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亜鐘
産まれてから、ずいぶん色んな場所を渡り歩いた。
晴明さまは分かっていると思うけど、白状するのは憚られる経験もたくさんあった。生きるためには仕方がなくて、でもそれは魂を刃で削るような生き方だった。自分の限界の足音が、すぐ近くまで迫るのを感じていた。
やがてわたしは都に連れてこられ、目の前で貴族と人商人が自分を売り買いしている様子を見せられた。漏れ聞こえた貴族の話では、手足をもぎ、邸の奥につくった陽も届かぬ倉にこの身を飾るつもりらしかった。
会話を耳にしたとき、自分の内に棲むなにかが目覚めた気がした。気付くと、わたしはその場で貴族と商人を殺していた。
あとになって恐ろしさがこみ上げ、でもどうすればいいか分からずに、遠くに見えていた山へと走った。裸足のままボロ着で、ツノを手で隠しながら走った。ひっきりなしに涙が溢れてきた。桜色の小袖を着た同じ年頃の女にジロジロ見られ、ひどく惨めだった。
山で死ぬつもりだったけど、内に棲む浅ましい鬼女はそれを拒んだ。死にたい死にたいと思いながら、三日ほど彷徨った。或いはあのときに感じた『内なる自分』がそうさせたのかもしれない。
生への欲求に勝てず川で水をすすっていると、熊のように大きな光の塊に出会った。嫌な覚えは山に入ったときからあったけれど、これがその正体なのだと初めて知った。過ぎた空腹で危険が間近に迫るまで気配を感じなかった。襲われてやっと死ねると思ったが、口から出てきた言葉は「助けて」だった。
わたしは光に背を向けて走った。夢中だった。
だけど光の塊はすばしこく、どうにも逃げ切れない。
諦めてへたり込んだとき、光の塊は真っ二つに裂けて蒸発した。傍らには太刀を佩いた晴明さまがいて、彼はへたり込むわたしに微笑まれた。
「鬼女が逃げたと聞いて追ってくれば、穢悪まで祓えて儲けたよ。後援の貴族どもからは手当を無心できそうだ」
「わ、わたしは、なにもしません……。どうかお見逃しください……」
「それに鬼女。私の気配に気付いて、こちらに逃げて来ただろう? お前の呪の力か?」
「どうか……、どうか……」
地面にツノをこすりつけて頼むと、
「やめなさい」
彼は陽を思わせる温かな声で、わたしの頭を上げさせた。
「私は人の法に興味はなくてね、それどころかお前が理不尽に苦しむ濁世など疎まし句思っている。事情は察しが付く。お前は天の代わりに悪人を誅しただけだ」
「助けて、見逃して……」
「助けるとも。だから見逃さない」
晴明さまは額のツノをそっと撫で、その濃い空色の瞳を細めた。わたしは自分のなにかが溶かされていくような、生まれて初めて味わう感情を覚えた。
そうしてわたしは過去の名を捨て亜鐘の仗と名付けられ、坤鬼舎に入った。
やっと、居場所を手に入れたのだ。
あとは晴明さまのために身を粉にしてお役目を果たすだけ。御恩は忠節と想いをもってお返しする。内なる自分は金輪際、誰にも見せない。もう欲しいものはなにもなかった。なにも……。
※
「三山神三魂を守り通し山精参軍狗賓去る……」
晴明さまがまじないを誦じてから、わたしたちは山へと入った。
亜鐘の局で晴明さまが夜を明かした翌日だ。
まるでリンゴのように肌艶が輝く亜鐘姉さま。
表情もいつもより優しげで、すこぶる上機嫌と窺えた。
こんな場に自分がいていいのかとも思うけど、今日は穢悪の清祓。大内裏から御沙汰のあった五里ほど離れた繁山まで、晴明さまと亜鐘姉さま、それにわたしを加えた三人でやってきた。
「あんまり変わってないなあ」
わたしは山に入ると、木々の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「ここって木の実が多くなるんですよ。虫も多いし。昔はお腹空いたとき、たまに来てたんです。あのときの仲間と。だから土地勘は、ちょっとあります」
