たった2ヶ月の間だったけれど、荷物ってこんなに増えるのね。
ほとんどは仕事の資料で整理して引き継げばいいけれど、個人的に置いていた文具や小物もカバンに詰めれば結構な量になった。
未練なんて残してはいけないとわかっている。
でも、もう来られないと思うと寂しさがこみ上げる。
「本当にいいのか?」
「うん」
「せめて、専務と話をしてからにしないか?」
さっきから徹がずっと説得している。
「もう決めたの。元々あと1ヶ月の約束だったし、いい機会だったのよ」
奥様と別れた後、私は荷物の整理を始めた。
辞めると決めた以上少しでも早いほうがいいと思えたし、できれば専務が帰ってくる前にいなくなりたかった。
しばらくして、奥様から事情を聞いた徹が駆け込んできた。
「お前が辞める必要なんてないぞ」
怖いくらい真剣な顔で言われ、ちょっとうれしかった。
たった1人でも私の味方をしてくれる人がいるのは初めて。
分かってくれる人がいると思うだけで、気持ちが軽くなった。
でも、
「しょうがないでしょ。私が側にいれば専務の立場が悪くなるばかりなんだから」
私がいなければ、専務は河野副社長の罪を追求できただろう。
奥様との関係だって、私が側にいることで気まずくなる。
やっぱり私は、専務にとって足かせにしかならない。
「だからって、このまま逃げるのか?」
「ええ」
たとえ卑怯と言われても、今は顔を合わせて話す自信がない。
「それですむと思うのか?」
「いいえ」
簡単には納得してくれないだろう。
少し落ち着いたら、きちんと話をしないといけないとも思う。
「気持ちの整理がついたら、ちゃんと話しをする」
専務と出会う前の自分に戻るには、やはり時間が必要だから。
「知らないぞ、相当怒るぞ」
「でしょうね」
目に見えるわ。
「専務には言わないから、俺には連絡先を教えろ」
「だめよ。徹にも連絡はしないわ」
徹だからこそ、連絡はしない。
徹は彼にとって唯一の味方なんだもの。その関係まで壊すわけにはいかない。
「荷物をかたづけたら、黙って帰ります。辞表は専務の机に置かせてもらったし、引き継ぎの資料は整理してあるから」
本当ならきちんと挨拶をして去るべきだろうけれど、今はそんな状況でもない。
不満そうに見ている徹を無視して、私は荷物を片づけていった。
***
半日かけて荷物の片付けをして、その日の夕方には大体整理できた。
もう会えないと思うと寂しさで一杯だけれど、これが最善策と自分に言い聞かせた。
「お世話になりました」
もう1度室内を見回して、私はドアの前で頭を下げる。
自宅に戻っても、実家に帰っても、すぐに見つかってしまうだろう。
いつまでも逃げ続けるつもりはないけれど、今は少し時間が欲しい。
そんな思いから、私は都心のマンションへ向かった。
そこは駅近で交通の便利がいいのが魅力の分譲マンション。
私が住むところより少し広めの2LDKのファミリータイプの部屋。
実はここ、私の祖母が管理している部屋。
母さんの母さんである祖母は若い頃から自分で事業をしていて、70を過ぎた今でも不動産業を営んでいる。
その祖母に頼んで、この部屋をしばらく使わせてもらうことにした。
「隠れ家にしては随分贅沢よね」
つい、独り言が出てしまった。
私はここでしばらく頭を冷やそうと思う。
28にもなって恥ずかしいけれど、初恋の痛手からはそう簡単に立ち直れそうもない。
ブーブーブー。
さっきから、携帯が鳴っている。
きっと孝太郎からだ。
今日はメールも着信もすべて無視しているから、心配しているんだろう。
ブーブーブー。
何度もしつこく鳴る着信。
明日もう1日香港での仕事が残っている孝太郎に心配をかけて申し訳ないけれど、今は気持ちを整理する時間が欲しい。
自分でも意識しないうちに私は疲れていたらしい。
マンションに着き、荷物を整理することもなく、少しの間だからとソファーに寝転んだら朝になっていた。
そう言えば一昨日の晩も寝られなかったんだった。
仕事用のスーツのまま、食事もせずに眠ってしまった理由に気づき1人納得した。
「さあ、買い物にでも行こう」
しばらくはここにいるつもりだし、日用品だって食料だって最低限の物はそろえる必要がある。
それに、昨日の昼から私は食事をしていない。
久しぶりにきちんとメイクをしてスーツではなくジーンズをはいて、.私は出かけることにした。
***
時間を気にすることもなく、自由気ままな外出はそれなりに楽しかった。
もちろん、孝太郎からの着信もメールも気にはなっているけれど、答える勇気がないまま1日を過ごした。
「さあ、夕食はどうしよう」
会社を辞めて身を隠していることは母さんにも言っていないから、実家に帰るわけにはいかない。
でも、買い物ついでに早めのランチを食べてしまった私は夕方の6時でお腹ペコペコ。
1人でお店に入ろうかな?それとも何か買って帰って
ん?
