「一緒に帰ってくる途中で考えたんだけど、名前は、ももちゃんでいいかしら? 可愛くてピッタリの 名前でしょ。じゃあ、
あなたたち仲良くしてね」と、言うれれに、
「はい!」と家中に響き渡るような声で返事をした僕だったが、後ろから
「イヤだ! 絶対にイヤだ!」と叫ぶちいの声に、僕は全身の毛が逆立つほど驚愕した。
「え、なんで? なんでダメなの? ちい!」
僕は、飛び出さんばかりに両目を開いて、ちいに詰め寄った。
ちいは、ゆっくり僕の体を押し戻しながら言った。
「僕、今まで通りまるちゃんとふたりで暮らしたいんだ。その子、女の子だろ。女ってイヤなんだ。僕のお母さんは、僕がま
だ赤ちゃんだった頃、僕を置いてきぼりにして、どこかに行ってしまったん だ。だから僕、女なんて嫌いだ」
「違うよ、ちい。それは絶対に違うよ。あのね、よく聞いて。
人間が、ちいをお母さんから引き離して、外に置いてきぼりにしたんだ。そうに決まってるよ! 人間 って、そんなひどいこ
とを、平気でするんだ。あ、イヤ、人間が皆そうっていう訳じゃないんだよ。
あの、あのね、よく聞いてね。良い人間も、意地 悪な人間もいろいろで、ええと、それは、前もちょ っと話したことあるけ
ど、猫好きオーラと猫どうでもいいオーラと、もうひとつの、あの、あ……」
僕はちいをなんとか説得しようとあせるあまり、気持ちだけが先走って言葉がうまくつながらない。
「人間の悪口言うな!」
ちいが、かんかんになって怒った。
「だいだいまるちゃんは最初から、人間が僕達を食べるんだとか、訳のわからないことばかり言って!被害妄想もいいとこだ
よ!」
赤ちゃんの時に人間の家に来て、外の世界を全然知らずに大きくなったちいには、こんな話、通じるわけないよな。
次の言葉を探している僕に向かって、
「とにかく、僕は女が大嫌いだからね!」という捨てゼリフを残して、隣の部屋に走っていった。
後に残った僕とももちゃんは、イライラと尻尾を振りながら、しばらく黙って天井を見上げていた。
ー困ったなぁ。れれは、どこにいるんだろう。助けてほしいんだけど。
見回してみたが、姿がない。どこかに出かけて行ったようだ。
ー僕がしっかりしなくっちゃ! へこんでる場合じゃない。
気を取り直した僕は、努めて明るい声でももちゃんに呼びかけた。
「大丈夫だよ。ちいは、あんな事言ってたけど、きちんと話せばわかってくれるよ。僕に任せておいて!絶対に大丈夫だか
ら、安心していてよね、お嬢さん!」と、胸を叩いてみせた。
「ありがとう。嬉しいわ。だけど、お嬢さんはもう止めて。れれっていう名前の、私をここに連れてきてくれた人間が、私に
ももちゃんっていう名前を付けてくれたのよ。だから……」
「え、ももちゃんって呼んでいいの?」
恥ずかしさの余り、前足の内側を舐めては、ごしごしと顔を擦りながら、気持ちを整えた。
「もちろんよ。ここはノラ猫集団ではないわ。それに、私、あの頃だってお嬢さんとか、姫とか、特別な呼び方をされるの、
あまり好きではなかったの。だけど、集団の決まりだったから何も言えなかったの」
ねぇ、どうしてノラ猫集団から出てきたの?
どうして工事現場になんかいたの?
喉まででかかった言葉を飲み込んで、
「じゃあ、遠慮なくももちゃんて呼ばせてもらうね」と、笑顔で応じた。
多分、何か集団を離れなければならない理由があったんだろう。ボスと別れたとか……まさか……。
いつか聞ける時がくるだろう。
それより、何より、とんでもなく素敵なことが起こったじゃないか!
夢にまで見た、あこがれのお嬢さん、ではなくて、ももちゃんが、二度と会うはずのなかったももちゃんが、今ここにいて、
うっとりとした眼差しで僕をじっと見つめている。
ドリームカムズ トゥルーだ。
「ねえ、あなたはまるちゃんって言うのね。まるちゃんは外にいた時、確か人間の運転する車に、それも私の目の前で」
「そう、そうなんだ。僕ももちゃんに挨拶をしようと道路を渡りかけたら、いきなり車が猛スピードでやって来てね」
「大変だったわね。あの後人間に連れて行かれたから、どうなったかと思っていたけど、こんなに元気に暮らしていたなん
て、本当に良かったわ。だけど不思議な偶然よね。だって、あなたが助けられた人間に、私も助けられたんですもの」
「ああ、そうだよね。そして、助けてくれた人間のれれが、友達オーラを持ってたってことも、ラッキーだったよね」
僕は、あの事故の後、ももちゃんがちょっとでも僕のこと心配してくれていたかと思うと、嬉しくて 胸がドキドキしてき
た。
「だけど……」と、ももちゃんが少し躊躇した感じで、何か言いかけた。
「え、何だい?」
僕はちょっとすまして、クールに答えた。
「あなた、まるちゃん、よく太ったわねぇ」
この瞬間、胸のドキドキがサッと普通の鼓動に戻った。
「そういうの、幸せ太りっていうのね」と感心されて、僕は思わずウエストをひっこめた。
「とにかく、ちいの所に行こう。そしてもう一度落ち着いて話してみよう。あいつ、いいやつなんだ。
きちんと話せば、わかってくれるはずだよ」
僕は、思い切り話題を変えた。
リビングにはひとりボール遊びをするちいがいた。
いつもは、ちいとふたりで遊んでいるボール遊びだけど。
「ちい」
僕は、努めて普段と変わらない声で呼んだ。
ちいはこちらに背を向けたままで、返事をしようともしない。
「ちい!」
もう一度、できるだけ明るい調子で呼べかけた。ちいは少しだけこちらに体を向けたが
「僕は、女なんか嫌いだ!」と一言。向こうの部屋に行ってしまった。
簡単なことではなさそうだ。
「今は、ちいも興奮しているから、これ以上言わない方がいいと思うんだ。しばらくそっとしておいて、また時期をみて話し
てみるよ。ちいは、ずっと人間の家で暮らしてきたからねぇ。それって、幸せなことなんだけどね」
「そうね、それって幸せなことよね」
ももちゃんが、遠くを見るような目で、微かに頷いた。その姿に、
―ももちゃんって、やっぱりきれいだ。
と、つい思ってしまった。
―あ、いけない、いけない。
僕はブルブルッと頭を横に振り、その考えを向こうに追い払った。
ももちゃんが心配そうな顔で
「どうしたの? まるちゃん」とこちらを覗きこむ。
「あ、何でもない。何でもない」と言いながら、ずっと気になっている疑問を、思い切って口にした。
「ももちゃん、あの……」
え、何? と小首をかしげるももちゃんは、それだけでますます美しい。
「あのね、こんなプライベートなこと聞いて気を悪くしないでね。あの、ボスとはどうなったのかと思って」
何故か、僕の心臓がドキドキしている。ももちゃんの表情が、強ばった。
「あ、ごめん。僕、変なこと聞いちゃったね。今のは忘れてね。全然答えなくていいからね」
あわてて謝る僕に、ももちゃんは寂しい微笑みを返してきた。
「あのね、あなたも同じノラ猫集会のメンバーだったから、外で何があったか 聞いておいてもらいたいの」
ももちゃんの真剣な口調に、僕は何かとんでもないことがあったのでは、と感じた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!