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「さて、ボクはあの子を追うか⋯⋯」
アラインは溜息まじりに呟きながら
ゆっくりと視線を落とす。
足元の柔らかな芝に
微かに刻まれた靴跡があった。
湿り気を帯びた土に残された
それは儚くも生々しい、逃げ去った少女の
〝残滓〟──
(あの体型なら、靴の大きさと歩幅的に⋯⋯
この足跡、だね?)
しゃがみこみ
指先でふわりと触れるように跡をなぞると
土に染み込んだ体温の名残すら
感じ取れそうな気がした。
彼女の焦り、動揺、熱狂⋯⋯
そのすべてが、地面に刻まれている。
アラインは静かに立ち上がると
大きく伸びをした。
青空の下、背筋をしならせ
ゆったりと肩を回す。
その仕草は
まるで獲物を前にした猫のように
優雅で気怠げだが、確かな気迫を帯びていた
そして
片手に握っていた宝石を、陽の光にかざす。
それは、まさに〝奇跡〟だった。
陽光を受けて淡く青白く輝くそれは
まるで氷の中に炎が灯ったような
二律背反の美を湛えている。
ほんの一粒の涙が
これほどまでに見る者の心を捉え
奪い、熱を生むなどと
誰が想像しただろう。
(⋯⋯フリューゲル・スナイダー時代の時に
どれだけ苦労して追いかけてた?)
アラインの脳裏に過ぎったのは
かつての〝狩り〟の記憶だった。
拷問に近い尋問、策略に次ぐ策略
何十人もの命を代償にしても
手に入らなかった──
不死鳥の〝涙の宝石〟
(それが⋯⋯
こんな小娘の、しかも〝推し活〟で
こんなにも、易々と⋯⋯ねぇ?)
アラインの瞳に、底知れぬ光が宿る。
その笑みは穏やかだった。
穏やかで──
けれど、あまりに冷たい。
(面白い⋯⋯これは、使える)
誰にも見られていないのをいいことに
アラインは唇の端を歪めた。
まるで偶然手にした宝を前に
神の悪戯を見透かしたかのような
嗤うような笑みだった。
そして、その目は既に
逃げた少女の背を追いかける鷹のように
確かに標的を捉えていた。
「さあ、アビゲイル・キルシュナー──」
口にしたその名は
甘やかで、残酷な愛撫のようだった。
「今度は、ボクがキミに
信仰と、支配の違いを⋯⋯教えてあげる」
宝石が陽に煌めいた瞬間
アラインの影が
音もなく庭の奥へと伸びていった。
とん──と。
跳ねるように地を蹴った瞬間
アラインのしなやかな身体は空気を裂いた。
滑るような着地の連続。
足音を森のざわめきに溶かしながら
木々の間を縫うように駆けるその姿は
まるで獣にも似た
優雅さと猛々しさを併せ持っていた。
──そして
獲物はすぐに見つかった。
羞恥に顔を紅潮させながらも
必死に息を殺し
森の奥へ奥へと進んでいたアビゲイル。
逃げ込んだ先は
落葉と湿気の匂いが混ざり合う小さな林。
鉄柵を越えた先の、誰もいない世界。
「⋯⋯はぁ、はぁ⋯⋯っ」
荒い息を抑えるように胸元を押さえ
アビゲイルは太い木の幹に手を置いた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
鼓膜の奥で叫ぶ羞恥の叫びも
まだ静まっていない。
けれど少し、落ち着いた。
そう思った瞬間──
「ばぁ!」
「うひぃいいいいいっっ!?!?」
突如、木の枝──
自分の手が置かれていた
ほんの指先の延長から。
逆さまの黒髪が、視界に落ちる。
ぬっと現れたその男は、ひどく楽しげに
森の緑を背景にして笑っていた。
逆さ吊りのまま
アラインが覗き込んでいたのだ。
「ア、アライン様ぁぁ⋯⋯っ!?」
アビゲイルは腰を抜かしかけ
地面にぺたりと座り込んだ。
そのアズールグレーの瞳が大きく見開かれ
唇は何度も動こうとして、言葉にならない。
「そんなに逃げなくてもいいじゃない」
くるりと枝から飛び降りたアラインは
空中でしなやかに身を捻り
まるで舞うように地面に着地した。
衣擦れの音がふわりと空気に溶け
砂利が一つ、跳ねる。
そして──
静かに片手を、木の幹についた。
まるでそれが自然な導線かのように
もう片方の手でアビゲイルの背後をふさぐ。
逃げ道は、どこにもなかった。
「ふふ⋯⋯
別に、何が好きだって
そこまで恥じること⋯⋯無いんじゃない?」
その声は、低く、柔らかく。
けれど、湿り気を含んだその声音は
確かに人を惑わせるものだった。
アラインの唇が、彼女の耳元に寄る。
香る吐息と
木洩れ陽を受けた宝石のきらめき。
その瞳がとらえているのは
ただ一人──
羞恥と興奮に震える少女の、剥き出しの魂。
「ねぇ⋯⋯〝推し〟って
キミの中じゃあ、どこまで許されるの?」
その言葉は
まるで告解を迫る神父のようで。
あるいは
咎を楽しむ悪魔のように
甘く、罪深かった。