「座って」
柔らかい声だった。
けれど、その命令には抗えない“重み”があった。
晴人は足をすくませながら、自分の部屋のソファへと腰を下ろす。部屋に入れた覚えはなかった。なのに、悠真――そう名乗った男は、すでに中にいた。まるで最初から“そこに住んでいた”かのように、当たり前の顔をして。
リビングには見慣れない香りが漂っていた。柑橘とウッド系が混じったような、大人びた香水。晴人が自分で選ぶはずのない匂い。
「警察呼ぶ……から」
唇が震えていた。指先はスマホを握っていたが、悠真はそれをちらりと見ただけで、口元に微笑を浮かべた。
「呼んでもいいよ。でも、その前に見せようか?」
悠真は懐から、晴人の大学の学生証を取り出した。次に出てきたのは、バイト先のシフト表のコピー。さらには、スマホで撮られたらしい、晴人の入浴後の写真。窓の隙間から、どうやって撮ったのか。
「これ、晒されたらどう思う? それでも、呼ぶ?」
「……っ、最低……」
「違うよ、晴人。僕は“君のことが好き”なだけ」
笑顔のまま、悠真は晴人の隣に座った。膝と膝が触れそうになる。
「最初に見かけたのは、3ヶ月前。ベンチでパン食べてたよね。白いイヤホンつけて。視線は伏せてたのに、涙が出そうな顔をしてて……それが、綺麗で。切実で。…守ってやりたくなった」
「勝手に…見てただけでしょ…っ、気持ち悪い…!」
「そうだね。でも、君も気づいてたよね?」
ぴたり、と。悠真の指先が頬に触れる。ひんやりとした感触。
晴人は身を引こうとするが、背もたれに押し付けられて逃げ場がない。
「無意識のうちに、視線を探してた。君の目は、誰かを探してた。寂しくて、でも誰にも見つけられたくないっていう、そんな矛盾が、たまらなく綺麗だった」
「俺は…あんたのことなんか…」
「じゃあ、なんで泣いてるの?」
涙なんて、流した覚えはなかった。
けれど、目の端を濡らしていたのは、確かに熱い滴だった。
悠真はその涙を指で拭い、そのまま自分の唇に運んだ。
「しょっぱい。君の味だ」
「やめろっ…やめて…っ!」
押し返そうとする腕は弱かった。
悠真の手が、ゆっくりと晴人の肩を撫で、首筋へと指を這わせる。
まるで、骨の形をなぞるように。
「怖いよね。でも、安心して。君を傷つける気はない。僕は君の全部が欲しいだけ」
「その“欲しい”ってのが怖いって言ってんだよ……っ!」
晴人が怒鳴ると、悠真の笑顔が一瞬だけ消えた。
代わりに現れたのは、氷のように冷たい無表情だった。
「ねえ、晴人。そんなに怒るなら、君に一つだけ訊いてもいい?」
「……何」
「君は今まで、“ちゃんと抱かれたこと”、ある?」
息が止まった。反射的に視線を逸らす。
悠真は晴人の喉元に口を寄せ、囁く。
「君は寂しいくせに、誰にも触れさせない。触れられると壊れるって、そう思ってる。だからこそ、僕が欲しくなった」
「そんなの…勝手な思い込みだろ…」
「じゃあ証明して。君が、他人の手で何も感じないっていうなら、今から僕が君に触れても、何も起きないはずだよね」
悠真の手が、シャツの裾を捲り上げる。
指先が肌に触れる。まるで冷たい電流のように、感覚が走った。
「……やだ…やめてっ……!」
晴人は叫んだ。身体をねじって逃れようとする。だが、悠真は動じない。
「声を上げるのも、抵抗するのも、全部君の自由だよ。でも僕は止めない。だって、“君が本当に嫌がってる顔”を、僕はまだ見てないから」
そう言って、悠真は晴人の首にキスを落とした。
優しく、丁寧に。あまりにも“愛している者”の仕草で。
(どうして……身体が……)
怖いはずなのに、熱がこもる。恐怖と快感が混ざっていく。
「わかる? 愛されるって、気持ちいいんだよ。怖がらなくていい。これから、君は僕のことしか感じられなくなる」
⸻
***
その夜、晴人はベッドで震えながら眠れなかった。
何もされていない。けれど、すべてを奪われた気がした。
部屋は、もはや晴人のものではなかった。
悠真の香水が染みついた空気の中、晴人は頭を抱えた。
もう、どこにも逃げられない。
心のどこかで、それを理解してしまった自分が一番怖かった。