テラーノベル
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白耀剣の先頭を進んでいた屈強な騎士が、唐突に足を止めた。
「……隊長」
兜の奥から漏れた声は、不自然なほど低く、得体の知れない緊張に強張っていた。アルベルトは、即座にその場を支配する異様な違和感を察知する。森が――あまりにも”近すぎる”のだ。
先ほどまで、彼らの進軍を阻むように鬱蒼と生い茂り、行く手を遮っていたはずの木立。それは確かに、歩みを遅らせるだけの普通の森だった。
しかし今は、どうだろうか。枝葉の隙間が、まるで意図的に彼らを誘い込むように、人ひとりが辛うじて通れる幅だけ綺麗に避け、一本の細い獣道を形成している。自然界の偶然にしては、あまりにも整いすぎていた。
「……進め」
警戒を緩めず、アルベルトは低く号令を下した。騎士たちが息を殺し、白刃を構えたまま慎重に足を踏み出した、その時。最後尾を固めていた騎士が、短く切羽詰まった声を上げた。
「――足が!」
アルベルトを含む数人が慌てて振り返る。そこにあったのは不可視の罠でも、発光する魔法陣でもなかった。
ただの、湿った腐葉土。ほんのわずか、踏み固めが甘かっただけの、どこにでもある森の土だ。しかし、重装備の騎士の鉄靴は、まるで底なし沼にでも飲まれたかのように、不自然なほど深く大地へと沈み込んでいた。
「引き上げろ!」
近くの者が即座に腕を掴み、強引に引き抜こうとする。だがその瞬間、地面が――ひどくゆっくりと、その形を変えた。
引き抜こうとする力に対して、攻撃的に逆らうわけでもない。かといって、素直に応じるわけでもない。ただ、極めて自然にそこにあるべき形へと、土の密度と形状が推移していく。まるで、森の土そのものが彼を離したくないと、静かに抱擁しているかのように。
「……何だ、これは」
誰かの乾いた呟きが落ちた。騎士たちが身につけている、王国最高峰の対魔導装備の感知具は、完全に沈黙したままである。
魔力反応――なし。
断ち切るべき術式の流れ――見当たらない。
張り詰めた糸が切れたように、一人の騎士が半ば反射的に、索敵のための矢を前方へと放った。すると、虚空を裂いて飛んだはずの矢は、突風に煽られたわけでもなく、見えない障壁に弾かれたわけでもないにもかかわらず――突如として、その進路を”失った”。目標に届く直前、ほんのわずかに空間の角度がずれたかのように軌道が歪み、そのまま無関係な大樹の幹をかすめて、音もなく腐葉土に突き刺さったのだ。
「……当たらない……?」
弓を下ろした騎士の声に、深い困惑と恐怖が滲む。アルベルトは、鞘に収めた剣の柄をギリリと強く握りしめた。これは空間を隔離する結界ではない。視覚を狂わせる幻術でも、物理的な魔力干渉でもない。ただ――この空間にあるすべての事象が、彼らの存在と微妙に噛み合っていないのだ。
騎士たちが足を踏み出そうとする場所だけ、太い根がわずかに隆起して歩みを阻む。視線を奥へ向けようとする先だけ、枝葉が不自然に重なり合って死角を作る。焦る肺を満たそうと息を吸い込めば、その瞬間の空気だけが僅かに重く、酸素を拒む。そのひとつひとつは、決して致命傷を与えるような暴力ではない。だが、極めて精緻に積み重なったわずかなズレが、彼らの進軍を物理的にも精神的にも完全に封じ込めていた。
「……魔女の魔法か?」
背後の誰かが、すがるように問う。アルベルトは、即座に首を横に振って否定した。
「違う」
兜の中で響いた自分の声が、想像以上に硬く、畏怖に震えていることに気づく。
「これは……我々に対して仕掛けられている魔法ではない」
精鋭たる騎士たちが、一斉に息を呑む音がした。アルベルトは盾を下げ、周囲の森を静かに見回した。そこには、先ほどまでの激戦に満ちていた敵意も、冷酷な殺意も、微塵も感じられない。あるのは、ただ――”ここから先へは通さない”という、圧倒的で、あまりにも巨大な静寂の意思。
「……世界そのものが、我々を拒んでいるんだ」
ごくり、と。誰かの乾いた喉が鳴る。数多の死線を潜り抜けてきた白耀剣の騎士たちの間に、初めて、刃を持たない絶対的な恐怖が形を成した。剣を振るっても斬れない。魔力を相殺しても断てない。それでも、決して越えられない壁が、確かにそこにある。
アルベルトは、抜き放っていた剣の切っ先を完全に地面へと下げたまま、立ち往生している前方の部下たちを静かに見つめていた。
前へは進めない。目に見えない世界の理が、彼らの歩みを柔らかく、しかし絶対的な力で押し留めている。だが、後方へ引き返すことだけは一切拒まれてはいない。それが、何よりも異様で、恐ろしかった。
「隊長、どうしますか」
背後に控える副官格の騎士から、戸惑いを孕んだ声がかかる。アルベルトは即答しなかった。彼の研ぎ澄まされた観察眼は、周囲の環境が抱える異常性を冷静に分析し続けていた。
