ご注意
当作品にはセンシティブな内容を含みます。極端にグロテスクな表現、不衛生な表現などを含みます。美化された猟奇性とはまた別な、気色悪い表現が展開されます。話や表現が全部気持ち悪いです。ダークです。それでも平気な方のみ先にお進みください。
囚人と医師の奇妙な友情物語
作:雨原零
血というやつは、乾くとすぐに黒くなる。
暗赤色をした石の地面に、太った男性医師に、ほとんど骨の体を殴られて、力無く横たわっていた。
「立てよおい!」
無理矢理に立たされて、また殴られた。倒れ込んだ僕を踏みつけて彼はなじった。
「犯罪者、立てよ!償えよ!」
はあはあと息を切らす僕を、幾度となく彼は踏みつけた。嗜虐性に塗れた、少年の傷みを堪える表情を鑑賞するような気色悪い目だった。目は赤く腫れ上がり、シワは深く刻まれていた。クマは顔全体を覆うほどにひどく、疲れ果てた医師がいきいきとした表情をしているのは、僕を殴ったり踏みつけたりしているときだけだった。
「時間だ。失礼する。」
部屋を去る時に彼は、怯えた僕の表情を見て、寂しそうに俯いた。
気づけば辺りは冬の空気になっていた。ひんやりとした地下で、半袖一枚で過ごすのもいい加減辛かった。
人を焼いた灰を塗って、幾度も固める工程をしたかのような色のコンクリートの壁や床から熱を奪い取られる。白骨のような色をした自分の皮膚は赤くしもやけの如くなっているのだろうかと光のある世界に思いを馳せる。
全身がまるで鳥肌の塊のようになってしまったが、それも人間という毛のない生物にはほぼ無意味なものだ。毛皮がほしいあまり、わなわなと震えている。
「どうだ調子は」
突然明かりがついて、健康観察のためにやってきたあの医師が声をかけた。
「ぼちぼちです。」
健康観察というのは名目で、ただこいつはこの光の届かぬ地下で、この前のように一週間に一度やってきて囚人を殴りつけるのが目的なのだ、そんなこと分かってる。
しかし彼奴は今日は珍しく機嫌が良さそうだった。こういう日は多少のわがままは聞いてくれる。
「コートをいただけませんか。」
でっぷり太った男医師は酒に酔った赤い顔で自分が持っていたコートを僕の肩にかけた。
「あいよ、ちょうど熱かったんだ」
コートは妙に生ぬるくて、どろんとした機械油のようなこいつの体液が滲んでいて気持ち悪かった。
それを皮肉にも着るしかないというのがひどく貧しい囚人の哀れさを物語っていた。
「おい」
はいっ、と姿勢を正して返事をした。
「おい三ツ橋、お前にやったコートの内ポケットにライターとタバコが入っている。火ぃつけて寄越せ。」
何気に三ツ橋とちゃんと名前で呼ばれたのは久しぶりだった。指示通りにタバコにライターで火をつけて手渡す。医師はそれを美味そうに吸ったが、僕にはただ臭いだけだった。
「そんな顔するな、まあ俺も子供の頃はそうだったけどなぁ。」
酒で真っ赤な顔をした男は、そう言った。そして手を出したので、もう一本火をつけて渡してやる。
「じゃあ、俺は帰るぞ、元気でやれよ囚人番号6584番。」
そうニカッと、天狗のような男は笑った。
こんな無駄に広くて暗い闇の中にでもいれば、この酒を呑まないと生きていけないような男がどこかに行ってしまうだけで気が滅入ってしまう。機械油に濡れた皮膚をしたでっぷり太った男医師はふらふらしながらどこかへ行ってしまった。
待てよ……元気でやれよ?
「待って下さい」
医師はゆっくりと振り返った。
「もしかして、今日死刑が……?」
彼は答えなかった。そして、また踵を返してどこか遠くへ歩き去ろうとした。追いかけても無駄だと思った。
「生きろよ、お前は普通の人間じゃねえ、きっと…………」
普通じゃない……そうだ、普通じゃないのだ。
でも彼も普通じゃなかった。そのことを知ったのはあれから一週間後だった。突然医師が交代になったのだ。
「どうして?あの太った医師は……」
新任の医師は、
「あいつは、貴方を解放しようと企んでいたので、今頃となりのとなりのとなりあたりの部屋で拷問をうけてますよ。」
まさに衝撃だった。
でも、似てる、と思った。だって、僕が捕まった理由は……
ある日、夕闇からパトカーが現れて、いつのまにか捕えられていた。あれより一日前はこんなことになるなんて、思ってもいなかった。
塗り固められた灼熱のアスファルトの上、僕はあの日、歩いていた。セミがジリジリと鳴く真夏の昼間のことだった。汗がダラダラと鼻先から落ちてくる。
そこで出会ったのは、本当に悍ましいものだった。車に敷かれてバラバラになった人間、それを見つけたのだ。僕はそれに寄って行った。その腕はまさに、人間のものではなくスーパーにラップをかけて売られているような肉片だった。
顔も原型を留めてはいなかった。真っ赤に充血した眼を開いたまま何も語らなかった。
「大丈夫ですか」
ひどく焦った。息は、ない。生きてるのか?
