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#ファンタジー
#ダーク
知らない景色――いや、私はそれを知っている。
今からおよそ四百年も昔。現在のライトリム村など影も形もなかった時代。黒煉瓦の尖塔で、何の意味も持たずにただ生み落とされた、自我の薄い銀髪の少女の姿。
――願いを、叶えてあげる。
自分の口から出たはずの、感情の抜け落ちた声が響く。長きに渡る果てしない旅路の記憶。王都のような栄えた場所を避け、名もなき寒村や辺境を気まぐれに渡り歩き、人々の取るに足らない、あるいは切実な願いを淡々と叶え続けた日々。
いつしか、自分は行く先々でこう呼ばれるようになっていた。
――”凍星の魔女”と。
「はぁっ、はぁっ……やめ……っ」
ソラスは頭を抱え、泥の上に蹲った。
痛い。頭が割れるように痛い。他人の記憶を脳内に無理やり流し込まれているような、しかしそれが間違いなく自分自身の歩んできた軌跡であるという圧倒的な事実が、自我をへし折りに来る。
鮮烈な景色の中で、一匹の黒猫が足元をすり抜けていく。最初からずっと、ただ黙って傍らにいた使い魔。中立的で、何も語らず、ただ彼女の歩みを見つめ続けていた黄金の瞳。
旅の終わり。長い年月を経て、少しずつ”人間らしい自我”と優しさを芽生えさせていた彼女は、自身の生まれた場所――あの尖塔へと帰還する。そこで静かに暮らすはずだった。しかし、記憶の濁流は、彼女を最も見たくない残酷な真実へと引きずり込んでいく。
「いや……いやだ……見たく、ない……っ」
ソラスの悲鳴が、森のざわめきに掻き消される。
背後でエルナが”お姉ちゃん!?”と悲痛な声を上げているが、今のソラスには遠い世界の出来事のようにしか聞こえなかった。
――尖塔の麓に、いつの間にか形成されていた集落。ソラスが良かれと思って叶え続けた奇跡が、やがて人々の心に、狂気にも似た悍ましい信仰の炎を灯していく光景が、彼女の脳裏に鮮明に蘇り始めていた。
三百年。
途方もない時間をかけて国中を密やかに巡り、目立たないように少しずつ、各地の人々へ救いの手を与えていた彼女は、長い旅を終え、始まりの場所であるあの黒煉瓦の尖塔へと帰り着いた。
何も無かったはずの場所に、小さな集落ができあがっていた。それは現在のライトリム村の前身。人の心の痛みを理解できるまでに成長していた心優しき彼女は、彼らの切実な願いを無下にできず、次々と奇跡を施してしまった。しかし、それが破滅の引き金だった。
――蘇る記憶の中で、視界がどす黒い赤に染まる。純粋だったはずの信仰は、やがて熱狂へ。熱狂は、悍ましい狂気へ。魔女の恩恵を、奇跡を自分たちだけのものにしようとする醜い独占欲が、村人たちを狂わせ、同士討ちへと駆り立てた。
祈りの言葉を口にしながら、昨日まで笑い合っていた隣人の喉を鍬で掻き切る人々。子供の泣き声。燃え上がる家屋。瞬く間に血の海に沈んでいく集落。
「ちがう、やめて、こんなこと……っ」
彼女の悲鳴は、血走った目をした誰にも届かなかった。良かれと思ってしたことが、全ての命を無惨に奪い去った。その凄惨な光景は、芽生えたばかりの彼女の柔らかな自我を、粉々に破壊し尽くした。
「私が……私が、全部、間違えたんだ」
罪の意識に耐え切れず、尖塔の最奥へ逃げ込み――白銀の少女は自らその命を絶った。首筋を襲う猛烈な熱さと、冷たい石の床に広がる自分自身の血の生温かさ。そこで、一度、彼女の時間は永遠に途切れている。
次に目を覚ましたのは、さらに百年後。
「……ぁ……あ……っ!」
現実の森でソラスは腐葉土に爪を立てて呻いた。頭蓋を割って溢れ出した過去の真実が、今の彼女を激しく打ちのめす。悲劇的な自死から長い年月を経て蘇った彼女は、なぜ、今の今までその記憶を忘却していたのか。
ソラスの精神を保護するために、かつて自動で発動し、彼女の過去を”港町で育った片親の少女”という、偽りの記憶にすり替えていた強固な防衛機構。その分厚い壁に、森の魔力波長との同調が決定的な亀裂を入れたのだ。記憶の蓋が完全に砕け散ったことで、これまで不可解だったすべてのピースが、残酷なほど鮮明に繋がり始める。
なぜ、現在の村人たちは、見ず知らずの自分を”昔からそこにいる”とあっさり受け入れたのか。それは尖塔に掛けられた、強力な認識阻害の魔法。塔の内部には尚強固な結界が定着しており、家主である彼女が招き入れない限り、誰も勝手に入ろうという考えすら思いつかない仕組みになっていた。
