その日の午後はいつも以上に忙しかった。
でも忙しい時ほどゆったり構えないといけないのは、北川先生に態度で教えてもらっていること。
今も、新規案件電話を受け概要をTELメモに残す。
離婚協議書を公正証書にして欲しい…と。
「私、飲み物入れて来ます。一緒にいかがですか?」
「良子ちゃーん、私珈琲お願いします。片付けは私がするからね」
宮田さんの声に、私も……と皆が続く。
そうだよね、今日は本当に忙しいもの。
「後でいいから、僕にもお願いできるかな?」
椅子を転がし、座ったまま自分のブースから出てきた片山先生に言われ
「はい、珈琲でいいですか?」
「うん。後でいいよ。今日はたくさん案件も回してるのにごめんね」
「大丈夫です」
と給湯室へ行く。
事務所でお茶汲み当番なんていうものはなく、先生方も普段は自分のことは自分でする。
でも、今日は本当に忙しいんだ。
珈琲と紅茶を準備しながら‘居場所を伝えられたという喜び’‘考えていいのは俺のことだけ’という颯ちゃんのメッセージを思い出す。
「良子ちゃん、ごめん。3時アポの依頼者さん、もう来られたんだ。応接室にひとつお茶いい?」
「わかりました。孝市先生のお茶は?」
「いらない。30分で終わる予定」
約束より20分早く来られたから、孝市先生は急いで資料とパソコンを取りにブースへ戻る。
どこまで慌ただしい一日なんだと思うが、私の頭は非常に冷静に動いて、いつも以上に仕事がはかどった。
終業時間間際
「間に合ったっ!まだみんないるね?」
北川先生が、いい匂いと共に帰って来た。
「「「「お疲れさまです」」」」
「「「おかえりなさい」」」
「コロッケ、2個ずつ入れてもらったから、事務さん皆、持って帰って。先生は今日はまだ全員今からってところだろ?小腹が減る頃に食べて」
「「「ありがとうございます」」」
北川先生は外出先からもTELメモなどのメールを確認しているから、事務所の慌ただしさを把握している。
そして基本的に事務員の残業を良しとしないので、コロッケをお土産に買ってきてくれたのだ。
皆、いい匂いの袋を手に事務所を出る。
私は北川先生がお忙しいのはわかっているので、手短に昨日のお礼を伝えに先生のブースへ行った。
「昨日はありがとうございました」
「丁寧なメールを今朝もらったよ」
「本当に遠慮なく飲み食いしちゃいました。どれもとっても美味しくて」
「それは良かった。彼とはゆっくり話せた?」
「はい、十分に」
「うん、それは何より嬉しい報告だ。で、良子ちゃん」
「はい」
「今言うと、昨日の代わりにという感じで言いづらいんだが」
「大丈夫ですよ」
「6時まで30分だけ残業いい?」
「はい、やります」
半年して、この事務所の皆さんにもやっと慣れたと言える気がする。
「でね、今日の夕食はコロッケになったの」
‘北川先生様だな’
「いつも忙しいとシュークリームとか、お饅頭とか、ドーナツとか差し入れてくれるの」
‘理想の上司だな’
「そうだね。颯ちゃんもまだ今忙しいでしょ?」
‘今日は午後佳佑がいなかったからな’
「どうして?」
颯ちゃんは、秋に隣の駅前に知り合いがオープンしたレンタルサイクル店の話をしてくれた。
隣の駅はあの辺りで一番大きい駅。
昨日颯ちゃんもその駅までは電車があった。
そのレンタル店の自転車全てを颯ちゃんの店から納車したらしい。
「すごいね」
‘いいのはその後なんだ。納車して終わりでなく、定期的な点検整備を契約している。今日はその日で佳佑が出てた’
「お店うまくいってるんだね。二人の息ぴったりで」
‘父さんの店は一人だろ?俺たちは単純に倍の売り上げが必要だからな’
「すごいと思うよ。颯ちゃん、まだ23歳になったばかりだよ?自分の店がうまくいくってすごいことだよ」
‘弁護士ほどは稼げないけどな。リョウとのデート代くらいは稼ぐ’
「デ…デート……」
‘まあ、少し先になるな。4月は定休日以外に日曜の休みがある。3月だけは日曜の休みがゼロだからな。待ってて。それまでも会いには行く’
「今度の木曜日も来てくれるの?」
‘行く。泊まっていいか?俺、床で寝るし…ただ話が終わらないだろ?昨日もギリセーフで隣の駅まで帰れた’
「…床で…って…もっと話したいのはしたいかも…」
‘寝袋持って行くわ’
「寝袋…?」
‘使ったことない?リョウが寝袋で寝てみるか?’
颯ちゃんは愉しそうな声で
‘初体験してみれば?’
と笑っていた。
コメント
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颯ちゃんの言葉は魔法だね🪄💫そして職場の雰囲気もいいし協力的で、皆んながありがとうやごめんねが言えるって中々ないよね。その中で良子ちゃん生き生きとしてるんじゃないかなぁ〜😊 颯ちゃんのお泊まり、寝袋持参😆良子ちゃん入ってみたら?きっと颯ちゃんのあったかくて優しい匂いでいっぱいだよ♡