すると、亜玲は少し考えるような素振りを見せた。しばらくして「あぁ」とわざとらしく声を上げる。
「祈の元恋人くんだね。……名前を聞いても、誰だか分らなかったよ」
表情を崩さずに、亜玲がそう言い切る。
その言葉を聞いたとき、俺の頭に一瞬で血が上った。でも、感情はこらえた。
ここで冷静さを欠いてしまえば、亜玲のペースに巻き込まれる。ぐっと手のひらを握って、爪を立てて小さな痛みで冷静さを保つ。
「……寿々也は、本当にいいやつだったんだ」
寿々也は目立つような容姿じゃないけれど、すごく優しくて、気遣いが出来る男だった。
だから、俺は寿々也と恋人関係になった。……なのに。
「俺は寿々也との未来だって、思い描いていた。……亜玲が、全部壊したんだよ」
出来る限り低い声で、そう言った。
亜玲はニコニコとした笑みを崩して、今度はきょとんとした表情を浮かべる。そこに反省の色は見えない。
「寿々也だけじゃない。今まで付き合った奴は、全員亜玲を好きになったよ。……みんな、いい奴だったのに」
それだけを言って、下唇を噛む。
俺のその姿を見て、亜玲は「ははっ」と声を上げて笑っていた。……なにが、おかしいんだ。
「いい奴? 祈の頭の中は本当にお花畑だよね。……いい奴っていうのは、ほかの人間に靡いたりしない」
「……それは」
「俺がちょっと特別扱いしただけで、俺に恋心を抱くような奴らはいい奴なんかじゃない」
……亜玲の言葉は、正しい。
俺が目を逸らし続けていた現実を、いとも簡単に突きつけてくる。
それでも。
「……亜玲さえ、いなかったら!」
「――俺さえいなかったら、なにかが変わったの?」
冷静な亜玲の声を聞いて、俺はハッとして亜玲の顔を見つめる。
……亜玲は、笑っていた。その目には仄暗い感情が宿っているようにも見える。
「言っておくけれど、あれくらいで俺に靡くような奴らは、何処かで浮気をしたと思うよ? 俺が手を出すまでもなく、祈は振られてた」
まるで、俺をバカにしているかのような言葉だった。
……いや、違う。亜玲は間違いなく俺のことをバカにしているんだ。
簡単に人を好きになる馬鹿な男だって、嘲笑っているんだ。
「そんな奴を奪って、なにが悪いの? むしろ、祈は俺に感謝してよ。……バカな人間どもから、助けてあげているんだからさ」
……話にならなかった。
先輩はきちんと話すべきだって言っていた。
だけど、こんな男となにを話せっているんだ。
(感謝? 冗談じゃない! 俺のことを見下して、嘲笑っているくせに……!)
少し卑屈な考えかもしれない。わかっている。わかってはいるけれど……その考えが、消えてくれない。
「……もう、いい」
自分でも驚くほどに低い声が出た。
ただただ亜玲を見つめて、にらみつけて。一旦深呼吸。
「もう、お前と話すことはない。亜玲」
「うん」
「もう、俺に近づいてくるな。あと、今後出来た俺の恋人にもちょっかいを出すな」
それだけを告げて、俺は玄関のほうに視線を向けた。……あぁ、時間の無駄だった。
「……うーん、どうしようかなぁ」
亜玲がそう言葉を零したのが、聞こえた。
……こいつは、この期に及んでまだ迷うのか。
「――亜玲!」
そう思ったら、身体が自然と動いていた。
亜玲の胸倉をつかんで、ぐっと顔を近づける。
……恐ろしいほどに整った顔の男が、俺を見つめている。まるで黒曜石のような目は、俺だけを映している。
「……もう、嫌なんだよ」
ぽつりと言葉が漏れた。
もう、嫌なんだ。亜玲に振り回されて、満足に恋も出来ない生活が。
「お前の所為だ。お前の、お前の所為なんだよ!」
俺が幸せに慣れないのは、亜玲の所為。
そうだ。それが正解で、間違いじゃない。
亜玲さえ、亜玲さえいなかったら――。
「ははっ」
そう思う俺の耳に届いたのは、この場に似つかない楽しそうな笑い声だった。
驚いて亜玲の目を見つめる。奴は、ただ笑っていた。
「いいね、最高。……祈の目が、俺だけを見ているんだ」
亜玲が俺に手を伸ばしてきて――頬に、触れた。
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