なぜ、あの黒猫は自分の元から去ったのか。本来は中立的な立場の使い魔であるあの猫は、記憶を失った彼女が再び村人と関わり、かつてと全く同じ信仰と依存の惨劇を繰り返そうとしているのを見て、失望と共に立ち去ったのだ。
そして――。
ソラスの空色の瞳から、とめどなく涙が溢れ出す。
ユイス。
生意気で、口が悪くて、不器用で、いつも傍にいてくれたあの少年。彼は、人間ではなかった。防衛機構が記憶の消去と同時に生み出した、ソラス自身の”半身”。再びの暴走を抑え込み、追い詰められる孤独を埋め、生活の世話をするために生み出された、仮初めの分身。
だから、彼は尖塔の近くから離れなかった。だから、ソラスが本来の魔力を取り戻すのに反比例して存在が薄れ、消えゆく運命にあったのだ。
「ああ……ぁぁあっ……!」
ソラスは、泥に顔を押し当てて泣き叫んだ。過剰な呼吸が止まらない。ヒュー、ヒューと喉が鳴り、肺が痙攣して酸素が血に溶けない。
自分が、かつての醜い殺し合いの元凶であるという途方もない罪悪感。そして、自分を守るためだけに生み出され、何も言わず自ら消えていったユイスへの取り返しのつかない喪失感。心臓が恐怖と絶望で破裂しそうだった。また、同じ結末を辿るのか。自分という存在は、関わるものすべてを狂わせ、破滅させるだけの、呪われた化け物なのではないか。
ガクガクと全身の震えが止まらず、亀裂の入った器から魔力が再び絶望的な暴走の兆しを見せ始めた、その時。
「お姉ちゃん……っ!」
必死な声が、暗い記憶の底に沈みかけていたソラスの意識を、水面へと強く引き上げる。背中から伝わるエルナの感覚。それは、四百年前の冷たい石の床で流した、己の絶望の血の温度とは違う。確かに脈打ち、震えながらも明日を渇望する、温かい命の熱だった。
「お姉ちゃん、私がいるよ! 私が、ここにいるから……っ!」
涙声で必死に叫ぶその声が、ソラスの鼓膜を震わせる。奇跡を貪り合い、血走った目で彼女を奪い合った、四百年前の亡者たちの悍ましい絶叫が、スッと遠のいていく。
激しく上下していた胸が、ゆっくりと、酷くゆっくりと落ち着きを取り戻し始めていた。震える手で腐葉土を掴み、ソラスは泥に塗れた顔を上げる。
違う。あの凄惨な過去とは、決定的に違うのだ。ソラスの脳裏に、不器用に淹れられた少し温いお茶の記憶が蘇る。
ユイスという自分を守るための存在。だが、彼と共に過ごした静かな夜や、交わした憎まれ口は決して偽物ではなかった。どうしようもない孤独の穴を彼が埋めてくれていたからこそ、蘇った後の彼女の心は完全に壊れずに済んだのだ。彼は、ただ消え去ったのではない。ソラスという魂を、今日この日まで繋ぎ止めてくれた。
村人たちもそうだ。確かに過酷な冬と不安から彼女の奇跡に依存し、信仰を加熱させた。だが、互いを殺し合うような狂気の底までは落ちていない。彼らもまた、不器用ながらただ懸命に生きようとしていただけだ。
そして今の彼女には、自分のために血を流し、国家の剣聖を相手に一歩も退かずに死線を潜ってくれている男――フラスニイルがいる。彼女の異常性を知りながら、それでも”ただの子供”として扱い、理解しようとしている。
何より。背後を振り返れば、そのか細い足と自分の意志で危険な森の奥へ駆けつけてくれた、ひとりの普通の女の子が、今まさに強く抱きしめてくれている。
ソラスの澄んだ空色の瞳に、再び静かで強靭な光が宿る。過去の罪は消えない。かつて背負った恐ろしい業も、失われたユイスの姿も、元には戻らない。けれど、今度こそ、絶対に間違えない。
その魂の理解が純度の高い莫大な力となって、昼下がりの世界を白銀に満たした。意志を持ったかのように、木々が自らの枝を組み替え、二人を覆う強固な防壁を形成していく。大地がうねりを上げ、傷ついた彼女の足元を力強く、優しく支え上げる。大気中の水分が瞬時に凍りつき、絶対零度の気配が森の空気を鋭く冷やした。
それは敵の命を無慈悲に刈り取る、破壊のための力ではない。ただ一人の少女を、背後の温もりを守るための解放である。ソラスは、真っ直ぐに前を向いた。もう、迫り来る理不尽や過去の因習から逃げるためではない。
――自身の意志で、守ると決めたから。