テラーノベル
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「あ……! は、はい! すみません」
慌ててシートベルトを引っ張った。
「まぁ、嫌でも記憶に残るもんだよな、好きな女ってのは」
その様子を横目で見ていた八木がボソッと何かを声にしたのだが。
「……え? 何て言いました?」
よく聞き取れず、聞き返してみるも。ぐしゃぐしゃと頭を撫で回されて「別になんも」と、恐らくはぐらかされてしまった。
「お前のさ、好き嫌いなんて一緒に飯食いに行ったら丸わかり、バレバレだったんだけど。気づいてたかよ」
「何がですか?」
「俺がわざとトマト系のもん頼みまくって、食いきれねぇってお前に食わせてたの」
そうだ。八木は、夜に真衣香を強引に誘うことこそなかったが、ランチの時間帯なんて、それはそれは、仕事がひと段落していない真衣香の事情などお構いなしによく強引に連れ出された。
その度、真衣香の好きな店に入ってくれるのはいいとして、なぜだか『頼みすぎたからお前も食え」と、小皿に取り分けられ食べさせられたものだ。
……苦手なトマトソース系のパスタや、ケチャップライスや、あれやこれやを。
「食えって言われたら……食うんだもんなぁ、お前。かなり面白い顔して食ってたんだって、知ってたか?」
八木がアクセルを踏んだのか、ゆっくりと車が動き出して。
隣をチラッと見ると、ハンドルに片手を添えて、もう片方の手で口元を押さえる八木の姿があった。
「っぶ……! マジでおもしろかったわ、あの顔のおかげで昼からも元気に働けたな」
「え、嘘、ひどい……」
上司の好意を無駄にしてはいけない!と、踏ん張っていた、必死の『トマト味ひとり我慢大会』は、どうやらからかわれていただけらしい。
許し難い事実に真衣香が口を尖らせていると、堪えきれなくなったとでもいうように、八木が声をあげて本格的に笑い出してしまった。
「食った後も、そうやって口尖らせてたよな。でもさ、トマトが嫌いなのかって聞いたら、そんなことないですよって引き攣った顔で笑っててよ、よっぽど俺に弱み握られたくなかったんだよなぁ、あれは」
最後には「お前ほんと飽きねぇわ」と懐かしむような声を付け加えて。
その後、急に黙り込んだ八木の横顔が、笑顔から一転、切なそうに眉を寄せて動かなくなった。
「八木さん?」
「……ん?」
「何かありましたか?」
八木にしては珍しく、返事はすぐに返ってこなかった。突っ込んで聞いてはいけない雰囲気だったのかもしれない。
安易に踏み込んではいけない、人のテリトリー。
そう思って謝ろうとした真衣香よりも少しだけ早く、八木の声が響いた。
「何もねぇよ。まぁ、もうちょいしたらあるかもしんねぇけど」
「も、もうちょいしたら……って?」
答えてくれた言葉の意味が理解できず、そのまま聞き返してしまった。
しかし、さらに返ってきたのは、どうやら答える気などなさそうな、いつもの八木らしい笑顔。
意地悪で自信たっぷりで、真衣香をからかうように口角を上げてニヤリと。
愉快そうに笑う、見慣れた表情。
「ま、とりあえず腹ごしらえしよーぜ。急がなくても、多分大丈夫だし」
「多分って?」
「いつも昼飯食いに行ってる系統、適当に空いてそうなとこ入るぞ」
(うん。答える気ゼロみたい)
いつもの八木らしくなくて、でもやっぱりいつもの八木で。真衣香は少しホッとしていた。
「はい! 今日はトマト系は食べませんけど」
こんなふうに言い合える男性は、八木だけだ。思う形は違うけれど、大切なことに変わりはないのに。
(このまま八木さんと一緒にいたら、坪井くんのこと考えなくなったりするのかな)
なんて、揺らぎそうになる自分を心の中で叱咤した。しかしそうしたところで、自分の心の行き着く先など、わからないままなのだけど。
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