すり鉢状になった地形。急に冷え込んだ風の向き。立ち並ぶ木々の不規則な間隔。――どれもが、不自然なほどに致命傷を避けるように配置されている。まるで、彼らがどんなに愚かな一歩を踏み出しても、決して死に至らないよう、この森全体が過保護な揺り籠として機能しているかのように。
その時だった。
「……っ!」
前列で警戒に当たっていた若い騎士が、体勢を立て直そうと一歩踏み出した瞬間――その鉄靴が、ぬかるんだ土の上で無惨に滑った。
すぐ横は、切り立った急斜面。湿気を帯びた分厚い落葉の層。そして、彼の動きを致命的に鈍らせる数十キロの重装甲。若い騎士は完全にバランスを崩し、声にならない悲鳴とともに、暗い斜面の底へ向かって真っ逆さまに落下していった。
「掴め!!」
近くにいた仲間が怒号を上げ、咄嗟に腕を伸ばすも、間合いが遠すぎた。伸ばされた指先は空を切り、無情にも若い騎士の体は斜面を転がり落ちていく。
この角度と速度で、重い鎧ごと斜面の底の岩肌に叩きつけられれば、首の骨か背骨が砕けてしまう。絶対に助からない。アルベルトの脳裏に、戦場の死神がもたらす冷酷な判断が閃いた。
――死亡。
その、絶望的な予測が形を成した刹那。森の音が、変わった。
ばきんッ、と。太い枝が、強引にへし折られる乾いた音が響く。それは命が崩壊する音ではなかった。斜面を猛スピードで転がり落ちていた騎士の身体に、斜面に突き出ていた枯れ枝が”偶然にも”鎧の隙間に深く引っかかり、落下の凄まじい勢いを強引に殺したのだ。
枝は折れて砕け散ったが、その一瞬の減速が致命的な運動エネルギーを奪い去った。さらに、その直下の斜面から露出していた巨大な木の根が、まるで柔らかい腕のように彼の背中をふわりと受け止めた。騎士の身体は、最終的に乱暴な音を立てて斜面の途中の平らな地面に叩きつけられたが――そこで、完全に止まった。
「……生きてる」
斜面を見下ろしていた誰かが、信じられないものを見たように呟いた。アルベルトは躊躇うことなく斜面を滑り降り、倒れた騎士の元へ駆け寄る。首筋に指を当てた。脈は、力強く打っている。呼吸も乱れてはいるが、確かにある。恐怖と衝撃で気絶しているだけだ。鎧には無数の擦り傷が刻まれているが、骨折や内臓破裂といった致命傷は、どこにも見当たらない。
アルベルトは、ゆっくりと立ち上がった。見上げるような急斜面と、周囲の木々を見回す。落下を止めた枝は、元からそこにあった自然の朽ち木だ。背中を受け止めた根も、大樹が地を這わせた自然の造形物に過ぎない。魔術の詠唱は一切なかった。対魔導装備の感知具も、一切の魔力反応を示してはいない。ただの、天文学的な確率で起きた物理的な偶然。
それでも、彼は助かった。――いや。”助けられた”。アルベルトは、軍人としての合理的な思考を以てしても、その明白な事実を否定することができなかった。
「……これは……」
分厚い胸当ての奥で、確信に満ちた言葉が形になる。我々の”排除”ではない。もし相手が純粋な敵意を持っているなら、そもそもこの森の深部まで彼らを無傷で接近させはしない。もし相手が感情のない討伐対象なら、先ほどの落下で確実に命を刈り取っていたはずだ。
一方、現実はそうはなっていない。境界線を引いているだけで、これ以上踏み越えれば、容赦なく歩みを止めてくる。だが、決して命までは奪わない。それは血に飢えた異端の戦闘などではなく、大いなる力を持った存在による、極めて理性的で慈悲深い判断だった。
アルベルトは、握りしめていた剣の柄から、ゆっくりと力を抜いた。
完全に理解してしまった。もし、あの銀髪の少女が、本気で王国を敵と見なしているなら。もし、この世界そのものを味方につけた森が、本気で彼らに牙を剥いていたなら。白耀剣の精鋭たちは、とっくの昔にこの世から消え失せ、誰一人として生きて故郷の土を踏むことはできなかっただろう。
「……進軍を、止めろ。これ以上は無意味だ」
アルベルトの重い命令が、秋の森の冷たい大気へと落ちた。ややあって、彼らを囲んでいた木々の枝葉が、これ以上ないほど穏やかにさわさわと揺れた。まるで”それでいい”と、彼女の優しき意志を代弁して、静かに告げるように。周囲の騎士たちが一瞬だけざわめく。
「隊長? しかし、それでは王命が……」
「理由は後ほど記録し、俺が全責任を負う」
アルベルトは、気絶して倒れている若い騎士の寝顔をもう一度見下ろした。
「彼女は……我々が剣を向けるべき、制圧対象などではない」
誰にも聞かせることのないその小さな呟きは、彼自身に深く言い聞かせるための誓いだった。アルベルトは、奥深くで不可視の境界線を引き続ける森を、静かに見据える。
騎士としての義務でもなく。王国の剣としての誇りでもなく。血の通った人間としての、最も根源的な判断で。アルベルトの胸の中で、これからの己が進むべき道を示す言葉がはっきりと定まる。それは、冷徹な王命に背くという反逆の選択ではない。騎士が剣を抜く理由の、もっと手前にあるべき、一人の人間としての気高き決断であった。
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