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それから二、三ヶ月が過ぎ、季節はだんだん春に向かっている。
といっても、僕たちは一歩も家から出ていないので本当のところはわからないが、窓から見える空気の色が、冬色から春色に
着実に変わってきている。
こんな風に一日中家にいて、ぼけ~っとして毎日を過ごしていくなんて、猫失格のような 後ろめたい気もしないでもないが、
慣れというのは恐ろしい。
だんだんそんな気持ちも薄らいでいき”まぁいいか猫は寝るのが仕事”と割り切って、怠惰な時をちいとふたり満喫していた。
が、ただひとつ、困ったことが起きている。お腹まわりだ。かなりだぶついている。
ノラ時代には、考えられなかったことだが、最近歩くと垂れ下がったお腹が揺れるんだ。
歩く速度でリズミカルにブルッブルッっとね。
そういえば人間のミドルエイジのメスで、時々二の腕が振り袖のようにブルブル揺れているのがいるけど、僕の場合はお腹が
振り袖状態なんだ。
―まあ、いいさ。お腹に脂肪がついたって構わないさ。今さら恋をするわけでもなし。
僕はたるんだウエストまわりをペロペロと毛繕いしながら、そう思った。
実際、人間の家でこうやってちいと走り回ったり、れれの振り回す猫じゃらしを無邪気に追いかけていれば、少々ウエストが
太くなろうが、そんなことはどうでも良かった。
ー猫じゃらし。
最初はバカにしてたこの猫用玩具だけど、実は僕、今この遊びに夢中なんだ。何でも偏見持たずにトライしてみるって、大切
なことだね。
実際やってみてつくづく思ったよ。もっと早くこの面白さを知ってたら良かった。
といっても、折角ちいが、”面白いから一緒に遊ぼう”って誘ってくれてのを断ってたのはこの僕なんだけどね。その時は、いい
歳をした大人が、そんな安っぽいネズミのぬいぐるみ追いかけて遊ぶなんて、どう考えてみても、みっともないって思って
た。プライドが許さないというか……。
それがある日、まあ、れれもこんなに 誘ってくれてるし、仕方ない一回だけだよ、なんて思いながら、社交辞令のつもりで猫
じゃらしに飛びついていったら、なんと、目から鱗とはこのことで、こんな楽しい遊びが世の中にあったのか、なんて感動し
てしまった。
以来、僕はれれが暇そうにしているのを見つけるや
”猫じゃらしはどうですかぁ?”みたいな顔して、甘えた声を出すことにしている。
僕の、その鼻にかかったような、てれ~っとした声は、どうやら効き目があるようで、たいていの場合、れれは猫用オモチャ
箱に立てかけてある、釣り竿風の長い猫じゃらしを、取り出してくれる。
そんなこんなで、あれほど頑なに拒否し続けていた猫じゃらしの世界だが、変われば変わるもので、デビューしてしまえば、
それ無しには一日が終わらなくなっている。
逆に、あれほど夢中になってたちいは、どうやらこの遊びに飽きてしまったようで、
「僕はここで見てるから、まるちゃんだけでどうぞ」なんて言うもんだから、猫じゃらしタイムは、僕とれれとの素敵な時間
になっている。
こんな風に、れれと遊びながら、運動不足解消できる一石二鳥の猫じゃらしではあるが、残念なことに、このウエストにしっ
かりついた脂肪にまでは、その効果が及んでいない。
僕の前足と後ろ足を結ぶ逆アーチ型のラインは、相変わらず健在だ。
じゃあそれが気になってるかと言えばノットアットオールだ。
こんなに楽しく家猫生活できるんなら、僕にとってお腹の脂肪なんて、取るに足らないちっぽけな問題に過ぎなかった。
だから僕は今ダイエットする気なんか、さらさらないし、これからもずっとそうだろう。
ところでれれ夫婦はトモバタラキとやらで、家にいないことが多いので、昼間のほとんどの時間、僕はちいとふたりで過ごし
ている。
夕方になるとれれが帰ってくる。
その時は、僕たちの大切なお仕事である**(玄関お出迎え)**の時間だ。
例え、ちいと追いかけっこをしている最中であっても、速やかに中断。
れれが玄関ドアの向こうでいつものようにバッグの底をひっかき回して鍵を探している間に、僕たちは玄関ドアに向かい前足
を揃え、背筋をすっと伸ばしてドアが開くのを待っている。
この姿勢、僕たち猫にとっては、単に”楽だからこうしているんです”というだけのことだが、人間たちにとっては、とてもお行
儀良く見えるらしい。
人間語で**”三つ指をつく”**と表現されるこの姿勢、思った以上に礼儀正しいお出迎えに見えるようで、ドアが開いた瞬間のれれ
