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旧12話から15話を再編集、大幅に加筆修正、イラストの追加などいたしました。
♡50達成ありがとうございます✨
東京、 渋谷。
一カ月後の晴れた土曜日。
寿司子は、めったに来ない街に降り立った。
今日は初めてのお笑いライブ出演日。
他事務所との合同開催──宇津久芸能の看板を背負っての初舞台である。
だが、感慨に浸る余裕はなかった。
「……人、多っ!」
スクランブル交差点の波に飲まれ、方向感覚が消える。
スマホの地図はぐるぐる回り続け、気づけば同じビルの前を三周していた。
「ここ、デジャヴ……? 私、異次元から出られないタイプの主人公?」
不安が頂点に達し、寿司子はリコに電話をかける。
「もしもし? リコさん? ……ごめん、私いま……渋谷に取り込まれてる……」
『なんやそれ!? 渋谷は異世界ちゃうわ!』
数分後、人混みをかき分けてリコが現れた。
「もう、しゃあないなぁ。東京モンが大阪人に渋谷案内されるって何やねん!ほら、ついてきぃ」
そう言って、自然に寿司子の手を取る。寿司子は真っ赤になりながら、小さく呟いた。
「……ありがとう。今日のこれ、ネタにできそう」
「迷子もネタにすんのかい! ほら、遅刻寸前や!」
渋谷は、速い。
スクランブル交差点の信号が青に変わった瞬間、人の波が四方から流れ込む。
押されるように歩きながら、寿司子は思った。
(ここにいる人……全員、私より面白そう)
スマホを耳にあて、笑っている高校生。
イヤホンをつけて、歩きながらリズムを刻む青年。
堂々と道の真ん中で自撮りする女の子。
誰もが自分のステージを持っているように見えた。
「何ぼーっとしとんねん、また迷うで」
隣でリコが笑う。
「見てみぃ、あのカップル。舞台出たら、絶対ウチらよりスベる顔しとるわ」
「顔は関係ないですよ……」
そう言いながらも、少しだけ呼吸が楽になる。
───
『地下シアター428』
ライブハウスの看板は、ビルの隙間に控えめに立っていた。
階段を降りると、少し湿った空気と、舞台特有の匂いがする。
受付を済ませ、出演者でごった返す楽屋へ。そこで告げられた。
「イナリズシさん、二部のトップです」
寿司子の時間が、一瞬止まった。
トップバッター。
休憩後、場の空気が一旦リセットされ、笑いの基準がまだ出来ていない状態の時間。少々ハードルが高く感じた。
「……一番目、ですか」
喉が乾く。だが、隣でリコがにやりと笑った。
「ええやん。一番最初に『空気』作ったろ」
その言葉は頼もしくもあり、少し遠くも感じた。
控室代わり、舞台の裏側。
芸人やスタッフたちが忙しなく行き交う。
一般人でも出演できるエントリー制の第一部が終わり、客席のざわめきがゆっくりと入れ替わっていく。
寿司子はネタ帳を閉じた。
(練習通り。順番通り。間違えない。……暴走しない)
手が冷たい。
「寿司子」
リコが小さく呼ぶ。
「もしスベっても、ウチが何とかする。アンタは好きにボケてええから」
「……好きに?」
「渋谷なんか、アンタのネタにしたらええねん」
───
「428お笑いファイトクラブ!第二部開演です!」
アナウンスの声が舞台裏にも響く。
1,998
ついに始まってしまった。
そしてスタッフに声をかけられる。
「イナリズシさん、お願いします!」
いよいよだ。深呼吸して立ち上がる。
「リコさん、お願いします」
「おう、いったろか」
二人、舞台袖で小さく拳を合わせた。
「最初に登場するのは、鮮度抜群女子コンビ!宇津久芸能、イナリズシっ!」
司会の合図で、ライトの下に駆け出す。
まぶしい。
一瞬、客席が白く飛んだ。
「はじめまして〜! イナリズシです!」
拍手は、控えめ。
それはそうだ。私たちのことなんか誰も知らない。
「稲瀬リコいいますぅ。よろしゅうお願いします〜」
リコは流暢に自己紹介、関西弁でキャラ付けも完璧だ。
対照的に寿司子は、少し強張った表情で声を出す。
「わ、私は寿司子。軍艦巻きの海苔とシャリの間に生きる女です」
……反応がない。
客席の誰かが咳払いをした。その音が、やけに大きく会場に響きわたる。
(あ、いま……スベった)
頭が真っ白になる。
次の台詞が、遠い。
そのとき。
「……いま、ちょっと渋谷に取り込まれました」
咄嗟に出た言葉だった。客席の数人が、ふっと肩を揺らす。
リコが逃さず、獲物を仕留めるような速さで被せた。
「舞台でまで飲まれんなや! あ、この人、ここに来るまで三回、同じビルの前回ってたんですわ!」
どっと、会場の空気が緩む。
(……あ、台本にないところで笑ってる)
寿司子は一瞬、置いていかれそうになる意識を必死で繋ぎ止め、次のセリフを繰り出した。
「私の夢は……コンビの未来をマグロに乗せて、黒潮に出ることです」
「遠洋漁業か!ウチら漁師ちゃうわ!」
今度は、はっきり笑いが返る。
少しずつ、波ができる。
リコのツッコミが冴え、寿司子のボケが泳ぎ出す。
予定していなかった間。
予定していなかった言葉。
そのほうが、笑いになる。
「ガリも寿司には欠かせないね……でもたまに“ガリの重鎮”みたいなやつがいるよね」
「いるいる!めっちゃ厚くて、幅広くて、ちょっと甘くて重い!」
「うん。もう“ガリ界の松平健”」
「暴れん坊将軍出すな!」
ここで一番の笑い声。
確かに手応えを感じた。
最後の掛け合い。
「ウチら二人合わせて──」
「売れなくても、半額シールは貼られたくないコンビですっ!」
「そこはイナリズシ言えや!」
「ありがとうございました!」
二人は声を揃え、深く頭を下げる。
ほんの一瞬の、無音。
それから── 拍手。
大きすぎはしない。けれど、確かに温かい拍手。
寿司子は、顔を上げないまま思う。
(……最初、ウケなかった)
その記憶が、強く残っている。
舞台袖に戻ると、リコが勢いよく背中を叩いた。
「いけたやん! マツケンのとこ、ドンッてきたやろ!」
「……はい」
「ほら見ぃ、トップの出番でも関係あらへん!」
寿司子は、小さく頷く。
興奮して客席を覗き込むリコの横顔は、スポットライトの残照で輝いて見えた。
反対に、寿司子は自分の靴先を見つめる。
拍手は温かかった。けれど、あの『静寂』の瞬間に感じた、自分の中の空っぽな感覚が心から離れない。
(私は、なにで笑わせたんだろう)
ウケた時よりも、心から消えない。
笑いが生まれるまでの、あの隙間。
そこに、自分の未熟さがはっきり見えた気がした。
「イナリズシさん」
スタッフが顔を出す。
「主催から少しお話あるので、終演後、残ってください」
リコの目が輝く。
「ほぉら、きた!」
「……松平健さんの名前出したから、怒られる可能性も」
「何でやねん!」
笑い合う。でも。
寿司子は、胸の奥に小さなざらつきを抱えたままだった。
アウェイの街で初舞台。
それを考えても成功、なのだと思う。
けれど──
同じ拍手を浴びながら、
二人は、少しだけ違うものを見ていた。
その違いに、まだ名前はない。
だが確実に、そこにある。
渋谷の夜は、まだ始まったばかり。
──続く