紫雲を引きつつ、スケはどうしているだろうという思いが、罪の念と共に頭をもたげた。あのあとの彼女の消息は、依然として不明なままだった。
「ここは、晴明さまとわたしが出会った山でもあるのよ」
亜鐘姉さまが紫雲を引くわたしに、市女笠の奥からにっこりと微笑む。
「だから思い出の場所なの。今日、お祓いとはいっても、来られてよかった」
「へー。山の中で出会ったんですねえ」
「あのとき穢悪からわたしを守ってくださってね。もう死ぬというときだったし、晴明さまが神さまに見えたわあ」
「ははは。もっと褒めなさい」
晴明さまは快活に笑いながら頭をかいていて、二人の様子に口角が自然と上がる。やっぱり好きな人たちが幸せそうにしているのが一番だ。わたしは房事のお作法なんて自信ないし、五番目は弁えているから。
「それはそうと、亜鐘姉さま」
わたしは二股に分かれた道を前に、隣の彼女に尋ねた。
「これ、どっちですか? 穢悪のいる方」
「んー……。左、だと思う、けど……」
彼女は難しい面差しをしたあと振り返り、
「晴明さま。恐れながら、気配がはっきりしません。近付けば近付くほど、今回はいつもの穢悪とは違う感じがします。どうしましょう」
と、御沙汰を求めた。
彼女の呪は気配を辿る力。
戦いには向かないけど、居場所が曖昧な穢悪を探すのにとても有効だ。強力な穢悪であればその急所まで明らかにできるらしい。
「今回の御沙汰は、この山のいずこかって話だからねえ。はっきりしなくて、亜鐘に来てもらったんだが……」
晴明さまが、うしろで顔をしかめた。
「確かそこに川があったな? 紫雲に水を取らせて、退くか進むか考えたい」
晴明さまの命じに従い、わたしは川のせせらぎの方へと紫雲を引く。紫雲はまるで会話を理解したかのように、大人しく引かれる方へと足を向けた。
「ときに夜火」
晴明さまの声が、馬上から降りてくる。わたしが見返すと、彼は柔らかい笑みをくちびるに浮かべた。
「変わりはないか?」
「? はい。お陰さまで元気です!」
「ではなくて――」
んー、と、少し首を傾げる晴明さま。
「――兄者のことだ。その後に接触は……」
「あ、ありませんよ! あのときだって、ちょっとからかわれただけで……!」
「ならいいんだ。忘れてくれ」
晴明さまは息をついて、自分の首のうしろを撫でた。
――心配、してくれたのかな。
だったら嬉しいかもしれない。だってわたしが、こんなわたしが……。
考え始めると顔が熱くなって自分の頬をつねる。思い上がりはよくない。あとで悲しい気持ちになるだけだから。
気を取り直して、わたしは紫雲の綱を引く。
やがて背丈ほどもある柔らかい草むらを抜けると、川はすぐに見付かった。流れの緩やかな、まるで輝きがそのまま動いているような細い川だった。
晴明さまは下馬すると、岩場に腰かけて竹筒で喉を潤した。紫雲も自分で砂利だらけの川辺へと進み、水を取る。
「ここ、たぶんわたしが穢悪に襲われた場所ねえ」
亜鐘姉さまが伸びをしてから、誰に言うでもなく呟いた。晴明さまと夜を共にしたとあってか、今日はなんだか彼女の口が滑らかだ。
「じゃここで襲われてるところを、晴明さまに?」
「ううん。わたし、穢悪を見たのが初めてで、とっさに逃げたから。そしたら人の気配があって、もしかしたら助かるかもってそっちに行ったの。たぶんあっちの方……」
亜鐘姉さまは川の下流を指さし、
「ねえ、晴明さま」
と、満面の笑みで妹背の君へ確認の言葉を送った。
晴明さまも岩に腰かけながら笑って応じ、わたしも水を飲もうと前に屈むけど……。
しかしそのとき、ゾクッとするなにかが、貫くようにこの意識を通り抜けた。亜鐘姉さまに聞くまでもない、強烈な気配。
「夜火!」
警告を孕む亜鐘姉さまの叫び。
奇襲をかけられた? 亜鐘姉さまの呪の網をかい潜って?
