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騙された。
「財布を買いに行ったのに……」
「財布『も』買っただろ?」
「そうだけど……」
婚約指輪なんて――。
「次の休みに取りに行こうぜ」
雄大さんは店に入るなり、ショーケースに並んでいる以上の指輪が見たいと言い、店員は上機嫌で奥の個室に私たちを案内した。
値札のないダイヤの指輪がずらりと並び、私はさすがに気後れした。
こんな高価な指輪、どこにつけていくのよ――。
「サファイアの指輪……がいい……」
店員と雄大さんがあれやこれやと盛り上がる中、私は意を決して言った。
「サファイア?」
「そう」
店員は察したらしく、すぐにサファイアの指輪を見せてくれた。ブルー、ピンク、イエロー、バイオレット。
「なんでサファイア?」
「誕生石では?」
「え?」
「九月の誕生石ですよ。サファイア」
「ああ……」
二人の会話はそっちのけで、私は並ぶ指輪をじっと見つめ、一つを手に取った。
「これがいい」
それほど大きくないオーバルカットのブルーサファイアと、それを囲むダイヤはクロスモチーフになっている。
一目惚れだった。
「これがいい」
指のサイズを測り終えると、私は部屋から出された。結局、価格は最後までわからないまま。
店を出て、指輪の価格を聞いたけれど、雄大さんは答えなかった。
食事をして帰ろうと言われたけれど、今日は自分の家に帰るからと断って、雄大さんのマンションに荷物を取りに行った。
朝、マンションを出てからずっと、雄大さんは私の手を握っていて、それが恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。
「お前、越して来いよ」
「え?」
「行ったり来たり面倒だろ」
雄大さんの言葉に、胸の奥にある不安が急に大きくなった。そして、聞くのが怖いくせに、聞いてしまった。
「もし……結婚しなかったら?」
「は?」
「もし、結婚する前に黛を追い払えたら――」
「姉さん」
「え?」
「俺の姉貴」と言って、雄大さんが正面を指さす。
その方向に、女性がいた。
「やっと帰ってきたぁ。どこ行ってたのよ!」
腰まであるストレートの黒髪に、コルセットベルトでスタイルの良さを強調するワインレッドのワンピース。同じ色のピンヒールは、十センチ以上はあるように見えた。雄大さんと同じくらいに見えるけれど、姉というのだから年上なのだろう。
に、似てる……。
顔、と言うよりは雰囲気が雄大さんとよく似ている。自分の魅力を知っていて、自信に溢れている。
「来るなら電話しろよ」
「スマホの充電切れちゃった。あら? デートだったの?」
お姉さんが私に気がつき、繋いでいる手を見た。私は手を離そうとしたけれど、彼はそれを許してくれない。
「馨、俺の姉の澪」
「那須川馨です。部長にはいつもお世話になっております」
雄大さんが手に力がこもり、痛い。
「部長? あんた、部下には手を出さないんじゃなかったの?」
「馨はいいんだよ。本気だから」
「は?」
「結婚する」
「へ?」と、お姉さんは目を見開き、美人が台無し。
「おめでとう、姉さん。念願の義妹が出来るぞ」
「――えぇぇぇーーー!」
漫画のような雄叫びを上げて、お姉さんは言葉を失った。
「あの……。私は一人で帰れるから、部長は――」
「何で、部長?」
お姉さんの前で『部長』と呼んだことがお気に召さなかったよう。
「……何となく?」
「何となく、やめろ」
「とにかく! せっかくお姉さんが来てくれたんだから、食事でも――」
「そうだな! 飯、行こうぜ。姉さんも一緒に。姉さんの荷物置いて、馨のを持ってくるから待ってろ」
「え? ちょ――」
やっと手を離してくれたと思ったら、私の返事もお姉さんの返事も聞かずに、お姉さんのキャリーバッグを抱えてマンションに入って行った。
「雄大が結婚……って、本気?」
聞かれて振り向くと、お姉さんが至近距離に迫っていた。
「はい……多分……」
「多分?」
「あ……いえ……」
「もしかして、脅されてる? デキ婚とか?でなきゃ――」
