この作品はいかがでしたか?
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「あの、大丈夫ですか?」
小声で呼びかける私の声に、補佐はこめかみの辺りを抑えながらのろのろと体を起こした。
「すまない。揺れたらちょっと気分がね……」
大丈夫だろうかと心配になった。
「もう少しでうちに着きますから、休んで行かれませんか?」
そう申し出てから、私ははっとする。補佐とは今日会ったばかりなのに、部屋に入れるのはまずい気がした。けれど明らかに気分が悪そうな人を、このまま一人で帰すのは心配だった。
補佐は私の葛藤をすぐに察したようだった。
「ここからマンションまではそんなに遠くないから、このまま帰るよ。心配してくれてありがとう」
弱々しい彼の声に、私は眉根を寄せた。
「全然大丈夫には見えません……」
これは緊急事態だ。補佐は会社の人で立場もある人だし、そもそも一介の新人事務員とどうこうなるわけがないのだ。疑うような失礼なことを考えてしまうとは、自意識過剰もいいところだ――。
そう思い直して私は自分自身に苦笑した。
「ひとまずうちへいらして下さい。その後少し落ち着いたら、タクシーを呼びましょう。ほら、もう着きましたから」
抵抗する元気もないのか、補佐は大人しく頷いた。
「迷惑かけてすまない」
「気になさらないで下さい」
先にタクシーを降りた私は、その長身を支えるように補佐の腕を取ると、自分の部屋へと向かった。
「上着をお預かりしますね」
補佐をソファに促してからそう声をかけた。
ふぅっと息を吐き出しながら、補佐はジャケットを脱ぐ。
それを受け取りハンガーにかけてからキッチンへ行き、私は冷蔵庫に常備しているペットボトルの水を取り出した。グラスに注いで補佐に手渡す。
「お水です。どうぞ」
「色々と申し訳ない。ありがとう」
タクシーを降りてから何度目かの「申し訳ない」を口にして、補佐はグラスに口をつけた。グラスを傾けて顔を仰向けた時、その喉元が見えた。
その様子を見守っていた私はどきりとした。
水を飲む度に喉ぼとけが上下する。その動きについ目が吸い寄せられた。しかしすぐに慌てて目を逸らす。私は気を取り直して補佐に訊ねた。
「何か軽く召し上がりますか?」
「ありがとう。でも、もう大丈夫。少し休ませてもらったおかげで、だいぶ楽になった。もう少ししたら、タクシーを呼んで帰るよ。……それにしても」
補佐はため息をついた。
「人前でこんな醜態をさらすなんてこと、今まではなかったんだけどな。今日顔を合わせたばかりだっていうのに、迷惑をかけてしまった。本当に申し訳なかったね」
「いいえ、そんな……。ひどくならないようで安心しました。補佐、もし良かったらこの毛布を使ってください。夜はまだ少し冷えますから」
私は補佐の側まで近寄って毛布を差し出した。
「ありがとう」
毛布を受け取ろうと伸ばした補佐の手が、私の指先に触れた。
私は思わず手を引っ込めた。そのせいで毛布が床に落ちそうになった。慌てて掴もうとして結局失敗する。
「す、すみません」
毛布を拾い上げて顔を上げた時、補佐と目が合った。途端に耳の辺りがカッと熱くなる。
「あ、あの」
これ以上は彼を見ないように目を伏せて、私はたたみ直した毛布をソファの端に置いた。
「ゆっくりなさっていて下さい」
「あぁ、ありがとう」
私は補佐に会釈をすると、たいして広くもないキッチンスペースに移動した。あのまま彼の前には居続けられなかった。もしあの場にとどまっていたら、まだふんわりとしているこの感情があっという間に育ってしまいそうで怖かった。
補佐はきっと私の様子を怪訝に思っただろう。彼の表情を確かめたわけではなかったが、「ありがとう」と言った時の声に、戸惑いがにじんでいたのがその証拠だ。
とにかく何か飲んで落ち着こう――。
私はお茶を淹れるためにポットのスイッチを入れた。沸かしたお湯でハーブティを淹れる。飲むかどうかは分からないが、補佐の分も用意した。いつまでもここにいるわけにもいかない。平常心を取り戻すために何回か深呼吸をしてから、私は二つのマグカップを手にして補佐が休んでいるはずのリビングに戻った。
「補佐、ご気分はいかがですか?」
部屋に入りながら私は補佐に声をかけた。しかし返事がない。そうっと様子を伺うと、彼は目を閉じて体をソファに沈み込ませていた。
私は音を立てないように注意を払い、マグカップをテーブルの上に置く。足音を忍ばせて彼の傍まで近づいた。
寝てる……。
補佐は静かな寝息を立てていた。
顔色が戻ってきているのが見て取れて、私はほっとした。時計はもうすぐ午前二時になるところだったが、もう少しだけ寝かせておいてあげようと思う。あくびをかみ殺しながら、ずれていた毛布を掛け直す。
三十分くらいたってから起こしてあげればいいだろう――。
私にも睡魔の手は伸びてきていたが、それまではお茶と雑誌でやりすごそうと考えた。そのためには濃い目に淹れたコーヒーの方がいいかもしれないと思いつき、キッチンへ行こうと立ち上がった時だった。
「りょうこさん……」
そうつぶやく低い声が耳に入り、心臓がドクッと鳴った。
起きたのかと思い補佐の顔を覗き込むが、眠っていた。
寝言――?
私の聞き違いでなければ、今聞こえたそれは私の身近にいる人と同じ名前だった。それだけで同一人物だと決まったわけではないのに、心の中にもやもやとした感情が広がり出した。
いったい誰の夢を見ているのですか?その人のことが好きなのですか?そして私はどうしてそんなことを気にしているの?会ったばかりでどんな人なのかも知らないのに。私よりはるかにずっと上の立場の人だというのに。
気づけば自問自答を続けていたが、いつの間にか床の上で眠ってしまっていたらしい。目覚めた時、私の体の上には毛布が掛けられていた。
「補佐……?」
点いたままの照明の下、辺りを見回したが彼の姿はなかった。
「帰ったのね……」
起き上がろうとして、体のあちこちに地味な痛みを感じる。
「いたたた……」
首をさすりながらもう一度部屋を見渡して、私はテーブルの上のメモに気がついた。
迷惑かけて本当にすみません
テーブルの上にあった部屋の鍵を借ります
鍵はドアポストに落としておきます
このお礼は後日改めて
山中
読み終えて、私はため息をついた。
「お礼ね……」
社交辞令だと思った。互いの連絡先を知らないのだから、今後補佐と個人的に会うことはない。とても忙しい人だと聞いているし、彼の言う「お礼」の機会など来るはずがない。
ほんのわずかにでもおかしな期待をしないように、私はそうと決めつけた。
カーテンの隙間から窓の外が見えた。間もなく朝だ。夜の色が薄らいでいくにつれて、部屋に残っていた補佐の気配も一緒に薄れていくようだ。それをふと寂しいと感じる自分に私は苦笑した。
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