コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「一華さん」
自分のデスクでボーッとしてしまった私に、可憐ちゃんが声をかけた。
「ごめん、どうした?」
「今日の一華さん、変ですよ」
うん。自分でもわかっている。
今日は朝から調子が悪い。
その理由だってわかっているけれど・・・
「おい鈴木。これ、なんだ?」
部長の呆れたような声。
へ?
重たい腰を上げて私は部長の下に駆け寄った。
「お前、大丈夫か?」
え、えーっと。
「この書類、宛先も数字もめちゃくちゃだぞ」
「あ、すみません」
一見して間違いのわかる書類。
こんなもの上司に提出するなんて。
「鈴木、疲れているんなら今日は帰れ」
普段なら怒鳴り散らされるところだろう。でも、部長の声は優しい。
「すみません。大丈夫です」
「そうは見えないぞ」
「すみません」
他に言葉が見当たらない。
確かに私は疲れている。
疲れていると言うより弱っているのかもしれない。
いろんなことがいっぺんに起こりすぎて、どうしていいのかわからない。
「とにかくこの書類は作り直しだ。急がないから明日の朝出してくれ。いいな」
「はい」
書類を受け取り、私は自分のデスクに戻ろうとした。
「鈴木、ちょっと来てくれ」
今度は別の方向から声がかかる。
それも、今1番顔を合わせたくない人。
無視してみようかとも思ったけれど、ここは職場で、彼は上司で、私に拒否権は無い。
「いいから来い」
わざわざ私のそばまで来て手にしていた書類を奪うと、強めの口調で言う。
こうなったらついて行くしかない。
***
「それにしてもひどいな」
連れてこられた会議室で、あきれたように書類を見ている。
確かに、何を考えたらこんなものを上司に出せたのか。
「すみません」
本当に新入社員でもこんな事はしない。
「で、何があった?」
少しだけ優しい口調になった鷹文。
「・・・」
私はただうつむいた。
「黙っていたんじゃわからない。何があったのか話してくれ」
「・・・」
それでも私の口はなかなか開かなかった。
「一華、お前らしくないぞ」
うん、わかってる。
でも、私らしいってなんだろう。
「今日はもういい、このまま帰れ」
持っていた紙をグシャッと丸めて鷹文は立ち上がろうとした。
「私、帰りません」
こんな時に自分だけ休んでなんていられない。
「上司命令だ、今日はもう帰れ」
「絶対にイヤです」
フー。
ため息を1つつくと、鷹文が私を睨んだ。
「じゃぁ話せ。何があった?」
「・・・」
それでも、私は黙ったまま。
その時、
ブブブ。
鷹文の携帯が震えた。
「はい、髙田です。はい、はい。わかりました。向かいます」
どうやら仕事の電話のようだ。
「一華、話してくれ」
「・・・」
「5分後には会議が始まる。お前は俺を、色恋沙汰を理由に仕事に穴を開ける男にしたいのか?」
「そんなことない」
私は仕事をしているときの鷹文が好きだから。
でも、今はまだ考えがまとまらない。
「もう少し気持ちを整理して、ちゃんと話します。だから、時間を下さい」
「わかった。実は俺も話があるんだ。今夜うちに来てくれ。遅くなっても必ず帰るから、待っていて欲しい」
「はい。何か夕食を用意しておくわね」
「ああ、楽しみにしてる」
ブブブ。
また携帯が震え、
チッ。
鷹文は舌打ちをして会議室を出て行った。
***
その日の夕方。
買い物をし、鷹文のマンションで待つことにした。
それにしても、高そうなマンション。
お父さんの名義だって言っていたけれど・・・相当なお金持ちって事よね。
ガチャッ。
帰りがけに預かった鍵で、留守のマンションへお邪魔する。
さて、まずは夕食作りかな?