その時、前方に見覚えのある人影を見つけた。
あれは確か・・・
孝太郎同席の会議で何度か顔を合わせた営業の・・・髙田君。
確か入社2年目の若手。
営業部長の評価も高い期待の新人だって聞いた。
何しているんだろう?
私が気になったのは、ただ見知った顔だったからではない。
その行動が目をひいた。
髙田君がいるのは駅地下の公衆トイレの前。それも女子トイレ。
その前を、さっきからウロウロして時々中を覗こうとしている。
かなり怪しげ。
このままじゃあ、通報されてもおかしくない。
「あの、髙田君?」
ツンツンと肩を叩き、私は声をかけた。
「あ、あっ、青井さん」
どうやら髙田君も私の顔を覚えていてくれたらしい。
「どうかしたの?」
「同僚がトイレに入ったまま出てこないんです」
え?
「同僚って・・・」
「同じ営業の鈴木一華です」
「鈴木一華さん?」
「はい」
そう言えば、髙田君は同期の女の子と組んでいるんだった。
鈴森商事では珍しく若い女の子の営業で、ガッツのある子だって噂。
『鈴木と髙田がそろえば、どんなベテランにもひけをとりません』って山川営業部長が言っていた。
「青井さん。申し訳ありませんが、中の様子を見てきていただけませんか?」
そうか、男の子が女子トイレに入るわけにも行かないものね。
「いいわよ」
***
「鈴木さーん」
トイレの中は個室が5カ所。
幸い利用客はいなかったため、私は1カ所ずつ確認していった。
コンコン。
ガチャッ。
ノックして4カ所目で、鍵が開いた。
「鈴木さん?」
ゆっくりと開けられたドア飲むこうから、女の子が顔を出した。
「・・・はい」
「大丈夫?」
思わずそう聞いてしまった。
だって、涙でグチャグチャな顔。
真っ赤な目と、腫れてしまったまぶた。
相当泣いた後みたいね。
「すみません、大丈夫です」
まだ涙声で答える鈴木さん。
「髙田君が心配しているけれど、」
どう見ても出て行ける感じではない。
「会いたくないなら帰ってもらおうか?」
泣きはらした顔は、きっと男の子に見られたくないだろう。
「すみません」
と、鈴木さんが頷いた。
***
「どうでした?どこか具合が悪いんですか?」
トイレから出ると、髙田君が寄ってきた。
「ううん、大丈夫。元気よ。でも、今日は私が送っていくから髙田君は帰って」
「は?」
意味がわからないというように見つめられた。
「仕事で何かあったんでしょ?」
「ええ、まあ」
鈴木さんも詳しくは言わないけれど、きっとそうだろうと思った。
「彼女泣いちゃってるのよ。だから、今は1人にしてあげて」
私は、声を小さくして言った。
これで納得してくれると思ったのに、
「青井さん、鈴木を呼んできてください」
髙田君はひかなかった。
「でも、」
女の子としては泣き顔なんて見られたくないはず。
すると、
「鈴木ー。いるんだろう!出てこい!」
髙田君は、トイレの中に向かって叫び始めた。
「ちょっとやめなさいよ」
顔に似ず強引な行動に、慌てて止めに入ったけれど、
「鈴木、お前はこんな事で逃げるのか?」
周囲を行き交う人の視線など気にすることもなく大きな声で話しかける髙田君を、私も止めることすらできなかった。
***
「鈴木ー」
何度か髙田君が呼び続けたところで、
「もう、いいから」
鈴木さんの方がトイレから出てきた。
顔は洗ったようですっかり化粧は落ち、目も充血したままだけれど、意外にすっきりした顔をしている。
「青井さん、お騒がせしてすみません」
ペコリと頭を下げる鈴木さん。
「いいえ。何のお力にもなれずごめんなさい」
結局2人で解決したんだから。
「いえ、ありがとうございました。ところで、青井さんは今お時間ありますか?」
突然髙田君に聞かれ、
「え、まあ」
まさか、「会社を辞めたので暇です」と言うわけにはいかず、曖昧に答えた。
「じゃあ、この後飲みに行くので付き合ってください」
「いや、でも」
「お願いします。鈴木と2人だとまた泣かれても困るので」
「そんな・・・」
「お願いします、一緒に行きましょう?」
鈴木さんにも言われ、断れなくなった。
「駅前の居酒屋でいいですか?」
「ええ」
どうやら私の同行は決定したらしい。
「ほら鈴木、行くぞ」
くるりと、背を向けて歩き出す髙田君。
「えー、待って」
慌てて後を追う鈴木さんがかわいいなと思いながら、私もついて行った。
***
「「「カンパーイ」」」
それぞれジョッキを持ち、ビールで乾杯。
