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江戸の雨は、時として余計なものまで連れてくる。
しとどに降る長雨は、土の匂いと共に
どこからか「あやかし」の気配を運んでくるのだ。
神田の一角。
軒を連ねる長屋の先に店を構える古道具屋『八百万堂(やおよろずどう)』の店先で
私は降りしきる雨を眺めて溜息をついた。
湿気で古びた木戸が、重苦しくギィと鳴る。
奥の土間からは、長年売り物にならずに居座っている「煤けた火鉢」が
「膝が痛むのう。この湿りはいかん」と、しゃがれた声で独り言をこぼしていた。
物の声が聞こえる。
それは物心ついたときからの私の、誰にも言えない秘密だった。
壊れた鉄瓶が咽び泣き、古びた根付が昔の持ち主の自慢話をする。
私にとってこの世界は、いつだって騒がしくて、少しだけ切ない。
「お小夜、これを見てくれ。神田川のそばで拾ったんだが、なかなかの掘り出し物だと思わないか?」
表から戻ってきた父が、手拭いで頭を拭きながら自慢げに差し出してきたのは、一丁の柘植の櫛だった。
飴色に輝く木肌には、繊細な撫子の彫り。確かに名工の手による品に見えたが
私が触れた瞬間、指先にまで冷たい泥のような感覚が這い上がってきた。
(……寂しい……寒い……どうして、来てくれないの……)
女の啜り泣きが、雨音に混じって耳の奥に直接響く。
この櫛には、深い未練が宿っている。
それも、放っておけば「毒」に変わるほどに昏い執着だ。
「……お父さん、これ、あまり良くないよ。すぐにお清めしておかないと、何か良からぬことが起きる気がする」
「何を言ってるんだ、ただの櫛だろう。磨けば一両は下らねえよ」
笑い飛ばして奥へ引っ込む父を横目に
私はその夜、居ても立ってもいられず、眠りについた父を背に店を抜け出した。
懐に隠した櫛が、心臓の鼓動に合わせてじりじりと熱を帯びる。
この「声」の主が、暗い雨の中で今も誰かを待っている。そんな気がしてならなかったのだ。
傘を叩く雨音が、路地裏に入るほど激しさを増していく。
闇に溶けるような細い通りに足を踏み入れた瞬間
手の中にあった櫛がガタガタと異様に震えだした。
「……っ!」
突如、櫛から黒い霧のようなものが溢れ出し
私の視界を塞いだ。
それは見る間に巨大な女の形を成し、泥のように濁った瞳で私を睨みつける。
「きゃっ……!」
足がすくみ、尻餅をつく。
逃げようにも、冷たい泥の手のような霧が私の喉元に絡みつき
呼吸を奪おうとした───その時だった。
不意に、周囲の雨音が消えた。
いいや、消えたのではない。
私の周りだけ、雨粒が意志を持っているかのように避けて流れているのだ。
まるで見えない傘が私を覆っているかのように。
「──騒がしいな。せっかくの雨だというのに」
低く、どこか涼やかな鈴の音を思わせる声が、闇を裂いた。
霧の向こうから現れたのは、一人の男だった。
藍色の柔らかな着流しを緩く纏い、傘も差さずに雨の中に立っている。