バーテンダーと客の会話が響く都内某所の半地下。
竜胆はふわりと欠伸をし、グラスを整えた。カラン、扉が開きコツコツと乾いた革靴の音が耳に入ったので顔を上げる。いつもこの時間帯に来る桃色の髪の男。竜胆はこの男の仕草についつい見惚れていた。男は竜胆の名前を知っている。でも自分の名前は教えてくれない。
「竜胆、おすすめくれ」
前々からずっと出そうと思っていたカクテルを男の前に置く。男は竜胆を目で見やり、説明を求めた。
「カシスソーダ。見て分かんねえの」
「俺が酒飲めるって知ってんだろ。なんでカシスソーダなんだよ」
「うーん、あんたがお子ちゃま舌だから?」
「あ?」
「名前も年齢も教えてくれないし、馬鹿みたいに意地貫いてさ。ガキみたいじゃん。」
男は竜胆の言葉を聞いてからくす、と笑いカシスソーダを口に含んだ。竜胆の作ったカシスソーダは果実味と甘さが程良いバランスで、男の機嫌を良くさせた。男の緩んだ表情を見て竜胆は静かに微笑む。気付いてくれればいいのに、と。
「…なんかお前上手くなってんじゃん」
「だろ、練習してるからさ」
「偉いじゃん、俺の為?」
竜胆の紫色の髪が風でふわりと揺れる。少ししてから、それはどうかな、と小さく呟いた。男がカクテルを飲み終わったのを確認しグラスを下げる。隣のバーテンダーが氷を砕いているのを見て、男をもう一度見つめた。男も竜胆の方を見ていた様で、甘いカクテルの匂いが漂う部屋で二人の視線が絡み合う。暫くしてから男がカクテルの催促をした。
「はい」
「………これ、アプリコット…なんだった?」
「アプリコットフィズ。なんで覚えてんの?カクテルおばけじゃんこっわ、仕事しろよ」
「お前がよく出してくるから覚えてんだわ馬鹿」
あは、そうだったっけと竜胆が笑い男はアプリコットフィズをごくりと飲んだ。アプリコットフィズもカシスソーダと同じく、女性も飲みやすいカクテルで飲み口も爽やかなものだ。
男女の会話が聞こえる中で男二人で静かに深く話す。見た目では年齢のあまり離れていないこの二人はどちらが年上でどちらが年下なのか、はたまた同い年なのかは分からない。きっと互いをよく知らないからこその関係なのだろう。もし互いの事が分かったら二人はどうなるのかなど誰にも予想は出来ない。この二人にもそれは分からない。ただどちらとも口に出さないが相手と話す事は楽しくて面白いと思っている。竜胆はというと男が来る毎に熱心にカクテルを入れている。竜胆の隣に立っている男はそのカクテル言葉に気付いては、竜胆の気持ちを応援するんだとか。
「どう、美味い?」
「美味いぜ、いつも」
男がにこりと微笑むと竜胆も微笑み返した。途端、小さな歓声がカウンターから聞こえる。二人はつい反射的に声のした方を見た。そこでは若い男が女に跪き、小さな箱を開けている所だった。竜胆が小さく目を細め、ぱちぱちと手を叩いたのちにどこか悲しそうな表情を浮かべたのを見たが男は何も言わなかった。
「男じゃ駄目だよね」
男が帰った後に竜胆が呟いた言葉は静かに地面に落ちた。誰もそれを拾う事は無い。竜胆も、拾わない。くしゃりと革靴でそれを踏み潰し、自分の気持ちに蓋をしようと努力しながらカクテルバーから家へと帰った。
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竜胆がトイレで手を洗っていると長身の男が入って来た。身なりからして客だと分かり、竜胆は小さく会釈をする。すると男はにこりと微笑んで竜胆に近付いた。
「ドーモ、名前は?」
初対面で会釈しか交わしていないのに名前を聞かれ竜胆は少し眉を顰める。男の顔を見詰め、服装を見詰め、ハンカチで自身の手を拭きながら口を開いた。
「……竜胆、あんたは?」
「あは、敬語じゃないんだ」
「うるさい、あんたの名前は?」
君みたいな子嫌いじゃないよ、と言って男が口角を上げると、竜胆は益々眉を顰めた。さっきから何を言いたいのか何がしたいのか分からない、と表情で読み取れる程に。
「言わない、言ったらもう俺の事”あんた”って呼んでくれないだろ」
男は竜胆の手を取り言った。竜胆は手を引っ込めようとしたが男の力が予想よりも強く手を握られたままで呟く。お前もか、と。紫色の髪の男が自分よりも背の小さい竜胆を見詰める。竜胆は片手で自身の襟足を梳いては、わざとらしく大きく溜息を吐いた。
「なんでそんな事にこだわんの?俺がなんて呼んだって変わりないだろ」
「君みたいな可愛い子から出る”あんた”って、」
「興奮するって?」
竜胆は男を下から見上げながら呟いた。桃色の髪の男に以前言われたのだ、全く同じ言葉を全く同じ調子で。
「正解」
男がくく、と笑った声が響く。竜胆は変わらず男を見上げている。
「食べちゃいたいくらい」
男の言葉は上の一階にある椅子が引かれた音にかき消され、竜胆には聞こえなかった。竜胆は聞き返さずにくるりと男に背を向ける。
「俺グイグイ来るの嫌いだから諦めて。じゃあ、仕事戻るので」
「…それは心外だなあ。んー?もしかしてここの?」
「そうだけど」
竜胆はまだ話しかけて来るか、とドアを開けようとした手を止め振り返る。男はさっきと変わらない位置で立ってにっこり微笑んだ。