「大丈夫ですか!」
何度も問いかけた、返事はない。
ベタベタとした夏の湿気を含んだ空気を振り払ってめざとくコンビニエンスストアを見つけた僕は、AEDがないか問い合わせてみた。
「ああ、それならありますよ。」
まさかだった。地獄の蜘蛛の糸、藁、それくらいに縋り付く思いだったのだ。
すぐにそれを受け取ると走り出した。車から何度もクラクションを鳴らされながら。
「危ねえじゃねえかこの野郎!」
バイクに乗った男が叫んだ。
「すみません!」
バイクの鼻先にかすかにぶつかってよろめきながら僕は走り続けた。赤信号の中。
「大丈夫ですか!」
僕は途端スピードを緩めて怪我人の方へ寄って行った。
もう一度見ると、そこまで怪我は酷くなかった。先は動揺していたのでそう見えただけだったらしい。
「こいつ死んでるぞ、死んでるぞ」
いい大人が数人輪になって昼間から酔っ払いながら揶揄うようにそんなことを言っていた。
「すみません、退いて下さい!」
AEDをさっと開いた。
大人たちは退きそうになかった。
「死んでるぞ、死んでるぞ」
なにか、ゾワっとするものがあった。
気づいたらAEDの箱で酔っぱらいどもを殴りつけていた。
その重傷者はその後病院で死亡が確認された。
酔っぱらいどもを殴り殺してしまったのだから、その後は言うまでもなかった。
ある日のことだった。
死んでるぞ、死んでるぞ——
あの言葉が脳裏に焼き付いて離れない。
死刑前となると尚更だ。ベタベタとした夏の湿気を含んだ空気とアルコールの臭いと共に、蘇ってくる。
「6584番。」
ああ、やってきてしまった。
「御食事でございます。」
違った。でもああ。そうか。そんな時間か……
最後の晩餐。
真っ暗な世界に、光が差し込んできて、食事が持ってこられた。
「こちらに置いておきますね」
平然と床の上にお盆を置くと、そいつは歩き去ってしまった。するともう、いつも通り真っ暗なのだ。そのためいつも手探りでお盆を見つけ出さなければならない。床を這うとすぐに見つかるのだということは分かっているが、いつも通り赤い光を放つ赤外線の防犯カメラが光っているので、そんなことはできまい。
腹がすごく、減っていた。
しかしいつもと違って、食べ物の匂いがしない。見つけ出す手はずがない。
恥を捨てて、右も左もわからぬまま床を這い始めた。かなり、進んだというのに闇の中には何も見つからない。
確かに盆を置く音がしたのだが。
と、異臭がした。
なんなんだ、この臭いは。
鼻をつまみながら、僕はそれににじり寄った。
確かに、いつもと同じ鉄の盆の感触があった。皿を確かに掴んだ。暖かい料理のようだが、異臭がする。
やめておいた方がいい、そのことは本能でわかったのだが、腹が減って途方もなかったので、それを流し込んだ。
異臭と臭みと吐き気とザラザラとした舌触りが、やがて潮のように打ち寄せてきた。吐きそうになったが、もうそうなれば食うものがない。むりやりに口の中に流し込んだ。ボロ布のような感触が口内で解けていく。
なんだ、これは。
込み上げる吐き気を堪えて、胃酸をただ飲み込んだ。そうして、どうにか食い物を食い終えた。
いや、食い物なのかも定かではない。これが、水に何かを溶かしたものであることは確かであったが。溶かされたのは薬剤ではない。腐った「何か」だ。
知らぬ間に嘔吐していた。胃液特有の、嫌な臭いとどろっとした感触とが打ち寄せる。
腹の中が空になった。お盆に手を伸ばすが、もう何も乗ってはいない。
元気でやれよ…………
どうすればいいんだよ。
知らぬ間に、嘔吐物を皿と盆に集めていた。自分が何をするつもりなのか、分かった。
だが、それは許せなかった。
腹の中は空っぽだった。でも、それは…………
やはりよくないと、かなり考えたのだがいい案がない。吐き気を飲み込むために自らの指を噛みちぎろうとした。