こんな風に居酒屋で飲むのは何年ぶりだろう。
就職した当時、何度か飲み会があって以来だと思う。
「青井さん何か食べたいものとか、好き嫌いとかありますか?」
髙田君がメニュー片手に聞いてくれる。
「いいえ、何でも美味しくいただきます」
どうやら髙田君がまとめて注文をしてくれるつもりみたい。
「じゃあ、サラダのドレッシングは和風で。チーズは嫌いな奴がいるので、串揚げの盛り合わせもチーズは抜いてください」
「はい」
店員さんを呼びサラダと揚げ物と、枝豆を注文してくれた。
「とりあえず注文したので、後は各自で追加してください」
注文を終えると、髙田君はやっとビールに口を付ける。
「青井さんってこういう店が似合いませんよね?」
さっきまで泣きはらしていた鈴木さんが、ビールの3分の1ほどを空けてから私を見た。
「そう?好きよ」
これは嘘ではない。
縁がなくて来るチャンスに恵まれなかったのは事実だけれど、高級な店よりもこういう大衆的な店の方が好き。
「そうですか?青井さんって、高級フレンチの店で、高いワインとか飲んでいそうなのに」
「そんなことないわよ」
鈴木さんの頭の中で、すごいイメージができあがっているみたい。
「鈴木、失礼だぞ」
チラッと鈴木さんを見ながら、髙田君が渋い顔をした。
「そお?」
悪びれる様子もなく、ビールに口を付ける鈴木さん。
「こら鈴木、飲んでばかりいないでちゃんと食べろよ」
髙田くんに指摘され、
「うん」
鈴木さんは素直に頷いていた。
***
各自が1敗目のジョッキを空けお腹も満たされた頃、髙田君が少し表情を変えた。
「鈴木、お前は何が悪かったのか分かっているのか?」
手を止め、真っ直ぐに鈴木さんの方を見ている。
「うん」
やっと笑顔に戻っていた鈴木さんが、また泣きそうな顔になった。
「本当だな?」
「うん」
「じゃあいい」と、髙田君は枝豆に手を伸ばした。
しばらくして、ポカンとしている私に鈴木さんが簡単ないきさつを話してくれた。
バディを組んで取引先を回っている2人は、昨日の夕方から契約直前の商談が入っていた。
それもかなりの大口契約で、先輩から引き継いだ会社としても念願の取引。
昨日の商談でOKが出れば、両社の取締役を交えて契約の運びとなるはずだった。
しかし、昨日はたまたま髙田君に別件のトラブルがあり、鈴木さん1人で行くしかなくなった。
それでも、何度も通った会社の気心の知れた担当者だからと鈴木さん1人に任されたという。
それが・・・
「私が一番悪いんです。昨日に限って体調を崩してしまって、それでもなんとか向かおうと思ったら電車の中で倒れて・・・本当にごめんなさい」
すっかりしょげてしまった鈴木さんは見ていてかわいそうなくらい。
「違うだろ。お前が反省すべき点は、体調が悪いのに無理をして仕事を続けようとしたことだろ」
「うん、まあ」
「無理せずに誰かにヘルプを頼めば良かったんだよ。そうすればこんな大騒ぎにはならなかった」
「ごめん」
どうやら、2人もいる担当者がどちらも現れず、商談に同席予定だった相手の上司が怒ってしまったらしい。
今日になりまだ本調子ではない鈴木さんを残し、髙田君と山川部長が謝りに行ったが許してはもらえず、結局契約は延期になってしまった。
もちろんその場でも散々嫌みを言われたらしく、帰ってきた部長に叱り飛ばされた鈴木さんがトイレに駆け込んで泣き出してしまったということらしい。
山川部長も厳しいからな、鈴木さんの気持ちもわからなくはない。
でも、うらやましいなあ、同期って。
お互い言いたいことを遠慮なく言えて、それでいていつも気にかけている。
共に成長する仲間。
私にもこんな人がいれば、人生変わっていたのかもしれない。
***
「ところで青井さん、今日はお休みですか?」
いつもならスーツ姿の私がジーンズにTシャツのラフな格好なのが気になったようで、髙田君が聞いてきた。
「ええ」
本当は辞めたんだけれど、今は言いにくい。
今日はまだ黙っておこう。
「そう言えば、専務は明日お帰りでしたよね?」
「そうね」
きっと不機嫌全開で帰ってくるんでしょうね。
考えただけでも恐ろしい。
「寂しいですか?」
「え?」
「いや、青井さんと専務ってお似合いだから」
「そんなこと・・・」
あるわけないじゃないのと言いたかったけれど、言えなかった。
笑って流せるほど、私の心は強くない。
「青井さん、もっと頑張ってくださいよ」
ん?
