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踏み出した足音が、静まり返った廊下に吸い込まれていく。
遥は視線を逸らしたまま、微動だにしなかった。膝を抱えた体は、あまりにも細く、傾けばそのまま崩れてしまいそうなほど脆く見えた。
それでも、日下部は動かなかった。距離を詰めることも、声をかけることもしない。ただ、そこにいた。遥の手の届く、少しだけ先に。
……やめてくれよ。
触れないなら、いないでくれ。
何も壊せないなら、何も見ないでくれ。
遥の中で、言葉にならない言葉が澱のように溜まっていく。
逃げ出したいのはこっちだ。
なのに、なぜまだそこにいる。
なぜ、あのときみたいに、黙って背を向けない?
あの家で過ごした数日──
何もされなかった。何も言われなかった。
ただ静かに、生活の中に混ぜられていた。
痛くもなく、快楽もなく、命令も罵声もない。
ただ“生きていていい”ことだけが、そこにあった。
──あれは、毒だった。
壊されてきた方がずっと楽だった。
痛ければ、「仕方ない」と思えた。
抱かれれば、「そういうもの」と諦められた。
殴られれば、「俺が悪い」と言えた。
でも、“何もされない”ことで、遥はひとつだけ知ってしまった。
……もしかしたら、自分は壊されなくても、生きていられたのかもしれない、と。
──それを知ってしまった自分が、何よりも気持ち悪かった。
なのに、その記憶を、日下部は「覚えている」。
だから逃げたのだ。
それなのに、また戻ってきて、今も、こうして──
「……見るなよ」
声は、喉の奥でかすれた。怒鳴る力はなかった。ただ、吐き捨てるようにこぼれた。
「──俺を、見るな」
その言葉に、日下部がかすかに眉を動かした。
だが、返事はなかった。
遥はそれを、肯定とも否定とも取れず、腹の奥がざらりと音を立てる気がした。
……言葉がほしいんじゃない。
でも、黙っていられるのはもっと嫌だ。
どっちにしても、何をされても、息が詰まる。
「なんで……まだ、そこにいんの」
ぽつりと漏らした声は、感情にひきつれた。
――おまえがそこにいるだけで、俺の“演技”は効かなくなる。
“蓮司のもの”みたいな顔をして、ふざけて笑って、
そうやって全部、嘘で塗り固めてきたのに。
視線を上げられない。
でも、皮膚の下で、何かがうずいている。
日下部が近くにいる。あの沈黙とまなざしだけで、自分の中の“本音”に手をかけられる気がする。
――怖い。
蓮司に壊されるほうが、よほど楽だった。
傷の意味を、自分で決められるから。
でも日下部は、何も壊さないまま、遥を“晒す”。
それがいちばん残酷だと、遥は思っていた。
だから、どこまでもねじれてしまう。
期待していないふりをする。
信じていないふりをする。
それでいて、ほんの少しだけ、心のどこかが震えてしまう。
……もうやめてくれよ。
そんな目で見るな。
気づいたふりも、知らないふりも、やめてくれ。
そのまま、俺のことなんか壊してくれたほうが、ずっと楽なのに。
遥はぎゅっと膝を抱き、肩をすぼめた。
声にならないまま、
「俺なんか見てどうすんだよ」
と、唇だけが動いた。
日下部はまだ、そこにいた。
何も言わず、何もしていない。
けれどその沈黙が、遥の心を確かに削っていく。
──演技じゃない自分を知っているやつが、一番こわい。
でも、
──演技じゃない自分を知っていて、それでも側にいるやつが、もっとこわい。
そして、
──そんな存在を、ほんとうは──