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二人がたどり着いた街境界線はユーグ・ラスの荒野に隣接する宿場町の一つだった。サンヴィアを東西に横断し、東はバイナ海から塩と絹と歌を運び、西はシグニカから毛皮と白樺と信仰を運んでくる交易路の道中にある。
ベルニージュの宣言通り、夜明けまでにたどり着いたが、ミミウズの街はまだ静かに横たわって深い眠りに就いている。だが、行商人たちは太陽よりも早く起きるのが常だ。寝ぼけ眼であくびをする男たちが、黙々としかしせかせかと動き回り、長い人生の後にも先にもずっと伸びている旅を続ける準備をしている。これから発つ者たちも、これから商う者たちも。
二人は眠たげな行商人たちにしっかりと疎まれながら、発光現象の噂を聞き集める。当然噂は沢山あったが、最近のこの街の付近の噂が最も濃度が高く、かつ新鮮だった。
どうやらこの街より少し北、ユーグ・ラスの荒野で発光したらしい。とうとうこの退屈な街にもサンヴィアを騒がせる魔法がやってきたと街の者たちは大いに噂し、議論し、中には唄を作る者もいた。しかし行商人たちはそれに加わることなく、噂も議論も唄も賑わいも積み荷と一緒に運び去る。
街の者たちはというと大いに行われた議論の末に何人かで調査に向かい、街は期待と恐怖で固唾を呑んで報告を待っていたが、何も発見できなかったそうだ。
しかし二人は早速念のために噂を頼りにユビスを駆け、発光した地点を目指す。どこまでも広がる枯れた荒野、橙に明け染める地平線。二人は目を平らにして平時には誰にも眺められることのない眺めを眺めるが、工房馬車の影も形も気配も匂いも残っていない。ユカリとベルニージュは意気消沈しながらも、それでも何か見つかりはしないかとユビスを駆る。
「停まって、ユカリ」
そう言ってベルニージュはユビスが完全に停止する前に飛び降りて、駆け出す。ユカリもユビスを停止させてから降りて、ベルニージュの後を追う。
ベルニージュが荒野にしゃがみ込む。そこに見つけたのは工房馬車の轍だった。轍は枯草を倒し、塩気のある土を深く抉って、ずっと東へと伸びている。車輪と車輪の幅からその巨大さが分かる。
「ユカリ、行こう」そう言ってベルニージュは立ち上がり、ユビスの元へと急ぎ戻る。
少し希望が見えてきた。ベルニージュの声もどこか溌剌さを取り戻している。二人は再びユビスに跨り、太陽が今にも顔を出す東へと向けて走り出す。
「禁忌文字はあと九つだよね」とユカリは確認するように言う。「上手く使いたいところだけど」
「この轍が途切れたら【穿孔】を作ろう」とベルニージュは決然と言う。
【穿孔】ならば、おそらく残りの九文字の中で最も簡単に元型文字を作れるだろうと二人は予測している。
轍を見失ったのは、昼を過ぎて空が曇り始めた頃、数多の旅人の足跡が作り出しただろう交易路が二つ交わった樅の林だった。ユカリとベルニージュはユビスを降りて、工房馬車の轍を探す。しかし近々で雨が降ったためにぬかるんでおり、その後に多くの旅人が通ったのか、工房馬車の轍がどちらへ行ったのか分からなくなっていた。推測する手立ては何もないが、できれば勘で選びたくはない。さらに運の悪いことに機嫌の悪そうな雨雲が二人の元へ近づいている。
雨もよいの空を見上げ、それと知るとベルニージュはすぐに次の行動へと移っていた。
「【穿孔】を作るんだね?」とユカリは問いかける。
「せっかく運が向いて来たからね。ここで途切れさせたくない」
ベルニージュは地面を指でつつきながら呪文を唱える。墓穴を掘る際にも、落とし穴を掘る際にも使われる古くも親しみ深い呪文がぬかるむ地面へと染み込んでいく。
「あ! 雨はまずいんだった!」とユカリは呟くが、時すでに遅く雨雲が二人の頭上を覆った。
それほど強い雨ではないが、二人の服とユビスの体毛はすぐに水を吸う。
「ああ、しまった! 忘れてた!」とベルニージュも悲鳴に近い声で嘆く。
二人の見ている前で銀灰色の毛長馬ユビスは重い鉛のような色になって、大量の水を吸ったために上手く動けなくなっていた。
それはユカリがユビスを洗った時点で分かっていたことだ。毛長馬の毛は水をよく吸い、その毛量の多さも手伝って、水に濡れてしまうと大変に体が重くなり、上手く走れなくなってしまう。そうなると普通の馬どころか、牛にも劣る。