右手の小指に思いっきし噛み付いた。痛い、痛い。でもなにか、食べなくては。
噛み付く力を強めた。指の骨がぐりぐりとなった。
「ぁああああぁあ!」
痛さのあまり、あたりを這いずり回った。
「あぁあぁあああ!」
血がドバドバと止まらない。自らの血を吸い上げた。喉に血の中の赤いものがへばりついて、咳き込みが止まらなかった。
左手でどうにか止血すると、自分の小指から、自分で爪を剥ぎ取った。嫌な感触がした。
小指に噛み付くと、なんとも言えない気色悪い感触がした。そして、自分の肉を食っていた。
しばらくすると気づいた。この細い手指に肉や脂肪なんて一切ありはしないのだ。
僕は骨をしゃぶっていたのだ。口内に鉄の臭いだけがこだまする。おかしな臭いがまたした。先程から唾液の中を漂っていた布きれは、明らかに糸のようなものが出ている。誤って飲み込んだ途端食道か気管かよくわからぬ管がしゃくり上げて泣き終えた後の如く絶叫を上げて、ヒックヒックと音もなく抵抗した。
小指の痛みに這いずり回りながら、喉に詰まったボロ雑巾にヒックヒックと抵抗しながら、息もできずに僕は声もなく暴れ回った。
声すら出なかった。
息のか細い音がひたすら行き交うだけで、何もなかった。
「6584番。お時間です」
途端、久しぶりにあたりが明るくなった。それでもなお、僕は脂汗の染み込んだコートを着たまま這いずり回った。
「あらあら。」
さらに、新たな脂汗がコートに滲んだ。
駄目だ、駄目だ!
「さあ、動きませんよ。」
突如圧倒的な力で拘束器具に縛り付けられた僕は、身動きもできぬまま暴れ回った。
「あら?もしかして、雑巾の搾り汁を?」
まさか。そう思った途端もう骨にこびりついた肉片の他残っていないはずの胃の内容物が噴き出した。途端、食道に詰まっていた布が抜けて、安堵する。
執行役の女は、嫌そうにして”罪人”を軽蔑的な眼差しで見た。
「大丈夫ですよ。はい、深呼吸して。」
拷問が開始されるのを皮膚で感じた。息を吸った時一瞬酒の臭いがした。
いや、違う。
酒ではない、アルコールの臭いだ。こいつは、やる気なのだ。
女はあたりにアルコールを撒き、その後にガソリンを撒いた。二つ混ざり合った臭いはまさに地獄のような刺激臭で、幾度となくむせ返った。頭からかけられたその混合液はコートや自らの皮膚にまでそれが染み渡ってくるようなひんやりとした痛みとどろっとした感覚を感じさせた。目がヒリヒリとして、しかも恐ろしくて、たまらなかった。
女は、麻の縄を遠くから引いてくるつもりらしい。どうやらそれを導火線がわりにして火をつけるつもりらしかった。そうして、こちらへ縄を結びにきたのだ。僕は、内ポケットに手を入れた。
そうして、数ヶ月来、もしかすると数年来かもしれぬが、ライターに火を灯した。ほとんど身動きはできなかった。
自らの頬に炎を押し当てて、執行役の女の袖を掴んで、火に巻かれていた。
炎の龍が、首に巻きつくようだった。
焼け付くような痛みの中で、アルコールの臭いと髪の燃える臭いを嗅いでいた。
これだから、嫌いだ。
あの時僕の前を平然とした表情で去り、自らの命を犠牲にしてこの単なる人殺しを救おうとした男が嫌いだ。あの脂汗の気色悪い感触とアルコールの臭いと、僕を殴りつけるときの微笑と、湿気を持ったタバコの燃える臭いが、帰り際怯えた僕の表情を見て、寂しそうにすくめた肩が、彼奴の全てが、この世の全てが、嫌いだ。
嫌いだ、そう思いながら死んでいく自分が嫌いだ。
人の肉を焼いた灰を塗り固めた扉が開かれて、冥界へといざなわれる。そんな中でもまだ、僕は寒くもないのにアルコール臭のするコートを着ていたのだ。
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