
そして、それよりもずっと近くで感じる、彼の制服の匂い。
昼間の熱狂を閉じ込めたような、温かくて重い香りが、私の鼻腔を支配する。
「さっき、部活のとき……。私のこと、名前で呼んだ……?」
心臓が、耳元で脈打っているのがわかる。
トクン、トクン、と。
自分の血の流れる音が、世界で一番大きな音のように感じられた。
赤葦くんは足を止め、じっと私を見つめた。
琥珀色の光を反射して、彼の瞳がガラス細工のように透き通っている。
「……ああ。……嫌だった?」
否定も肯定もせず、質問で返される。
彼の指先が、ふいに私の制服の袖口に触れた。
ひんやりとした、金属のような冷たさ。
でも、その奥には確かな脈動が隠れている。
「……嫌じゃ、ないけど。びっくりしたから」
「そう。……なら、これからはそう呼ぶよ。……楓花」
私の名前が、彼の唇からこぼれ落ちる。
その瞬間、琥珀色の世界が、一気に夜の青へと沈んでいくような錯覚に陥った。
彼の瞳の奥に、得体の知れない「暗い熱」が灯ったのを、私は見逃さなかった。
それは、優しさとは少し違う、獲物を見定めているかのような、深い沈黙の色。
夕闇のグラデーションに染まる帰り道。
私たちの影は、道の上に長く伸びて、いつの間にか一つに重なり合っていた。
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