「いえ! 違います!!」
思わず仰け反るほどの迫力に、私は言った。
「すいません!」
「すいません? 何で謝るの?」
契約結婚ですみません……なんて言えない――。
「何か……普通で……。色々と……」
「何言ってんの! 普通が一番じゃない!!うちの親は雄大が結婚するって聞いたら喜ぶわよ!」
「な? だから言ったろ?」
雄大さんがにこりと笑った。
「ま、でもちょうど良かった」
「え?」
「とにかく、飯、行こうぜ」
タクシーで有無を言わさずに連れて来られたのは、ホテルのレストラン。白のシフォンブラウスに黒のワイドパンツという服装の私は場違いだからと遠慮したけれど、雄大さんに通用するはずもなく、それどころかお姉さんにまで腕を組まれて、逃げる術はなかった。
「で? 姉さんは何しに来たんだ?」
コースを注文し、雄大さんが聞いた。
「また、家出?」
お姉さんは気まずそうに私を見る。
「馨ちゃんの前でする話じゃ……」
馨ちゃん……。
あまりにも久し振りにそう呼ばれてくすぐったくなった。
「どーせ姉さんが勝手に怒って、勝手に出てきたんだろ?」
「なんでいつも私が悪いのよ? 今回は向こうが――」と言いかけて、お姉さんは口をつぐんだ。
ゴホン、と咳払いする。
「私のことはいいから! 馨ちゃんのこと話してよ」
「え?」
「雄大のどこが良くて結婚するの?」
「ええ?」
「ご家族は許してくれてるの?」
「あの……」
「あ、結婚してくれるのは嬉しいのよ? だけど、こんな偉そうな俺様野郎のどこがいいのか、私にはさっぱり――」
「姉さん、馨が困ってるだろ」
雄大さんがスマホをいじりながら、言った。
「馨、銀行のキャッシュカード持ってる?」
「あります……けど?」
「ちょっと見して」
「雄大! いくら結婚するからって、馨ちゃんのお金を――」
「違うから! ちょっと見るだけだよ」
なんだかよくわからないまま、私は財布からキャッシュカードを出し、渡す。
雄大さんはカードを見ながらスマホを操作し、すぐにカードを返してくれた。
「何なんですか?」
「結納金、振り込んでおいたから」
…………。
「はい?」
「結納金! な?」と言って、お姉さんにスマホの画面を見せる。
「指輪は来週仕上がりだけど、とりあえずこれで婚約成立ってことで」
「あんた……これが結納? ふざけんじゃないわよ! 馨ちゃんの立場も考えて――」
「いいんだよ、これで」
「え?」
ウエイターが食前のシャンパン運んできて、それぞれのグラスに注ぐ。
「馨の両親は他界しているし、年の離れた妹は留学中だから、姉さんに立会人になってもらえれば充分なんだよ」
「え――?」
お姉さんが私を見る。驚きと憐れみが見てとれた。
「そうなの?」
「はい……」
急に申し訳なさがこみ上げてきた。
雄大さんとお姉さんを見ていれば、二人が育った環境が恵まれていることはわかる。雄大さんにはスキップで結婚を喜んでくれる両親がいて、義妹が出来ると喜んでくれるお姉さんがいる。
私には、誰もいない……。
私が婚約したと聞いても、桜はきっと喜ばない。
黛が立波リゾートの社長になれないかもしれないと、心配になるだけ。
「あの……、すみま――」
「馨」
私の謝罪は、雄大さんの低い声でかき消された。
「俺がお前と結婚したいと言ったんだ。それでいいだろう?」
『謝るな』と、雄大さんの目が言っていた。
『俯くな』とも。
「雄大! 馨ちゃんを泣かせたら、私が許さないわよ!? 馨ちゃん、雄大に泣かされたら私に言うのよ? 私が守ってあげるからね!」
守る……。
『守ってやる』
雄大さんの言葉が、頭に響く。
『守ってあげる』
お姉さんの言葉が、耳で木霊する。
『守ってやれなくてごめんな』
別れ際の昊輝の言葉が、胸を締め付ける。
「え? やだっ! 馨ちゃん?」
涙が溢れた。
「ごめんなさい……」
守ってもらう資格なんてない。
「ごめん……な――」
私は雄大さんに相応しくない。
「ごめんなさい――!」
それでも、私は雄大さんを離せない――。
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