の嬉しそうな顔を見れば、ちいとの追いかけっこを中断してまでお迎えに来た甲斐があったと言うもんだ。
その後れれが、リボンの付いた自分用のスリッパに履き替えている間中、僕とちいはれれの脚にまとわりつき、これでもかと
言わんばかりに何度もスリスリ体をこすり付ける。
この動作、僕たち猫にとっては、単に”あなたが外で付けてきた匂いが気に入らないので、僕たち自身の匂いを上からこすり付
けますからね”という、どちらかというと、自分たちの満足のためにやっている行為なんで、あまり良い風に解釈してもらって
も困るんだが、れれにしても、れれ夫にしても、このスリスリを必要以上に喜んでくれている。
まあ、それこそ、お互いの幸せのためなら深く考えない方が良いだろう。
家に帰って来たれれは、まず、僕たちに猫用おやつを用意し、次にまずそうなコーヒーと人間用おやつを口にする。
その後バッグから電話を取り出し、メールのチェックをしたり、電話をしたりして、一通りごそごそした後、僕がさっきから
心待ちにしている、猫じゃらしをオモチャ箱から取り出してくる。
だけど、楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、猫じゃらしは、また元の箱の中に返されてしまう。
そうこうしている間に、れれ夫が帰って来る時間になった。
人間用晩ご飯の支度に忙しいれれに代わって、僕たちがれれ夫のお出迎えだ。れれ夫の足音が聞こえるとすぐに、僕たちは玄
関に急いだ。
お決まりの**(三つ指お出迎えスリスリ付き)**の時間だ。
ここだけの話だけど、僕は始めこのデカいれれ夫が嫌いだった。
いや別に何かひどいことをされた訳じゃないんだよ。それどころか、最初からずっと優しい雰囲気なんだ。
だけど外にいた時、僕、大きな身体の人間のオスには、良い思い出がなくて、それで人間のデカいオスを見ると、反射的に逃
げ出したくなってたんだ。トラウマっていうやつなんだろうな。
それでも、れれ夫は僕の失礼な態度に別に腹をたてている様子もなく、たいして気にもしていない風だったんで、正直ほっとしているんだ。
れれ夫が帰って来てしばらくすると台所からいい匂いがしてくる。それが、みんなで晩ご飯の合図だ。僕たちのお皿には、い
つものカリカリご飯が盛られている。だけど、やっぱりテーブルの上の新鮮なお魚が気になる。
当分は 恥ずかしくてできなかったけど、僕もちいの真似をして、れれ夫の座ってい る椅子の近くに行き、とっておきの甘え声
を上げて、お刺身の切れ端をねだってみた。
「人間の食べ物は、体に良くはないよ」というれれに、
「まあ、このくらいなら」と言いながら、れれ夫はいつも気前よく自分のお刺身を僕らに分けてくれる。 その僕たちの幸せそ
うな食べっぷりに、
「困ったなぁ。これ以上太ったら、ブタ猫になっちゃうよ」などと言いながら、れれも負けじとお刺身を追加してくれる。れ
れは、言ってることとやってることが違うけど、そのいい加減さが彼女の良いところ。少々太ったところでどうってことない
から、おいしい物を食べたいっていう気持ちは、人間も猫も一緒だよね。
一家団欒。晩ご飯の時間は、僕とちいの一番好きな時間だ。
パンパンに膨れあがった幸せいっぱいのお腹をさすりながら、リビングの明るい灯の下で、僕たちは、ゆったりと流れる時間
を、れれ夫婦と一緒に過ごした。
そんな幸福な毎日が続いていたある日のこと、いつものように僕たちは、リビングで暇な時間をぼけ~として過ごしていた。
―あれ? れれの足音だ。今日は少し帰りが早いようだ。
僕とちいは、急いで玄関に向かった。
「まるちゃん、ちっちゃん、新しいお友達よ」
れれは、猫を連れて帰ってきた。
「え、ほんと? 」
「迷子になったのかもしれないけど、工事現場のあたりをうろうろしててね。あのあたりトラックが多い から、危ないでし
ょ。うちに来る? って言ったら、始めは遠慮してたけど、なんだか行く当てもなさそうだったんで、強引に連れて帰ってきた
の。だからいきなりでびっくりしたかもしれないけど、仲間に入れてもらえるかしら?」
そんなことより、その新しいお友達っていったいどんな猫なんだ、とドアの向こうで遠慮がちにうつむ いている猫が気にな
ってしょうがない。
「さあさあ、中に入って! 紹介するわ。うちのまるちゃんとちっちゃんよ。あなた達、仲良くしてあげ てね」と、れれが紹
介してくれた猫を一目見た瞬間、僕の心臓は部屋中に響きわたるくらい大きな音で、ドッキンと鳴った。
そこにいたのは、なんと、僕の憧れのマドンナ、永遠の片思いのお嬢さんだった。