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のどかはエレベーターに乗り、名刺に書いてある階のボタンを押してみた。
夜遅いからか、誰も乗ってこないまま、その階に着く。
白い壁にナルセの社名が刻まれている。
その前に受付があったが、誰も居ない。
不用心だな、と思いながら、のどかは会社の入り口らしいガラス扉を押し開けた。
「頼もう」
いや、頼もうはなかったかもしれないが。
夢と現実の境が曖昧なうえに、身構えていたせいだろう、きっと。
すると、
「なにが頼もうだ。目が覚めたのか、のどか」
と成瀬貴弘が言った。
……あの成瀬社長が、のどかとか言っている、
とドアの木製のノブをつかんだまま、のどかは固まっていた。
「いいから、入れ」
と言いながら、貴弘は煙草に火をつける。
映画かなにかかと思った。
僧帽筋が発達しすぎない程度に体格のいい、スーツのよく似合う男が煙草を吸ってニヒルに笑う。
今どき見ない光景だと思ってしまったのは、その煙草のせいだろう。
「社内禁煙じゃないんですか?」
電子煙草以外の煙草を吸っている若い人を久しぶりに見た、と思いながらのどかは訊いた。
「社内禁煙だ。喫煙室以外は」
と小さく区切られたガラス張りの場所を指して貴弘は言う。
その狭いガラス張りの場所には応接セットやパソコンやデスクがぎゅうぎゅうに押し込まれている。
「まさか……」
「そう、あそこが通常の仕事スペース。
あとは全部、喫煙室だ」
逆ですよね、と思うのどかに、
「うちの社員はみなヘビースモーカーなんだ」
と言ったあとで、貴弘は煙草をもみ消し言う。
「だが、お前が煙草が苦手なら消そう」
「はあ、苦手ですが、大丈夫です。
もう帰りますので。
ありがとうございました、これ」
とのどかは上着を渡し、帰ろうととした。
「帰るって何処に帰るんだ?」
と訊かれる。
「え、家に」
「……お前、途中で大家さんに出会って、やっぱり、アパート更新しません。
うへへへへって言ってたぞ」
と貴弘は言う。
「うへへへへってなんですか」
「お前の笑い方をリアルに再現してみた。
そりゃあ、なかなか嫁のもらい手がないはずだな」
と貴弘は言い捨てる。
「別に花婿募集してませんし。
誰ももらってくださらなくて結構ですが。
……って、なんの途中ですか?」
と嫌な予感がしながら、のどかは訊いた。
「婚姻届を出しに役所に行く途中に決まってるだろうが」
「誰の?」
「お前の」
もう一本、煙草に火をつけかけて、顔をしかめ、貴弘はそれをしまう。
「なあ、家の外でなら吸ってもいいか?」
「いや、どうでもいいですよ、貴方が吸おうと吸うまいと。
っていうか、私が婚姻届って……」
「覚えてないのか。
さっき出しに行ったろう。
正確には二十一時三十五分十七秒だが」
と腕時計を見て貴弘が言った。
まだ事態について行けてないのどかに、貴弘が細かく説明してくれる。
「地下のバーから歩いて役所まで出しに行ったんだ。
途中でお前のアパートの前を通ったとき、たまたま大家さんと出会って。
光るタスキをかけて、犬の散歩中の大家のおじさんにお前は、契約更新しません、うへへへへって言ったんだ。
いや……」
と真剣な顔で考えたあとで、貴弘は言う。
「ぐへへへへ、だったかな?」
「そっ、そこはリアルに思い出してくださらなくて結構ですっ。
って、ほんとに出しに行ったんですかっ?」
と言ったが、行った、と貴弘は頷く。
「そうだっ。
今日は確か、同期会で――っ」
と蘇りつつある記憶を元に反論を試みたが。
「そう。
お前は、最初、友だちと来てたんだ、バーに。
で、その友だちが次々、彼氏から電話かかってきて、消えていってお前だけが残されてた」
なんという悲しい話を……。
「それでなんとなく俺と話し出して、なんとなく結婚する話になって、なんとなく婚姻届を」
待て待て待て、と思う。
「何故、なんとなく結婚することにっ」
「そこのところは俺もよく思い出せないんだが」
貴方も酔っていたのですが。
まあ、バーだからなと思う。
「お前は程よく、必要書類や印鑑を持っていた。
転職したり、アパートを代わったりするつもりのようだった。
俺もたまたま会社の関係で必要書類と印鑑を持っていて――」
「――持っていてっ?」
とのどかは拳を作り、身を乗り出す。
「そのまま二人で役所に行って、婚姻届を出した」
「タクシーッ!
タクシーを呼んでくださいっ!」
と思わず叫ぶと、貴弘は内線電話をかけ、
「すみませんが、タクシーを一台、玄関前に。
ええ、区役所まで」
と言ってくれた。