悪い予感に襲われ、わたしは振り返る。そして、
「晴明さま!」
名を呼び終わるよりも早く砂利を蹴って跳んだ。いま見ている光景が気のせいで、慌てん坊の夜火がまたやらかしただけなら、どれだけよかっただろう。
しかし、全ては現に起こっていることだ。
晴明さまの背後。
見たときにはもう紫の霧がもくもくと立ち込め、あっという間にそこは禍々しい気配で満たされた。晴明さまも振り返るが、手遅れだ。紫はまるで抱いて隠してしまうように、晴明さまを闇の中へ包み込む。
「夜……」
晴明さまは霧の中から手を伸ばした。その青やかな両の目でわたしを捉えて。
しかし伸ばしたこの手はほんの少し届かず、紫の霧は晴明さまの腕までも飲み込んでしまうと、次の瞬間には強い風に吹かれたように一瞬で晴れてしまった。
「晴、明さま……?」
信じられなかった。
だって目の前に広がるのは元通りの岩場の風景だけ。
確実にそこへいたはずの晴明さまが、完全に姿を消していた。
最初からいなかったかのように忽然と。泡が弾けて消えるみたいに。
「ウソ……?」
わたしは手を伸ばしたまま、何度も何度も瞬きした。ありがちな間違いだと信じたかったけど、ただ緑の木の葉が舞い散るだけで、景色は厳として変わらなかった。
「食わ、れた……? 晴明さまが? 食われた……!」
亜鐘姉さまは真っ青な顔で、膝から崩れ落ちた。
そこにいたはずの晴明さまの気配は、もう完全に断たれていた。まるで最初からいなかったのように。
「わたしが気付かなかったから……。わたしが馬鹿みたいに浮かれていたから……! 清祓に来たのに、馬鹿みたいに浮かれていたから!」
「わたしが!」
「わたしが!」
「亜鐘姉さま!」
わたしは亜鐘姉さまに飛び付き、彼女の肩を掴んだ。髪をかきむしり岩に額を打ち付ける亜鐘姉さまはツノから血を流し、それは涙と混じって顎に滴っていた。
「死なせて、お願い……! せめて常世の旅路をご一緒した、したいの……!」
「落ち着いてください。まだ晴明さまが食われたとは限りません。あんなに綺麗になくなるなんて……。食われたのとは、また違う気がします。気配は? 気配は感じませんか?」
「確認したく……ない……」
「亜鐘姉さま」
わたしの言葉に、亜鐘姉さまは息を一つ呑んだ。そしてしゃくり上げながら肩の震えをゆっくりと止め、
「……あれ……?」
と、やがてその目を丸く見開く。
「感じる……? ウソ……。目の前で食われたのに?」
「本当? 本当?」
「…………大丈夫……! まだ生きてる!」
「よかった……!」
今度はわたしが膝から崩れ落ちた。堪えていたのに、目頭が熱くなってついに涙がこぼれだした。
わたしたちはへたり込んだままで抱き合って、しばらくわあわあと泣いた。これまで生きてきた中で、一番ほっとした瞬間だった。
「ごめんね、夜火」
亜鐘姉さまが目の下を指で拭い、ツノを手ぬぐいで縛った。
「いきなりだったから、混乱して……。急いで助けに行かないと。喜ぶのはそのあとにしましょう」
「さっきの紫の霧が、穢悪ですよね?」
質問すると、亜鐘姐さまは「たぶん」と頷く。
「でも初めて会う穢悪だわ。気配は少し遠い。この穢悪、たぶん一瞬で場所から場所へ移る呪を持ってる」
場所を? 言葉の違和がわたしをつつく。
「亜鐘姉さまも初めて……? どうしよう。助けに行って敵うかな……」
心配が先に立つ。ここにいるのは五番目と、戦いに不向きな鬼女の二人だ。
「勝機はあると思う。だって夜火。最初に襲われてたのは、あなただったのよ」
「わたし?」
そう言えば亜鐘姉さま、わたしがゾクッと気配を感じたときに注意を……。
「晴明さまにそうしていたように、あの煙は夜火も取り込もうとしていたわ。だけど失敗して、瞬きしたら次はもう晴明さまのうしろにいた」
「そこに勝機があるんですか?」
「もちろん必ず勝てるとは言えない。夜火、他の姉さま方に知らせてきて」
「……亜鐘姉さまは?」
「もちろん助けにいくわ。わたしが死んだときのために、枝を折りながら進んで目印にしておくから」
「承知できません!」
わたしは亜鐘姉さまの目を見て、きっぱりと言った。たぶん、姉さまに逆らったのは初めてだ。
「亜鐘姉さま、穢悪は辿れても、戦うには不向きです。役目を入れ替えてください。土地勘はありますから、場所を教えてくれたらわたしが行きます!」
「……危ない橋は、姉に任せてくれない?」
「ダメです! ダメ!」
