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アネモネは、自宅へ続く獣道をてくてくと歩く。
「…… もう、春かぁ。うん、春だなぁ」
霞みがかった空を見上げて、独り言ちる。
足元を見なくても、長年、雨の日も風の日も歩き続けたこの道では、しっかり足に馴染んでいる。よそ見したとて、転んだりはしない。
ゆったりと流れる雲を見つめていたら、近くからキュルキュルと小動物の声が聞こえて、そちらに目を向ける。木の梢に2匹のリスが仲良く寄り添っていた。
兄弟なのだろうか。仲間同士なのだろうか。それとも、連れ合いなのだろうか。
アネモネは足を止めて『こんにちは』と挨拶をしてみる。すぐさまリスは、キュッと短く鳴いて姿を消してしまった。ご近所同士だというのに薄情者である。
「ま、でも…… 私も薄情者だったのかなぁ」
止まっていた足を動かしながら、アネモネは溜息を吐いた。
ブルファ邸の窓を飛び出して、捕まえられた時のソレールの顔が今でも忘れられない。腕を捕まれ、なぜ自分を置いていくのだと詰め寄った彼は、間違いなく傷ついていた。
あんなにも大切にしてくれて、言葉と手と眼差しで、深く自分を慈しんでくれたというのに。
「でも……他にどうすることもできなかった」
痛む心を誤魔化すように、アネモネは胸に手を当て自分に言い聞かせる。
これは、紡織師が背負う業なのだ。
そしてこれからも背負い続けるもの。アネモネが紡織師として生きていくのなら。
『アネモネ……ごめん、……すまなかった。私はあんたに取り返しのつかない運命を選ばせてしまった。……頼む、どうか許しておくれ』
不意に、泥酔した師匠の言葉が蘇る。
今なら、師匠があんなにも悔いていた理由が良くわかる。
師匠には、タンジーがいた。
アネモネは、ソレールに恋をした。
きっともう、あんなにも誰かに心を許すことはないだろうと思える程、素敵な時間を過ごすことができた。
でも、失恋の痛みを知った今、恋は一生に一度でいいと思っている。だから自分には、本当の意味で傍にいてくれる人はいない。これから先も、ずっと。
それはとても孤独なことなのだろう。想像を絶する寂しさを味わうのだろう。けれど残念ながら、この程度で紡織師を引退するつもりはない。
「ま、見ててください、師匠っ。私は大丈夫です!」
胸の痛みを振り払うように、勢い良く身体をぐるんと反転させたアネモネは、槐の木に向かって手を振った。
紡織師は誰かにとって必要なものだ。
人生という名の織布がより美しくなるのであれば、アネモネは喜んで笛を奏で続ける。
花と深緑の香りが混ざった風は、ちょっぴりしょげてしまった自分の背中を押してくれる。
追い風のおかげでその後は足を止めずに、自宅のすぐ近くまで歩き続けることができたけれど、ここでアネモネの足が早まった。大変珍しいことに、来訪者を目にしたからだ。
半人前の紡織師だと自負しているアネモネは、師匠のように看板を掲げることはしていない。でも絵師の看板は掲げてあるから、絵を依頼しに来た者なのだろう。
あいにくタンジーは留守だが、要件ぐらいは聞くことはできる。それにタンジーは憧憬画家だ。きっと訪ねて来た人は、叶えられなかった願いを胸に秘めているはず。
話を聞くだけでも、人は気持ちが楽になるものだ。だから待たせてはいけない。
そんな気持ちでアネモネは一気に坂を駆け降りる。
客は丁度馬から降りる最中でこちらに背を向けている。フード付きの焦げ茶色のマントが全身を覆っているせいで、こちらからは顔は見えない。
「あのっ。お待たせしてすみませんっ。絵をご依頼ですよね?でも、ごめんなさいっ。今、絵師は……── っ!?」
客とおぼしき人は青年だった。見知った男だった。
アネモネが、恋しいと思った騎士だった。