今日のメニューは、とんかつと肉じゃがと、中華サラダ。数少ないレパートリーからメニューを選んだ。気に入ってくれるといいけれど。
ブブブ。
着信だ。
あ、白川さん。
この間2人で会ってから、頻繁に連絡が来るようになっていた。
『もしもし。一華ちゃん、元気?まだ忙しいだろうけれど、無理したらダメだよ』
「はい、わかっています」
でもね、今無理しないでいつするのよって思う。
『先日の件、悠里に確認した。申し訳なかったね。でも、悠里は鷹文が心配なんだ。何しろ廃人のようになったあいつを見たんだから。もう2度と、傷ついて欲しくないと思っても不思議ではないだろ』
私は別に、悠里さんに文句を言いたかったわけでも、白川さんに謝って欲しいわけでもない。
「私、そんなつもりで話たんじゃありません」
『うん、わかってる。でも、悠里が君の気持ちを傷つけたのは事実だ』
「違います。私が何も知らなすぎただけです」
むしろ、私が悠里さんを傷つけている気さえするのに。
今回の件を愚痴れる人は白川さんしかいなかった。だから話しただけで・・・
『一華ちゃん、悪いことは言わないから、鷹文に洗いざらい話してみな。きっと先が見えてくると思うよ』
「でも、そんなことすれば、余計に鷹文を苦しめてしまうかも」
『大丈夫、あいつはそんなに弱くないよ』
「そう、ですね」
でもな、
『いざとなれば、一華ちゃんには俺がいるんだから。安心して話してみなさい』
「白川さんったら」
どこまで本気かはわからないけれど、少しだけ気が楽になった。
どんな結果になったとしても、きちんと話そう。
きっと私の知らない事実がまだあるはずだから。
***
「ただいま」
「お帰りなさい」
8時を回って、鷹文は帰宅した。
「いい匂いだな」
台所を覗き、私のことを後ろから抱きしめる。
「もう、危ないよ。とんかつ揚げるから、着替えてきたら」
「ああ」
着替えに行く鷹文を見ながら、この幸せがずっと続けばいいのにと思った。
毎日こうやって、鷹文の帰りを待って、家事をして、子供を育てる生活。
幸せだろうなあ。その為になら、今の仕事を失っても平気な気がする。
ポチャン。ジュッ。
手が滑り、油がはねた。
「熱っ」
はねた油は私に向かってきた。
慌てた私は、持っていた菜箸を投げてしまい、
ジュジュッ。
「熱っーい」
さらに油が掛かった。
ドタドタ。駆けてくる足音。
「どうした?大丈夫か?」
とっさに火を止め、私の腕をつかむ鷹文。
「うん。ちょっと油がかかっただけ」
またドジをした。
「ちょっとじゃないだろう。バカだなあ。何してるんだ」
呆れたように水道まで連れて行かれ、流水を腕に当てられた。
「ごめん」
「しっかりしろ。考え事しながら揚げ物なんて、するんじゃない」
怒られて、
「だから、ごめんなさい」
ふてくされ気味に言ってしまった。
「なんだよその態度」
「別に」
「お前・・・」
それっきり鷹文は黙まった。
しばらく腕を冷やした後、私の腕を引きリビングのソファーへ座らせた。
***
「それで?」
前置きもなく、尋ねられた。
それでって言われても。
「言いたいことがあるんだろ?言えよ」
「それは・・・」
何この流れ、私が文句を言いに来たみたいになっているじゃない。
「鷹文こそ、私に話すことがあるんじゃないの?」
どうしてだろう、かわいげのない言葉に限ってスラスラと口から出てきてしまう。
「まずはお前の話を聞く」
それってズルイ。
「私達って、これからもうまくいくのかなあ」
「はあ?」
「だってほら、問題山積だし。鷹文にはもっとふさわしい人がいるんじゃないかなあって」
「お前何言ってるの?俺と別れたいの?」
「イヤ別に・・・」
そういう訳では。
「問題が山積みだから?周りに反対されているから?そんなんで気持ちがぐらつくなら、最初から付き合うなんて言うな」
「た、鷹文」
「俺はすべてを失っても一華と一緒にいたいと思った。その覚悟をして交際を申し込んだつもりだ」
