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いてもたってもいられなくなった春佳は、スマホを持ってバナーをタップする。
悪いと思ったが、パスコードは一緒に暮らす中で知ってしまったので、覚えている通りに打ち込んだ。
ロックが解除されたあと、春佳は夢中になって小村からのメールを読む。
【今日、たまたま神保町で妹さんと会ったんだけど、私が瀧沢くんを好きだと誤解してるみたい。お父様が亡くなられて妹さんも精神的に不安定だと思うし、支えてあげてね。きっと今は瀧沢くんだけを頼りにしていると思うから。瀧沢くんも会社ではいつも通りに過ごしてるけど、何かつらい事があったら話を聞くからね。では、また月曜日に。小村】
一瞬、小村が自分の事を悪く言ったのかと思ったが、違った。
一応安心したものの、余計に訳が分からなくなる。
小村からのメールは、本当に後輩を気遣っているだけで、その裏に恋愛感情を隠しているようには思えない。
彼女が言っていたように、小村はただの同僚である可能性が高くなる。
もしも冬夜が主張していたような悪女なら、春佳を悪く言い、「でも自分はあなたを理解してあげるからね」のような事を言ってもおかしくない。
けれど文面から見る限り、小村はとても常識的な人だ。
勿論、彼女はメールを春佳に見られると思っていないだろうから、書かれている事に偽りはないと思っていい。
(……なら、お兄ちゃんが私に嘘をついてた? 何のために?)
急に冬夜に対する不信感が湧き起こり、春佳は動揺する。
胸の奥がザワザワするが、とりあえず証拠隠滅のためにメールを削除し、ゴミ箱からも消去した。
そのあとスマホを元の場所に戻し、ソファに座る。
春佳は体育座りをして自分のスマホを開き、見ているふりをしながら思考に没頭した。
(お兄ちゃんを疑いたくない。だってたった一人の味方だもの。疑うなんて駄目だ)
そう自分に言い聞かせるものの、心の中でもう一人の自分が囁いてくる。
――どうして、お兄ちゃんなら全部〝正しい〟って思ってるの?
――お兄ちゃんは聖人君子じゃないんだよ? ちょっと優秀なだけの普通の男性。秘密にしている事だってあるし、私や家族に言えない事情を隠しているかもしれない。
(そんな事、あるはずがない。こんなに良くしてくれてる人を疑ったら駄目だ)
必死に心の声を押さえつけようとするが、コポリ……とあぶくが湧き起こる。
――どうして疑ったら駄目なの?
――お兄ちゃんは精神的な支えで、生活の面倒もみてくれている。だから信じられなくなったら途方に暮れてしまうからでしょう?
ぐうの音も出ない正論を言われ、春佳はギュッと目を閉じた。
(お兄ちゃんに、やましいところなんてない)
頑なに否定する春佳は、深い思考の水底にいた。
暗く、他に何の生き物もいない茫洋とした水の中で、自分とうり二つの貌をした少女が、長い髪をたゆたわせてこちらを見ている。
明るい色をした水面近くには、色とりどりの魚たちが、兄との楽しい思い出の象徴としてのびのびと泳いでいる。
普段はそこで気持ちよく泳いでいられるのに、母に怒られた時などは思考が深いところに引っ張られ、こうしてもう一人の自分が囁いてくるのだ。
今もまた、自分と思えないほど妖艶な貌をしたもう一人は、唇の間からコポコポとあぶくを零して話しかけてくる。
――なら、証拠を見つけなよ。
――同居してるなら、お兄ちゃんがいない間に色々探せるでしょ?
――時間はたっぷりあるし、探しても何も出ないなら信じていいんじゃない?
(そんな、泥棒みたいな事……)
まだ文句を言おうとした時、バスルームのドアが開く音がし、冬夜がシャワーから上がったのが分かった。
考え事をしていると、勘のいい兄に悩み事があるか聞かれてしまう。
春佳はソファから立ちあがると、わざと物音をたててキッチンで水を飲んだ。
**
その後、春佳は冬夜が不在の時に家捜しを始めた。
一気に色んな所を探そうとすれば、焦りのあまり粗が出てしまうので、「今日はここだけ」と決めたあとは、決して手を着けないルールを設けた。
春佳は罪悪感を抱きながら、書斎のデスクの引き出しを一段ずつ調べていく。
冬夜は神経質な面があるので、物を動かす時はとても慎重に行った。
二週間近くかけてデスクの引き出しをすべて確認し、何もないという結論に至った。
十一月に入る頃には、書斎は大体調べ終えた。
ただ一点、パソコンを除いては――。
ずっと気になっていたパソコンの前に座ったのは、十一月半ばの事だ。
(街はクリスマス一色になっているのに、私、何やってるんだろう)
クリスマスイブはかき入れ時のため、アルバイトの予定が入っている。
だがその前の週末には千絵と女子会をするし、イブは冬夜の誕生日なので、彼にプレゼントを買うつもりでいた。
千絵とのクリスマス女子会ではイタリアンのランチコースを予約し、冬夜への贈り物を買うのに付き合ってもらう予定だ。
涼子とはいまだ面会しておらず、さすがに冬夜に『お見舞いに行きたい』と言ったが、『絶対にやめておけ』と言われている。
だが、自分でも分かっていた。
本気で母に会いたいなら入院先の病院は知っているから、「娘です」と言って面会させてもらえばいい。
なのに冬夜に言われた言葉が春佳の足を止めている。
『〝自分がいなきゃ駄目なんだ〟と思ったら、お前はまたかいがいしく母親の世話をするだろう。それじゃあ、同じ事の繰り返しだ』
兄の言葉は正しい。正しいからこそ、母と顔を合わせたらまた罵倒されないか、依存されないか……と不安になってしまう。
実家で母と暮らしていた時の事を思いだすと、胸の奥をギュッと掴まれたような感覚になり、呼吸が苦しくなる。
安全な環境で生活するようになって、ようやくこれが母によって長年刻まれた呪い、トラウマなのだと理解した。
今だって、すべてから解放されたわけではない。
街中を歩いていて大きな声を聞くと、必要以上に驚き、酷い時は動けなくなってしまう。
普通に友達と話していても、怒らせないように、不機嫌にさせないように、とても気を遣って言葉を選んでいる。
それでも、ささやかな平和は掴めた。
いつ人に嫌われるか、怒られるか、ビクビクしながらも、春佳は精一杯〝普通〟のありがたみを味わっている。
今の生活を愛しむからこそ、牢獄の中にいたような〝昔〟の象徴である母に会うのがとても怖かった。
そんな彼女を一人で守り、支えているのが冬夜だ。
今、春佳は兄のもとで、とても幸せな生活を送っている。
思い出に苛まれる事はあっても、現実の春佳を害する者は誰もいない。
(何をやってるの。お兄ちゃんは幸せの象徴。それを疑って、パソコンの中身を見ようとするなんて……)
ロック画面には京都の嵐山らしき、竹林の写真がある。
春佳は自分を責めながらも、震える手でエンターキーを押した。
コメント
1件
第18話、読み終えました。春佳の心の内側が水面と深層に例えられていて、すごく印象的でした。特に“もう一人の自分”がコポコポと泡を吐きながら囁く描写に、彼女の抑圧されてきた感情のリアルさを感じます。兄を信じたい気持ちと、それでも疑わずにはいられないジレンマ…この二週間の家捜しの重みがひしひしと伝わってきました。パソコンの前に座る決意のシーン、続きが気になります。