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翌朝の教室は、どこかひんやりしていた。窓の外には黄色に染まった銀杏の葉が風に揺れ、時折ひらりと落ちていく。
秋が深まってきた証拠だ。吐く息こそ白くはないけれど、じっと座っていると足元から冷えが這い上がってくる。
林田が「寒っ!」と肩を竦めて笑い、クラスの女子たちは早くもカーディガンやマフラーを身につけ始めていた。
季節の移り変わりを目の前で感じながらも、俺の胸の中は昨日の出来事で熱を帯びたままだった。
(……氷室の笑顔。あの一瞬のぬくもり)
外の風景が冷えれば冷えるほど、氷室の傘の下で感じた体温が、鮮やかさを増して思い出される。
俺は自分の机に頬を乗せたまま、ぼんやりと外を眺めた。心の中には、あの放課後の出来事がまだ色濃く残っている。
(……あれ、夢じゃないよな)
土砂降りの校庭。俺に傘を差し出した生徒会長・氷室蓮。そして——あの一瞬の微笑。
普段は誰にでも無表情な氷室が、自分にだけ向けてくれた優しい眼差し。あの破壊力で心臓が跳ね上がり、胸の奥が熱を帯びて息が止まった。未だに耳の奥に残っている、自分の鼓動の音。
夢みたいな出来事だからこそ、現実味がまったくない。けれどスクールバッグのポケットには、今朝返そうと思って持ってきた、あの傘がある。雨粒をはじいた形跡がまだ残るその傘が、昨日の出来事が確かにあった証拠だった。
「奏、おっはよ!」
ふと名前を呼ばれて顔を上げると、クラスメイトで仲のいい林田が、不思議そうにこちらを覗き込んでいた。
「おーい奏。さっきからぼーっとしてるけど、大丈夫か?」
「あ、ごめん……ちょっと寝不足で」
慌てて笑ってごまかす。いつもどおりの自分を演じながらも、心の奥底はざわついていた。昨日のあれが、頭からどうしても離れない。
(氷室……なんで、あんなに優しくしてくれたんだ? 偶然? それとも……俺にだけ?)
そんなことを考えるたびに、胸の奥が妙にくすぐったくて落ち着かなくなった。窓の外で落ち葉が舞うたびに、そのざわめきが強くなっていく。
***
放課後。特に用事がなかったのでそのまま帰ろうと廊下を歩き、昇降口の直前でペンケースを入れ忘れたことに気づいた。ため息交じりに取りに戻った帰り道。ふと、生徒会室の近くを通りかかったそのときだった。
「……葉月」
不意に名前を呼ばれて、驚いて振り返る。そこには昨日と同じ、変わらぬ氷室の姿があった。けれどその声には、ほんの少しだけ柔らかさが混じっているように思えた。
「氷室、ちょうどよかった。これ、返そうと思って……傘。昨日はありがとう。マジで助かった!」
スクールバッグから傘を差し出す。その瞬間、指先が一瞬だけ氷室の手に触れた。ほんの刹那——それだけなのに、胸の奥にまで衝撃が走る。
(あれ……なんで、こんなに――?)
他の誰かと手が触れても、こんなふうに意識したことなんてない。林田や他のクラスメイトとハイタッチする時だって、別にどうとも思わなかった。
だけど氷室に触れた瞬間は、まるで心臓が掴まれたみたいに熱くなり、息が詰まった。秋の風で冷えた指先に残る温度が、どうしようもなく気になって仕方ない。
「あれから濡れなかったか?」
低い声に、心臓がまた跳ねる。普段なら感情の読めない氷室の表情にほんの僅か、けれど確かに、俺だけに向けられた優しさがあった。
その目をまっすぐ見返すことができず、慌てて「大丈夫」と笑って答える。笑ったはずなのに、胸はざわついたまま落ち着かない。
(これって……友達に向ける気持ちなのか? 違う、たぶん……もっと……)
考えれば考えるほど、わからなくなる。けれど一つだけ確かなのは、昨日も今日も氷室のほほ笑む顔が頭から離れないということ。
校舎の窓から差し込む夕焼けが、自分から遠ざかっていく氷室の背中を赤く縁取っていた。廊下の向こうでその背中だけが光に当たり、鮮明に浮かび上がって見える。
(……俺、なんでこんなに氷室のことを見てるんだろ……)
答えのない疑問を抱えながら、ただ胸の高鳴りを抑えることができずに、その場に立ち尽くしていた。秋が深まるほど、氷室の存在が俺の中で鮮やかになっていく——そのことだけが、確かな事実だった。