テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
東京、 渋谷。
一カ月後の晴れた土曜日。
寿司子は、めったに来ない街に降り立った。
今日は初めてのお笑いライブ出演日。
他事務所との合同開催──宇津久芸能の看板を背負っての初舞台である。
だが、感慨に浸る余裕はなかった。
「……人、多っ!」
スクランブル交差点の波に飲まれ、方向感覚が消える。
スマホの地図はぐるぐる回り続け、気づけば同じビルの前を三周していた。
「ここ、デジャヴ……? 私、異次元から出られないタイプの主人公?」
不安が頂点に達し、寿司子はリコに電話をかける。
「もしもし? リコさん? ……ごめん、私いま……渋谷に取り込まれてる……」
『なんやそれ!? 渋谷は異世界ちゃうわ!』
数分後、人混みをかき分けてリコが現れた。
「もう、しゃあないなぁ。東京モンが大阪人に渋谷案内されるって何やねん!ほら、ついてきぃ」
そう言って、自然に寿司子の手を取る。寿司子は真っ赤になりながら、小さく呟いた。
「……ありがとう。今日のこれ、ネタにできそう」
「迷子もネタにすんのかい! ほら、遅刻寸前や!」
渋谷は、速い。
スクランブル交差点の信号が青に変わった瞬間、人の波が四方から流れ込む。
押されるように歩きながら、寿司子は思った。
(ここにいる人……全員、私より面白そう)
スマホを耳にあて、笑っている高校生。
イヤホンをつけて、歩きながらリズムを刻む青年。
堂々と道の真ん中で自撮りする女の子。
誰もが自分のステージを持っているように見えた。
「何ぼーっとしとんねん、また迷うで」
隣でリコが笑う。
「見てみぃ、あのカップル。舞台出たら、絶対ウチらよりスベる顔しとるわ」
「顔は関係ないですよ……」
そう言いながらも、少しだけ呼吸が楽になる。
───
『地下シアター428』
ライブハウスの看板は、ビルの隙間に控えめに立っていた。
階段を降りると、少し湿った空気と、舞台特有の匂いがする。
受付を済ませ、出演者でごった返す楽屋へ。そこで告げられた。
「イナリズシさん、二部のトップです」
寿司子の時間が、一瞬止まった。
トップバッター。
休憩後、場の空気が一旦リセットされ、笑いの基準がまだ出来ていない状態の時間。少々ハードルが高く感じた。
「……一番目、ですか」
喉が乾く。だが、隣でリコがにやりと笑った。
「ええやん。一番最初に『空気』作ったろ」
その言葉は頼もしくもあり、少し遠くも感じた。
控室代わり、舞台の裏側。
芸人やスタッフたちが忙しなく行き交う。
一般人でも出演できるエントリー制の第一部が終わり、客席のざわめきがゆっくりと入れ替わっていく。
寿司子はネタ帳を閉じた。
(練習通り。順番通り。間違えない。……暴走しない)
手が冷たい。
「寿司子」
リコが小さく呼ぶ。
「もしスベっても、ウチが何とかする。アンタは好きにボケてええから」
「……好きに?」
「渋谷なんか、アンタのネタにしたらええねん」
───
「428お笑いファイトクラブ!第二部開演です!」
アナウンスの声が舞台裏にも響く。
ついに始まってしまった。
そしてスタッフに声をかけられる。
「イナリズシさん、お願いします!」
いよいよだ。深呼吸して立ち上がる。
「リコさん、お願いします」
「おう、いったろか」
二人、舞台袖で小さく拳を合わせた。
「最初に登場するのは、鮮度抜群女子コンビ!宇津久芸能、イナリズシっ!」
司会の合図で、ライトの下に駆け出す。
まぶしい。
一瞬、客席が白く飛んだ。
「はじめまして〜! イナリズシです!」
拍手は、控えめ。
それはそうだ。私たちのことなんか誰も知らない。
「稲瀬リコいいますぅ。よろしゅうお願いします〜」
リコは流暢に自己紹介、関西弁でキャラ付けも完璧だ。
対照的に寿司子は、少し強張った表情で声を出す。
「わ、私は寿司子。軍艦巻きの海苔とシャリの間に生きる女です」
……反応がない。
客席の誰かが咳払いをした。その音が、やけに大きく会場に響きわたる。
(あ、いま……スベった)
頭が真っ白になる。
次の台詞が、遠い。
そのとき。
「……いま、ちょっと渋谷に取り込まれました」
咄嗟に出た言葉だった。客席の数人が、ふっと肩を揺らす。
リコが逃さず、獲物を仕留めるような速さで被せた。
「舞台でまで飲まれんなや! あ、この人、ここに来るまで三回、同じビルの前回ってたんですわ!」
どっと、会場の空気が緩む。
(……あ、台本にないところで笑ってる)
寿司子は一瞬、置いていかれそうになる意識を必死で繋ぎ止め、次のセリフを繰り出した。
「私の夢は……コンビの未来をマグロに乗せて、黒潮に出ることです」
「遠洋漁業か!ウチら漁師ちゃうわ!」
今度は、はっきり笑いが返る。
少しずつ、波ができる。
リコのツッコミが冴え、寿司子のボケが泳ぎ出す。
予定していなかった間。
予定していなかった言葉。
そのほうが、笑いになる。
「ガリも寿司には欠かせないね……でもたまに“ガリの重鎮”みたいなやつがいるよね」
「いるいる!めっちゃ厚くて、幅広くて、ちょっと甘くて重い!」
「うん。もう“ガリ界の松平健”」
「暴れん坊将軍出すな!」
ここで一番の笑い声。
確かに手応えを感じた。
最後の掛け合い。
「ウチら二人合わせて──」
「売れなくても、半額シールは貼られたくないコンビですっ!」
「そこはイナリズシ言えや!」
「「ありがとうございました!」」
深く、頭を下げる。
ほんの一瞬の、無音。
それから── 拍手。
大きすぎはしない。けれど、確かに温かい拍手。
寿司子は、顔を上げないまま思う。
(……最初、ウケなかった)
その記憶が、強く残っている。
舞台袖に戻ると、リコが勢いよく背中を叩いた。
「いけたやん! マツケンのとこ、ドンッてきたやろ!」
「……はい」
「ほら見ぃ、端っからの出番でも関係あらへん!」
寿司子は、小さく頷く。
興奮して客席を覗き込むリコの横顔は、スポットライトの残照で輝いて見えた。
反対に、寿司子は自分の靴先を見つめる。
拍手は温かかった。けれど、あの『静寂』の瞬間に感じた、自分の中の空っぽな感覚が心から離れない。
(私は、なにで笑わせたんだろう)
ウケた時よりも、心から消えない。
笑いが生まれるまでの、あの隙間。
そこに、自分の未熟さがはっきり見えた気がした。
「イナリズシさん」
スタッフが顔を出す。
「主催から少しお話あるので、終演後、残ってください」
リコの目が輝く。
「ほぉら、きた!」
「……松平健さんの名前出したから、怒られる可能性も」
「何でやねん!」
笑い合う。でも。
寿司子は、胸の奥に小さなざらつきを抱えたままだった。
アウェイの街で初舞台。
それを考えても成功、なのだと思う。
けれど──
同じ拍手を浴びながら、
二人は、少しだけ違うものを見ていた。
その違いに、まだ名前はない。
だが確実に、そこにある。
渋谷の夜は、まだ始まったばかり。
──続く
コメント
2件
旧12話から15話を再編集、大幅に加筆修正、イラストの追加などいたしました。
♡50達成ありがとうございます✨