テラーノベル
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日下部の気配が、わずかに動いた。わからないふりをしない男だ。
でも、どうしていつも、そうやって“まっすぐ”でいられるんだ。
遥は、背中を丸めたまま声を漏らす。
「……おまえ、ほんとバカだよな」
目は合わせない。けれど、吐き捨てる言葉に棘はなかった。
「見んなっつってんのに、ずっといるし。……かといって、何か言うわけでもないし」
沈黙。
「じゃあ何? 哀れみ? 同情? ……それとも、“おまえのせい”って、言ってほしいわけ?」
日下部は、目の前に静かに腰を下ろした。
床に直接座り、遥の視線と同じ高さまで降りてくる。
それがまた、遥にはたまらなく不快だった。
痛くもない、優しくもない──ただ、「同じ高さ」に並ばれるという行為が。
「……いっそ、殴ってくれたら楽なんだけど」
遥の口から零れたその一言に、日下部がわずかに眉を寄せた。
「でも、おまえ──ほんと、そういうの、しないよな。昔は平気で踏んでたくせに」
そう言って遥はようやく、視線を日下部に向けた。
薄い光の中で、黒く濁った瞳が、まっすぐに突き刺してくる。
「今さら、まともな顔すんなよ。気持ち悪い」
その声は、微かに震えていた。
押し殺して、押し殺して、なお零れる、かすかな音。
「……俺、そういうふうに扱われるの、慣れてるからさ」
「汚いもん見るみたいに見られるの、普通だったし。触られて、使われて、壊されて──そういうのが“日常”だったから」
「おまえが何もしなかったとき、……あれが、いちばん、こわかった」
日下部が小さく息を呑んだ。
だが遥は、止まらなかった。
一度崩れた感情の栓が、内側から静かに、じわじわと流れ出していく。
「期待しちゃったんだよ。何かあるかもって。……でも、“なにもない”って分かって、余計に、自分が惨めになった」
「俺、そんな価値ないくせに。……ちょっと優しくされたくらいで、勘違いした」
「──馬鹿みたいだよな。勝手に震えて、勝手に逃げて、……また、勝手に壊れてんだ」
日下部の指先が、ふいにわずかに動いた。
触れたいのだと、遥は直感する。
けれど、怖かった。怖くてたまらなかった。
「──触るな」
声は鋭かった。
反射のように吐き出された拒絶。
日下部の手は止まる。
だが、それでも下げられなかった。そこに在り続けた。
「……だったら、言ってくれよ」
日下部の声は静かだった。
だが、その底には焦燥が滲んでいた。
「おまえが何をされてきたのか、全部はわからない。……でも、今、おまえが何を“されてない”でいるのか──それなら、見てる」
遥の喉がかすかに鳴る。
「ふざけんなよ……。見るだけなら、誰でもできんだろ」
「それが、どれだけ苦しいか、わかってんのかよ」
「“おまえがそうしたいなら、俺は見てる”って、それ……それ、一番、冷たいんだよ」
日下部は、それでも逃げなかった。
「冷たいのは……何もしないままだ」
「でも、壊したくないんだよ。おまえを」
遥は、ふっと鼻で笑った。
「俺なんか、もうとっくに壊れてんだよ。……気づいてないの、おまえくらいだよ」
「じゃあ……壊れたままでいい」
日下部がそう言ったとき、遥の目がかすかに揺れた。
「……壊れてても、おまえがそこにいるなら。俺は、それでいい」
「……ふざけんな」
遥は、吐き捨てるように呟いた。
「そんなの……余計、苦しいんだよ」
言葉はそこまでだった。
あとは、もう何も続けられなかった。
胸の奥が、何かを握りつぶすように痛かった。
逃げたい。でも、逃げる場所がなかった。
そして今、遥はようやく気づいていた。
──日下部が、“壊さずに残そうとしている”自分が、
いちばん自分で、自分が許せない。
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