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階段に残る朝の湿気が、白い外壁に薄く貼りついている。 ごみ袋を軽く揺らしながら、美彌子は千里の横顔を一瞬だけ観察した。
(相変わらず、距離が近すぎず遠すぎずの人……)
その印象は“好意”でも“警戒”でもなく、ただの評価。
千里もまた、美彌子に深入りしようとはしない。ただ、挨拶が丁寧な分、もしかすると他人からは仲が良さそうに見えるかもしれなかった。
「今日、晴れるらしいですよ」
美彌子が言う。天気予報をそのまま口にしただけの、温度の薄い言葉。
「ええ、助かります」
千里はそれに、礼儀としての微笑みを添える。そこには“踏み込まない”という合意の気配があった。
美彌子は自覚していた。
自分は人との相互作用を最適化するために、“深度2までしか潜らない”という癖がある。
そこには過去の傷も、性格的な頑固さも、効率主義も混ざっていた。
――だが千里は、似たような距離感を保つ相手として心地よかった。
「じゃ、行きますね」
「どうぞ、お気をつけて」
ほんの十数秒の立ち話。
だが、その短さの中に“テンプレで済ませたい二人”の同意のような静けさがあった。
人は、近づきすぎなくても、壊れない関係を結べる。
その“薄い強さ”こそ、この物語の芯へ向かう予兆だった。
○
◆ 休日ショートシーン(千里)
その日の夕方。
千里は小さなソファーに体を預け、数冊のガイドブックとメモを広げていた。
部屋にはラベンダーのディフューザーがほのかに香り、窓からの淡い光が資料の端を照らす。
ページをめくるたび、千里の表情が少しずつほどけていく。
「……この路線なら、乗り換えは一回で済むか」
声のトーンは変わらないが、眼差しにだけ柔らかい熱が宿っている。
仕事ではめったに見せない集中と静けさ。
“誰にも合わせなくていい時間”が、千里をやっと人間らしく戻す。
コーヒーを一口飲んで、ふと窓の外の雲を眺める。
美彌子と交わした短い会話が頭に浮かぶ。
あの薄さが、実は千里にとってちょうどよかった。
――深入りしないからこそ、壊れない関係もある。
――テンプレだからこそ、逆に迷惑をかけない優しさもある。
だが、ここで描かれるのはその先。
テンプレから“半歩だけ外に出る人々”が、どう息をし、どう衝突し、どう繋がり直すのか。
千里は、まだそれを知らない。
ただ、ソファーの上でひとり静かに、旅先の古い宿を検討しているだけだった。