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翌朝、教室の空気は、湿り気を帯びたチョークの粉の匂いと、誰かのパンの甘い香りが混ざり合っていた。
ガヤガヤと騒がしいはずの休み時間。
なのに、私の周りだけが、薄い膜を張ったように静まり返っている。
「……おはよう、楓花」
背後から、低くて温度の低い声が鼓膜を叩いた。
心臓がドクリと跳ね、喉の奥がキュッと締まる。
「え……、あ、赤葦くん。おはよう……」
振り返ると、彼はいつもの無機質な表情で、私の机の角に手を置いていた。
長い指先が、白っぽい木目に食い込むように置かれている。
その瞬間、クラス中の視線が、針のようにチクチクと私の肌を刺した。
昨日まで「佐藤さん」だった呼び名が、当たり前のように「楓花」へと塗り替えられたこと。
その事実が、波紋のように教室中に広がっていく。
「これ、昨日貸したノートの続き。……あとで、一緒に確認しようか」
彼の声は、囁くように甘いのに、どこか「拒絶」を許さない響きを含んでいる。
ふわり、と彼の制服から香る、清潔な洗剤の匂い。
けれど、その奥に隠された、ひんやりとした鋼のような気配が、私の項(うなじ)を冷たく撫でた。
「……う、うん。ありがとう」
私がノートを受け取ろうと手を伸ばすと、彼はわざとらしく指を滑らせ、私の指先を「なぞる」ようにして離した。
ザラリ、とした微かな皮膚の摩擦。
一瞬の接触なのに、焼けるような熱さが指先に残る。
自然と顔が赤く染まってしまう。
「……楓花、顔が赤いよ。大丈夫?」
彼は少しだけ目を細め、私の瞳の奥を覗き込んできた。
琥珀色に透き通った彼の瞳に、困惑した私の顔が小さく映り込んでいる。
逃げ場を塞がれたような、逃走を禁じられたような、奇妙な圧迫感。
昼休みのチャイムが、どこか遠くで、警告音のように響いていた。
クラスメイトたちの楽しげな笑い声が、今の私には、まるで別の世界の音のように聞こえてならない。
私の名前を呼ぶ彼の声だけが、重く、深く、心臓の奥まで染み込んでいく。
キュッ、キュキュッ。
体育館の床を激しく擦るゴムの音。
バレーボールが腕にめり込む、鈍くて重い打球音。
部員たちの荒い呼吸と、天井に反響する掛け声が、むせ返るような熱気とともに渦巻いている。
私は、マネージャーとしてドリンクの補充を終え、タオルを抱えてコートの脇に立っていた。
「楓花ちゃん、これ、あっちに運ぶの手伝ってくれる?」
同じクラスの男子部員が、気さくに肩を叩く。
「あ、うん! 今行くね」
ほんの一瞬。
彼と笑い合い、カゴを一緒に持ち上げようとした、その時だった。
――ゾクッ。
背筋の裏側を、氷の刃でなぞられたような戦慄が走った。
誰かに、見られている。
それは温かな視線ではなく、じっとりとした湿り気を帯びた、逃げ場のない「観察」。
顔を上げると、ネットの向こう側で、赤葦くんがこちらをじっと見つめていた。
手元のボールを指先で弄びながら、瞬き一つせず、琥珀色の瞳を細めている。
ドクン、ドクン、と。
耳の奥で、自分の血の流れる音がうるさい。
彼は何も言わない。
ただ、その視線だけで、私の肌を、髪を、指先を、執拗に這いずり回っている。
隣の男子部員が笑うたびに、赤葦くんの瞳の奥が、さらに深く、暗く沈んでいくのがわかった。
まるで、私に触れる空気さえも、自分の所有物だと主張しているかのように。
「……楓花」
喧騒を切り裂いて、彼の唇が動いた。
声は届かないはずなのに、その形だけで、私の名前を呼んだのがわかってしまう。
鼻腔を突くのは、体育館の床のワックスの匂いと、誰かの汗の匂い。
なのに、なぜか今、すぐ近くに彼のシトラスの香りが漂ったような錯覚に陥った。
「あ、ごめん。……ちょっと、行ってくるね」
私は逃げるように、カゴを置いて赤葦くんの方へ歩き出した。
彼に近づくにつれ、空気の温度が一段と低くなっていく。
彼の手元で、バレーボールが「パシッ」と乾いた音を立てて止まった。
その音は、まるで私の逃げ道を塞ぐ、檻の鍵が閉まる音のように聞こえた。