手を握り、強い目を亜鐘姉さまに向ける。
彼女は困ったように山を見て、またすぐわたしに目を戻した。
「……争っている時間が惜しいわ。では二人で行きましょう」
「二人? でも坤鬼舎に報せを……」
「こうするの。本当は誰か付いて、確実に知らせたいけど」
亜鐘姉さまは手近な木の皮を素手で剥がすと、指の先を噛んだ。そして流れる血を使い、流ちょうに文字を認めていく。
何故か慣れた動作に感じて感心すると同時に、生きて帰れたら手習いを勤しもうと思った。
「この書き付けを紫雲に持たせて、坤鬼舎に帰ってもらいましょう。知らせておけばわたしたちが死んでも、晴明さまは姉さまたちがなんとかしてくれるかもしれない」
「でも……」
万が一が、頭をかすめる。
「あの、紫雲は賢いけど馬だし……。やっぱり亜鐘姉さまが」
「いい子ね、夜火」
亜鐘姉さまは言ってから、そっとわたしを抱き締めてくれた。
彼女の胸は優しく、心地がとても安らぐのを感じた。それだけで命をかける未練を断ち切れる気がした。
「でもわたしも行かないと。自分の失敗で晴明さまが危ないんだもの。あなたの盾くらいならなれるし、わたしがいた方が勝てると思うの」
「でも……」
「失敗した上にここで逃げたら、晴明さまは生きて帰れてもわたしを捨てるかもしれない。そんな無慈悲なお方じゃないけど、心の中ではそういう扱いになるかもしれない。わたし、それは耐えられない」
亜鐘姉さまは体を離すと、にっこりと笑みをこしらえた。
「あの人のためなら、わたしはいますぐに死ねる。だけどあの人に捨てられるのは、死んでも嫌」
山の緑が滑るように前からうしろに飛び去っていく。
わたしは礫のように空気を切り、亜鐘姉さまの案内するあとを続いていた。
鬼女二人の行軍となると速い速い。地面を蹴って走り飛び跳ね。この調子なら到着は間もなくだ。進むごとにあとから来る姉さまの目印になるよう、木の枝を折るのは忘れない。
「晴明さまの気配は衰えておられないわ」
向かう場所が近付いてきたのか、走りながら亜鐘姉さまが隣に並んだ。
わたしも意識を澄ませば気配を辿れるけど、ざっくりとしか分からないし、的が穢悪や鬼女でないと無理。でも亜鐘姉さまはたとえ人であっても、少しくらいの距離ならちゃんと気配を追えるのだ。絶対に死なせてはいけない鬼女。
「分かってると思うけど」
亜鐘姉さまは駆けながら、声だけをわたしに向けた。
「いままで夜火が祓ってきたのは低位の穢悪なの。陰陽寮からの報せで晴明さまが判断して、経験を積ませるつもりで夜火を連れて行っていたのよ。修練ね」
「今回のは、やっぱり違いますか?」
「たぶん。低位であんな呪持ちはいないわ」
亜鐘姉さまは前を見たまま答えた。
「だから夜火は初めての戦いになるけど、分かるわよね? わたしが怨魄の場所を教えるから、それを壊して」
「……必ず」
怨魄とは上位の穢悪に見られる、呪が集中して結晶になっている部分。
怨魄の有無で、穢悪の力に大きな違いがあると晴明さまは言っていた。人間の脳髄みたいな役割で、穢悪が持つ呪の力を手際よく操るためのものだと。
だから上位に勝つには怨魄を壊せばいいのだけど、穢悪のどこにあるかは分からない。亜鐘姉さまの呪の力を除いて。
「もうじき着くわよ」
亜鐘姉さまが足の回転を次第に緩めていく。
ここまで近付くと、わたしにも穢悪の気配がある場所にだいたいの見当が付いた。この木々を抜けた先にはそびえる崖に洞窟があり、たぶんそこだ。上位の穢悪は多少の知恵を持っているやつも多いらしいし、たぶん洞窟を巣のように使っているのだろう。
「洞窟……」
亜鐘姉さまが呟く。そして考えられる穢悪の出方について説明した。
わたしはそれを聞きながら、彼女の瞳をじっと見つめる。いつもの優しげな眼差しは燃えるような決意を孕んでいて、少し、危うさを感じた。
――さっきも、そうだ。
晴明さまが消えたあのとき、亜鐘姉さまは迷わず、躊躇もなく自死を選んだ。
もちろん坤鬼舎の鬼女は、誰もが晴明さまのために命をかけるだろう。だけど亜鐘姉さまのは、少し質が違う。彼女のなにもかもは、晴明さまという存在に寄って立っている感じがする。
「必ずお助けします。晴明さま」
亜鐘姉さまは覚悟に裏打ちされた真剣な口調で言った。悲痛にも感じた。
馬鹿なわたしには、いいことかどうか判断できないけど……。
少しの嫌な予感が胸に兆す。
まるで一本のか細い糸で、彼女が頼りなく繋がれているような……。