「とにかく木陰で雨宿りしよう」とユカリは提案する。「晴れるまでにユビスを乾かさないと」
二人は樅の木の中でもとりわけ枝ぶりの良い木陰に避難する。ユカリが麻布でユビスに目隠しし、ベルニージュは大きな火を焚いた。できるだけ早くユビスを乾かすための魔術も使い、雨が止むのを待つ。
「ありがとうね。ユビス。本当に助かってるよ」とユカリは声をかける。
「造作も無き事だ。小娘よ。我が背に跨る誉れに身を震わせたようだな」とユビスは嘶く。
「さすがのユカリも寒かったもんね」とグリュエーは囁くがユカリは通訳しない。
ユカリは少しでも水気を落とそうとユビスの毛を絞りながら言う。「速かったね。ユビスがいなかったら、私たちとても追いつけなかったろうね。お陰でレモニカを助けられる」
鼻をふんふんと鳴らしてユビスは言う。「我とて乗せたくて乗せているわけではない」
「そうなの? 走ってる時、とても嬉しそうだったけど」
「我が脚力を知らしめるために決まっているだろう。でなければ人を乗せたりせぬ」
「人を乗せたくはないけど、でも乗せなきゃ知らしめられないってことね。じゃあまたレモニカに知らしめるために頑張ってね」
ユビスは不満げに鼻を鳴らす。
ユカリは食事の準備を始める。ここ数日まともな食事はとれておらず、それは今日も変わらない。
ユカリは石を組み上げて、即席の竈を作り、小さな鍋に雨水といくつかの塩漬け野菜の欠片と干し肉を放り込む。
「鍋なんていつの間に手に入れたの?」とベルニージュが呆れた様子で、しかし少し目を輝かせて尋ねる。
「いつだったかな。何日か前にね、買ったの。他にもいくつかの食器。柄杓と、椀も三つあるよ。肉に齧り付くのも好きだけどね」ユカリは正確な日を思い出そうとするが思い出せなかった。「ユビスがいるからもっと大きな鍋でもいいかと思ったんだけど、見つからなかったんだよね」
すぐさまぐつぐつと煮立つ鍋を小さな柄杓で混ぜる。
「この雨、もしかしたらクオルが仕掛けたのかもしれない」と鍋に映る何かを覗き込みながらベルニージュは言った。
「そうかもしれないね。ずいぶん強情な雨だし」とユカリが曇り空を睨みつけて言う。
「一応反撃は試みたけど、どうかな。あっちにも魔導書があるし」
「ベルならクオルに勝てるでしょ?」
「もちろん、そうだけど」鼻歌混じりに鍋を混ぜるユカリをベルニージュは見つめる。「その余裕はどこから来るの? ユカリ」
「余裕に見えるからって余裕とは限らないよ」
「メヴュラツィエ、クオルの人体実験のこと覚えてるよね?」
「私に当たっても仕方ないでしょ。すべきこと、出来ることをしてるんだよ」ユカリは鼻歌をやめて、しかし鍋を混ぜ続けて言う。「心配だってしてる。不安もある。だけど私が、私たちが、レモニカを助けるんだ、絶対に。そうでしょ?」
ベルニージュが何か言い返す前にユカリは続けて言う。「熱いから気を付けて」ユカリは湯気の溢れる羹を椀に注いでベルニージュに手渡す。「責任感じてるのもベルだけじゃないよ。私だって、謝らなくちゃいけない」
「ユカリは悪くないよ」とベルニージュは椀を抱えたまま言う。
「良いから飲んで」と言ってユカリも自身の椀に羹を注ぎ、椀に口をつけるベルニージュを見つめて言う。「ヒデットの街に二人で行くように提案したでしょ? あれは二人にもっと仲良くなってもらいたいと思った私のお節介なんだよ。だけど、今になって思えば何も急ぐことなんてなかった。人を追っている時に考えるようなことじゃなかった。三人でユビスを洗って、三人で街に行けばよかった。沢山の後悔があるけど、一つとしてレモニカを助ける役には立たない」
「うん」
ベルニージュはそれ以上何も言わず、羹を飲み続けた。冷えた体をほぐすように温もりが胃から広がり、錆びた体に油差すように塩気が舌から染み入る。鍋が空っぽになるまで二人で体を温め続けた。とはいえ少ない羹ではほとんど体を温めることができない。日が暮れても雨は止まず二人は交代で眠りに就くことに決めた。
まずユカリが眠りに就こうとしたその時、眩い光が彼方から飛んでくる。ユカリは慌てて飛び起き、周囲に視線をやるが、光っているのはただ一点だ。ほぼ真北から光が届いている。そして、前に見た時よりもずっと近い。