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「補佐、すみません。私、そろそろ降りますので……」
みなみは小声で山中に呼びかけた。
彼はこめかみの辺りを抑えながら、のろのろと体を起こす。
「あぁ、すまない」
彼の様子に違和感を感じて、みなみはそっと彼の顔をのぞき込んだ。
「あの、大丈夫ですか?」
「揺れたらちょっと気分がね。でも、大丈夫だよ」
答える笑顔が弱々しく見えて、心配になったみなみは申し出た。
「あとちょっとでうちに着きますから、休んで行かれませんか?」
言い終えてからはっとした。山中とは今日会ったばかりだ。部屋に入れるのはまずい気がする。しかし、明らかに気分が悪そうな人を、このまま一人で帰してしまっていいのだろうかと悩み出す。
山中はすぐにみなみの葛藤を察した。
「ここから俺のマンションまではそんなに遠くないから、このまま帰るよ。心配してくれてありがとう」
力ない彼の声に、みなみは眉根を寄せた。
「全然大丈夫には見えませんよ」
これは緊急事態だ。彼は会社の人で、立場もある人だ。そもそも一介の新人とどうこうなるわけがない。疑うこと自体失礼な話だと思い直し、自意識過剰気味な自分に失笑する。
「ひとまずうちへいらして下さい。その後少し落ち着いたら、タクシーを呼びましょう。ほら、もう着きましたから」
山中はふうっとため息をつき、大人しく頷いた。
「迷惑かけてすまない……」
「気になさらないで下さい」
みなみは先にタクシーを降り、山中の腕を取ってその長身の体を支えながら自分の部屋へと向かった。一階で良かったと思いながらドアを開けて、部屋の奥まで連れて行き、リビングのソファに彼を座らせた。
「上着をお預かりしますね」
山中からジャケットを受け取り、ハンガーにかけてから、みなみはキッチンスペースへ向かう。冷蔵庫の中から常備しているペットボトルの水を取り出し、グラスに注いで彼の手に持たせた。
「どうぞお水です」
「色々と申し訳ない。ありがとう」
タクシーを降りてから何度目かの「申し訳ない」を口にして、山中は水を口に含んだ。
彼の様子を見守っていたみなみはどきりとする。
グラスを傾けて顔を仰向けた時、彼の喉元が見えた。水を飲む度に喉ぼとけが上下する。その動きについつい目が吸い寄せられてしまった。はっとして目を逸らし、気を取り直して山中に訊ねた。
「何か軽く召し上がりますか?」
「ありがとう。でも、もう大丈夫。水をもらったおかげでだいぶ楽になった。少ししたら、タクシーを呼んで帰るよ。……それにしても」
彼はため息をついた。
「酒を飲んで、他人にこんな迷惑をかけることなんて、今まではなかったんだけどな。今日顔を合わせたばかりだっていうのに、本当に申し訳なかった」
「いいえ、そんな……。ひどくならないようで安心しました。もし良かったら、この毛布を使ってください。夜はまだ少し冷えますから」
みなみは彼の側に寄り、両手で毛布を差し出した。
「ありがとう」
それを受け取ろうと伸ばした彼の手が、みなみの指先に触れる。
みなみは思わず手を引っ込めた。そのせいで毛布が床に落ちそうになり、慌てて掴もうとして結局失敗する。
「す、すみません」
毛布を拾い上げて顔を上げた時、山中と目が合った。鼓動が高鳴る音が聞こえたと思ったと同時に、耳の辺りがカッと熱くなるのを感じて、みなみは動揺する。これ以上は彼を見ないようにと目を伏せて、彼女はたたみ直した毛布をソファの端に置いた。
「ゆっくりなさっていて下さい」
「あぁ、ありがとう」
みなみは山中に会釈をし、たいして広くもないキッチンスペースに移動した。もしもあの場にとどまっていたら、まだふんわりとしているこの感情が、あっという間に大きく育ってしまいそうで怖かった。今の自分の態度を彼が訝しく思ったのではないかと不安になる。彼の表情を確かめたわけではなかったが、「ありがとう」と言った時の彼の声には戸惑いがにじんでいた。
とにかく何か飲んで落ち着こう――。
みなみはお茶を淹れるためにポットのスイッチを入れた。沸かしたお湯でハーブティを淹れる。飲むかどうかは分からないが、山中の分も用意した。いつまでもここにいるわけにはいかないと、平常心を取り戻すために何度か深呼吸をする。二つのマグカップを手にして、みなみは彼が休んでいるはずのリビングに戻った。
「補佐、ご気分はいかがですか?」
部屋に足を踏み入れながら、みなみは彼に声をかけた。しかし返事がない。そっと首を伸ばして様子を窺うと、彼は目を閉じてソファに体を沈み込ませていた。
みなみは音を立てないように注意を払い、マグカップをテーブルの上に置く。足音を忍ばせて彼の傍まで近づいた。
山中は静かな寝息を立てていた。
顔色が戻ってきているのが分かり、みなみはほっとする。時計を見ると、もうすぐ午前二時になるところだったが、もう少しだけ寝かせておいてあげようと、ずれていた毛布を掛け直した。
みなみ自身にも睡魔の手は伸びてきていたが、それまではお茶と雑誌でやりすごそうと考える。そのためには濃い目に淹れたコーヒーの方がいいかもしれないと思いつき、みなみはキッチンへ行こうと立ち上がった。その時だ。
「りょうこさん……」
山中の低いつぶやき声が耳に入った。心臓がドクンと鳴る。
起きたのだろうかと彼の顔を覗き込んだが、眠っている。どうやら寝言だったようだ。
そして、みなみの聞き違いでなければ、今聞こえたそれは自身の身近にいる人と同じ名前だった。たったそれだけで、同一人物を指しているわけではないと思うのに、心の中にもやもやとした何かが広がり出す。
いったい誰の夢を見ているのですか?その人のことが好きなのですか?
私はどうしてそんなことを気にしているの?会ったばかりでどんな人なのかも知らないのに。私よりはるかにずっと上の立場の人だというのに――。
みなみは自問自答を続けた。しかし、いつの間にか床の上で眠ってしまったらしい。目覚めた時には、体の上に毛布が掛けられていた。
「補佐……?」
点いたままとなっていた照明の下、見回した部屋の中、山中の姿はなかった。
「私が寝ているうちに帰ったのね……」
起き上がろうとして、体のあちこちに地味な痛みを感じた。
「いたたた……」
首をさすりながらもう一度周りに目をやり、みなみはテーブルの上のメモに気がつく。
『迷惑かけて本当にすみません。テーブルの上にあった部屋の鍵を借ります。鍵はドアポストに落としておきます。このお礼は後日改めてさせてください。山中』
読み終えて、みなみはため息をついた。
「お礼ね……」
社交辞令だろうと即座に思った。
互いの連絡先を知らないのだから、今後山中と個人的に会うことはない。とても忙しい人だと聞いているから、会社でも会うことがあるかどうか分からない。つまるところ、彼の言う「お礼」の機会は来ないだろうと、ほんのわずかにでも淡い期待を抱かないように、みなみは決めつけた。
カーテンの隙間から窓の外が見えた。間もなく朝だ。夜の色が薄らいでいくにつれて、部屋に残っていた山中の気配も一緒に薄れていくようだ。
そのことを寂しいと感じる自分に、みなみは苦笑した。