テラーノベル
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──昼休みの廊下。誰も通らない、旧校舎との接続階段。遥は窓際に背を預け、目を伏せていた。姿勢だけは変わらず整っているのに、どこか全体が抜け殻のようで、いつも以上に、話しかけにくかった。
日下部は、見てしまっていた。
数日前の夜、蓮司に連れられる遥を。
言葉も声も交わせなかったが、その瞬間、遥の目に浮かんでいたもの──“何もない”という残酷さを、忘れられなかった。
だから今も、近づく足取りは、ひどく慎重だった。
「……なあ」
小さく声をかけても、遥は反応しない。
「おまえ、最近ずっと、俺と目、合わさないよな」
ようやく、瞳が揺れた。だが、それは反応ではなく、拒絶に近い。
「……気のせい」
「嘘だ。……てか、気のせいって言うとき、おまえ嘘ついてるときだろ」
遥は、唇の端をほんの少し歪めた。笑ったのではない。
自嘲とも違う。ただ、「そんなことまで知られてたんだ」と、諦めたような顔だった。
「なにがあったか、聞いても答えないのはわかってる。……でも、せめて俺に、何考えてんのかくらい、教えてくれないか」
黙る遥に、日下部は距離を詰める。
壁を背にして動けない遥を、真正面から見据えて。
「……俺が嫌いになったとかなら、はっきり言ってくれ。そうしたら……引くよ」
「ちがう」
「じゃあ、なんでそんなに、俺から逃げんだよ」
その言葉に、遥の表情がはじめて歪んだ。
目尻が、唇が、ほんのかすかに震えていた。
「俺が、おまえに“触れたい”って思うことが、間違ってるからだよ」
「……間違ってなんか──」
「あるんだよ」
遮るように遥は声を強めた。
それは怒りでも反論でもなく、自分を押し殺すような声だった。
「俺は、欲しいって思ったものを壊してきた。……触れたいって思ったせいで、誰かのこと、傷つけてきたんだよ」
「だからって、俺の“触れたい”まで拒むのかよ」
日下部の声は、静かだったが、怒っていた。
「……おまえに触れたいと思うのは、俺のわがままだ。でも、それくらいは、許されたいって思ってる。……だめか?」
遥は目を逸らす。
それでも日下部は、あえて距離を詰めた。肩と肩が触れるか触れないかの距離で、吐息が重なる。
「“汚してしまう”とか、“壊す”とか……おまえが思ってるほど、俺は壊れやすくない。……勝手に俺の壊れ方、決めんな」
「……ほんと、強いよな。おまえ」
それは皮肉でも称賛でもなかった。
遥の声には、もう羨望も、自己嫌悪も、罪悪感も、ぜんぶ混じっていた。
「強くなんかねえよ。ただ、……怖いだけだ」
「なにが」
「おまえが、また一人でどっか行きそうで、……それが怖いだけだよ」
遥は、口を開きかけたが、言葉が続かなかった。
そして小さく一歩、身を引いた。
「……もう、行く。チャイム鳴る」
「……なあ、遥」
「……」
「逃げてもいいけど、……もうちょい、俺の前で泣いてくれても、いいと思う」
遥は、その言葉には返さず、背を向けて階段を降りた。
でも、日下部の目には、階段の踊り場を過ぎた遥の肩が、
ひどく小さく、揺れていたように見えた。
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