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翌三月十四日早朝、外科病棟のナースステーションの床で束の間の仮眠を取ったばかりの亮介は院長室に呼ばれた。時計はまだ六時前を指していた。院長室の中には院長、看護師長の宮田、それに二名ずつ他の医師と看護師がいた。彼らの体の間を縫う様に、亮介はさして広くはない院長室の中を奥まで歩いた。
「開放骨折の患者さんですが」
亮介がデスクの向かい側にたどり着くなり院長は本題を切り出した。詩織という名の小学校五年生の少女の事だ。
「これから手術を行おうと思います」
院長は既定事項として淡々と告げる。だが、亮介も他の医師も躊躇を口にせざるを得なかった。医師の一人が言う。
「院長、この状況で外科手術を行うのはリスクが高すぎるかと」
もう一人の医師も口をそろえた。
「それに麻酔科医がいない。局所麻酔ならともかく、全身の深麻酔となると」
院長は予期していた反応に、相変わらず淡々とした口調で応えた。
「麻酔医は私がやりましょう。私は以前、麻酔科医の認定を受けていた時期があったんですよ。昔は田舎の医者は何でもやらなければならなかったからね。もちろん今では認定は失効しておるから、厳密には法令違反かもしれんが、何かあった時の責任は全て私が負います。執刀医は外科が専門の牧村先生にお願いしたい」
指名される事は予想していたが、亮介にも一抹の不安はあった。一応それを院長に向かって口にしてみた。
「術式自体は僕でも出来ると思います。でも、もっと設備の整った大病院で行った方がいいとも思いますが」
「搬送がいつになったら可能になるか、それが分かりません」
院長の言葉に亮介は黙ってうなずいた。ドクターヘリが来られない以上、ずるずると今の状態を長引かせるのは確かに危険だった。亮介は意を決して言った。
「分かりました。僕が執刀します」
院長は大きくうなずいて、他のスタッフの矢継ぎ早に指示を出した。
「私が麻酔を担当、看護師長の宮田さんが立ち会いナースのチーフ。医師二名が不測の事態に備えて牧村先生のサポートとして待機。手術は午前八時から開始。それでよろしいですね?」
三十分後、亮介は手術着を着て準備室の手洗い場で入念に両腕を洗っていた。市の中心部にだけは通っているガス管からのガスは震災発生直後から止まっていて、シャワー室のお湯は使えなかった。
調理室の外にある予備のプロパンガスのボンベが幸い無事で、沸かしたお湯をシャワー室にバケツで運んであったが、シャワーそのものは凍るような冷水で浴びねばならなかった。
冷たいを通り越して痛いと感じるほどの冷水だったが、外科手術の前に執刀医は全身を清潔にしておかなければならないため、亮介は苦行僧になった気分で体を洗い、手術着に着替えてバケツのお湯で肘から先を撫でまわすように何度も石鹸で洗った。洗いながら詩織の事を思い出していた。
年の割りにませた女の子だった。亮介もたまに買い物に行く雑貨店の一人娘だった。亮介と美穂が、暇を見つけては会うようになった頃から、街で亮介を見かけると必ず詩織が近づいて来て、「先生、あたしと結婚しようよ」と言ってきた。
小学生の子供の戯言と、二人とも聞き流して笑っていたが、あまりに詩織が亮介にべったり寄って来るので、あれは去年の秋口だっただろうか、市民文化会館の近くの公園で三人で並んでブランコに座って話をした事があった。
どうしてそんなに亮介がいいのか、と尋ねた美穂に、派手な赤の大きな髪留めで肩にかかる長い髪をツインテールのくくった少女は事もなげに言った。
「だって先生と結婚すればタマノコシっていうモノらしいじゃない」
「玉の輿?」
ボブカットの髪を跳ね上がるほど頭を振った美穂が目を丸くして言うと、おませな少女は得意げに言葉を続けた。
「だって、お医者さんになれるぐらいだから、先生の家はお金持ちなんでしょ? そういうの、タマノコシとか言うんじゃないの?」
最初に吹き出したのは亮介だった。続いて美穂も盛大に笑い声を夕暮れの迫る公園中に響かせた。亮介はなおも続く笑いの発作を抑えながら詩織に言った。
「いや、僕はお金持ちの息子なんかじゃないよ。両親は東京の、普通のサラリーマンで、どっちかって言うと貧乏な方じゃないかな」
詩織は疑い深そうな顔でさらに亮介を問い詰めた。
「ええ? じゃあ、どうして先生は医者になれたの? すごくお金かかるって聞いたよ、あたし」
「詩織ちゃん、自治医科大学って知ってるかい?」
「ううん、知らない」
「僕はそこの卒業生なんだ」
「それがどうしたの?」
「自治医科大という所はね、授業料がただなんだよ。その分入学するのは難しいけど、ほとんどお金かからずに医師になれるんだ。ただし、卒業してから九年の間は、指定された公立病院で働かなきゃいけないんだよ。ここみたいにお医者さんが足りない地方都市の病院で働く、その代わりに授業料を免除してもらえる。僕はそれで医師になれたんだ」
詩織は細かい部分までは理解できていない様子だったが、しばらく小鳥のように可愛らしく首を斜めに傾げてから確認した。
「じゃあ、先生はお金持ちじゃないんだ?」
亮介が笑いながら何度もうなずくと、詩織はブランコから飛び降り、美穂の前に立って右手を、指を広げて胸の高さに掲げた。
「なんだ、タマノコシじゃないのか。じゃあ、先生はおねえちゃんにあげる」
美穂がすかさず自分の左手を突出し、詩織とハイタッチの形で掌を合わせた。
「あら、あたしにくれるの?」
「うん、じゃあね」
そう言って詩織はその場から元気よく駆け出して行った。その背中を見つめながら、美穂がわざと亮介の方に視線を向けずに、からかう口調で言った。