「俺にカクテル作って」
氷を砕いている男の隣で不機嫌そうに男の注文を聞く竜胆。男は変わらずにこにこと微笑んでカクテルの名を言った。
「そうだな~~、エンジェルキッスでお願い」
「意外、甘いの好き?もっと濃いやついくと思ってたけど。」
エンジェルキッスとはクレームドカカオ、生クリーム、マラスキーノチェリー、とデザートの様なカクテル。飲み口が甘く、竜胆が働くカクテルバーではあまり頼まれないものだ。
「…知らねえの?」
「何を?」
「知らないならいいや」
男は頬杖を付き竜胆がカクテルを作っているのを眺めた。こんなものを見て飽きないのか、面白いのかと竜胆の頭に疑問符が浮かんだが竜胆はそれを無視し手を動かした。
「はい」
「上手いじゃん」
「早く飲んで。んで帰って」
ふん、と鼻息を吐いて眉を顰めたまま空になったグラスを洗う準備を見せつけるようにしていれば、やっと男がグラスに口を付けたのでそれを見届け、竜胆はカクテルのレシピを再確認した。
『 エンジェルキッス ”貴方に見惚れて” 』
そこにはたしかに竜胆の字でそう書かれていた。男は目を細めて竜胆の方を見ている。大きく砕かれた氷が、てらてら光に照らされたままグラスにからんとあたる。段々と竜胆の顔は赤く染まった。それはもう隣の先輩が目を疑う程に。いつも表情のあまり変わらない竜胆が初対面の男に対して動揺したのだ。目を疑わない方が可笑しい。
「気付いた?」
「あえ、……違う、そんな訳ない」
「可愛い、気付いたんだろ」
男はカウンター越しに竜胆の頬に手を添えた。メモ帳を持ったまま竜胆は動きを止めている。
「竜胆、また来るね」
ちゅ、と小さなリップ音が鳴る。先輩は小さく息を吸った。そのまま男は万札を数枚出し店を後にした。竜胆はまだ動こうとしない。先輩が心配し声を掛けようとするとその場にしゃがみ込んだ。見ると額を押さえている。先輩は小さく舌打ちをした。それは誰にも届く事なく消える。白く染められた髪を小さく纏め先輩が竜胆の頭を撫でた。竜胆は顔を赤く染めたまま暫くそこを動けなかった。
「お前………なんかあった?」
いつもの様に竜胆がカクテルを作っていると桃色の髪の男から声が掛かる。竜胆の肩がぴくりと跳ねた。
「別に?」
「嘘だろ見栄張んな、バレバレなんだよ」
「嘘じゃねえし」
久し振りに男と会って嬉しい気持ちの反面、以前の短髪の髪の男が脳裏を過ぎってしまう。竜胆はまた名前も知らない男に惚れてしまったのかもしれない自分に酷く嫌気が差した。コト、とカウンターにグラスを置く。珍しく店内は竜胆と男だけだった。
「竜胆」
「何?」
ボトルを棚に直していると男から声が掛かる。
「そっち行ってもいいか?」
危うく竜胆はボトルを落としかけた。何故?という疑問と距離を近付ける事が出来る嬉しさが入り混じって複雑な気持ちになっているが平然を装い口を開く。
「あんたがここに入って来ちゃいけないことくらい分かってんだろ?俺がそっち行く」
嬉しいが、腐っても竜胆はここのカクテルバーのバーテンダーだ。カウンターより奥に客を入れてはならないと分かっている。たとえ客の事が好きでも、客が自分の事を好きでも。竜胆はボトルを棚に直し裏へと回った。歩いて行くのを見て男はゆらゆらと飲みかけのカクテルが入っているグラスを揺らす。
「何?急に」
竜胆がカウンター側へと出ると男は立ち上がった。初めて同じ高さの地面に並べば、彼の身長の高さがよく分かる。
「…お前の身長知りたかっただけ」
「は?」
本当にそれだけだったのか、男はまた椅子に座りもう興味が無さそうにカクテルを一口飲んだ。だが溜息を付いて向こうに歩いて行く竜胆を見た頬は少し染まっていた。
「いらっしゃい…ませ」
カランと音が鳴りドアが開く。客が入って来た。初めて見る顔だったので慌てて敬語に訂正しては、ここへどうぞと男の隣を手でさす。
「オススメとかありますか」
…
竜胆は他の客がグラスに口を付けたのを見てから男に視線を移す。男もまた竜胆の方を見ていた様で、二人の目が合った。竜胆が口を開こうとすると、男が先に口を開いた。
「知りたい?俺の、なまえ。」
口端にある傷を持ち上げ男が不敵に微笑む。竜胆は変に照れてしまって何も言えなかった。それと同時に男の名前を知りたくてしょうがなくなってしまう。
「教えてくれんの?」
「そうだなあ…他の奴いるから無理」
わざとなのか、聞こえる様に言っては自身の髪をくるくると弄ぶ。男の言ったそれは他の客に「早く帰れ」と言っているようなもので、竜胆は驚いて動きを止めた。隣に座っていた女は、ちらと目だけで男と竜胆を交互に見遣る。そうしてグラスを空にし、会計をしてそそくさと店を後にしてしまった。
「…次、何飲む?」
名前の件も、客を追い出すような発言をした事も追って聞かず、いつものようにまた声を掛けると、男は安心した様な表情を浮かべ「おまかせで」、と言った。
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続きは♡500。
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