いきなり訳のわからない激励の言葉が飛んできて、声の主である鈴木さんの方を見る。
「だって、河野副社長は秘書課の山田さんを専務の結婚相手に推してるそうじゃないですか。あの人って東西銀行の頭取のお嬢さんでしょ?下心ありすぎです」
「下心?」
意味がわからず見つめ返した。
「あそこの銀行とうちの会社は元々そんなに大きな取引はなかったのに、最近河野副社長がらみで大きな融資が動くようになったじゃないですか。きっと何か裏で企んでるんだと私は思っています。きっとそうですって」
「そんなあ・・・」
そう言われれば、河野副社長がらみの融資元はほとんど東西銀行だった。
うちのメインバンクでもないのに、不思議だなと思っていた。
「鈴木、飲み過ぎ」
河野副社長のことを愚痴り始めた鈴木さんのジョッキを、髙田君が遠ざける。
「ヤダッ、今日は飲むの」
そう言って手を伸ばす鈴木さんを、
「ダメ。昨日倒れた奴が酔いつぶれてどうするんだ。もうやめとけ」
髙田君はしっかり押さえている。
かわいいなこの2人。
カップルでもないのに、すごく気があっている。
「青井さん、こいつ酔ってますから、言ったことは気にしないでくださいね」
これって、孝太郎には言うなってことだよね。
河野副社長と孝太郎が不仲なのは管理職以上なら誰でも知っていること。
勘のいい髙田君も気づいているんだろう。
「大丈夫、何も言わないわ」
私だって、火に油を注ぐほどバカじゃない。
それにしても、河野副社長と東西銀行。
ちょっと気になるな。
調べてみようかしら。
***
久しぶりに飲みに出て、本当に楽しかった。
すっかり仲良くなった私達は『一華ちゃん』『麗子さん』と呼び合うことになった。
ビールを一杯で止められソフトドリンクになってからも一華ちゃんはハイテンションに話し続けていて、『うちの部長ってサイテーなんですよ』『麗子さん、今度部長のコーヒーに毒を仕込んでください』なんて半分笑えないようなことを大きな声で言い続けた。
しかし、
「オイ、いい加減にしとけよ」
時々髙田君が注意すると、一瞬だまる一華ちゃん。
この2人付き合っているんだろうかと何度も思ったけれど、どうやら違うらしい。
どんなに打ち解けても距離感は同僚だし、2人からは全く色気を感じない。
純粋に仲のいい同期なんだろうと感じた。
「ハアー、うらやましいな」
マンションに帰っても同じ言葉が口を出る。
私にもあんな仲間が欲しかった。
ブーブーブー。
メールの受信。
孝太郎かなって思ったら、徹から。
『オイ、いつまで逃げてる気だ?孝太郎、今夜も飛行機で帰ってくるぞ』
え?
予定では明日の夜のはずなのに。
『お前と連絡が取れないことで仕事にならなくなったんだと。予定を1日切り上げて帰って来るらしい』
そんんなことして、仕事は大丈夫だろうか?
『それでも、予定は1日前倒しでこなすんだから、さすがだよな』
ホッ。
確かに、孝太郎らしい。仕事の鬼だものね。
『なあ麗子。いくら優秀な人間でも、1人の人間ができることには限界があるんだよ。何かを優先すれば、何か犠牲を払うことになる。今回の事で、孝太郎は日本に一刻でも早く帰ってきたいと望んだ。だからと言って仕事を犠牲にするような奴じゃないから、きっと自分の時間を犠牲にしたんだと思う。この意味がわかるか?』
それは・・・
おそらく、睡眠時間を削って食事もせずにスケジュールをこなしたんだ。
『これが、お前の望むことなのか?』
送信されてくる徹の言葉に、私は一言の返信もできなかった。
そうじゃない。私はこんな事望んではいない。
でも、他に方法がないじゃない。