お前は違ったのかと、鷹文の目が聞いている。
もちろん私だって、あなたが誰よりも大事。
でもね、だからこそ、あなたが不幸になるのは見たくない。
「私なんかより、悠里さんの方がずっと美人だし、大人だし、鷹文のことだってよく知っている。私は鷹文の足を引っ張ることしかできないけれど、悠里さんなら」
「ちょっと待て。何で今、悠里の話が出てくるんだよ」
「だって」
「だってなんだよ」
「それは・・・」
「いい加減にしろ。一華らしくないぞ」
呆れた声。
その瞬間、プチン。私の中で何かが切れてしまった。
「私らしいって何よ。子供みたいに拗ねて、わがまま言ってるって事?そうね、そうかもしれないわね。悠里さんと違って、子供じみているからね」
悔しいけれど、涙が溢れた。
「一華っ」
叱りつけるように名前を呼ばれ顔を上げると、困った顔をした鷹文がいた。
「悠里に会ったのか?」
コクンと頷いた。
「何を言われた?」
「・・・・.」
黙ってしまった私。
しばらく私を見ていた鷹文は、
「お前が言わないんなら、悠里に直接聞くぞ?」
ポケットから携帯をとりだした。
「待って」
それじゃあ私が言いつけたみたいだし。
はあぁー。
しかたがないと、私は鷹文にすべてを話すことにした。
***
「フーン。で、お前は悠里が今回の黒幕で俺達が復縁するんじゃないかと思ったわけだ」
「うん、そう」
「ったく、バカだなあ」
またバカって言われた。
今日何度目だろう?
「でもね、今回の件は誰かが裏で糸を引いているとしか思えないし、悠里さんはライバル会社のお嬢さんだし、『鷹文を自由にしてください』何て言われてしまったし」
誰が考えてもその結論にたどり着くと思うけれど。
はあー。
鷹文は溜息をつくと、冷蔵庫からビールをとってきた。
あれ?飲むんだ。
「まず、お前は何で俺の事を信じられないんだ?」
「え?」
「そもそも、お前と悠里の間で俺をやりとりするみたいな会話が行われていることに腹が立つ」
まあ、そうだろうね。
「それに、もしそんな話があったんならまず俺に言え。1人で悩んだってどうしようもないだろう」
「だから白川さんに」
相談したんだよ。と言いかけて、
「バカッ。何でここに潤が出てくるんだっ」
余計に怒らせてしまった。
「いいか、冷静に考えろ。同じ規模のライバル会社が、これだけ多くの企業を巻き込んで嫌がらせができると思うか?」
「どういう意味?」
私は単純に、うちの会社の取引先が手を引けば本郷商事の利益が増えるから怪しいと思ったんだけれど。
「ネットの書き込みや談合の内部告発なんて誰でもできる。でも、企業に取引中止を申し入れさせるのは簡単じゃない。その企業より強い力を持った存在でないとできない」
そりゃあそうだね。
企業にだってメリットがなければ、成り立たないんだから。
でも、じゃあ誰が?
「なあ一華」
すごく真面目な顔で、鷹文が私を見ている。
「ど、どうしたの?」
グビグビ。
ビールを流し込み、鷹文は決心したように話し出した。
***
「俺の本名は髙田じゃないんだ」
「へ?」
「髙田は母方の旧姓で、本当は浅井鷹文というんだ」
「浅井、鷹文?何で、どうしてそんなことを?」
「浅井の名前を隠しておきたかった」
そこまでして隠しておきたい名前って・・・
「ちょっと待って、鷹文の家って、もしかして、」
「そう、浅井コンツェルンだ」
うわ、それって・・・日本を代表する財閥。
うちなんかとじゃあ桁が違うじゃない。
「一華、大丈夫か?」
ブルブルと震えだした私の手を鷹文が包み込む。
「うん、平気だから。とにかく、全部話して」
小出しにされた方が心臓に悪い。
「父は浅井コンツェルンのトップ。俺はそこの一人息子として生まれた。大学を出たら浅井に入り、親父の後を継ぐんだと育てられたんだ。でも、二十歳の時、俺は・・・」
「そのことはいいよ」
辛すぎて聞いていられないから。
「完全に壊れてしまった俺を見て、両親も生きてさえいてくれたらいいと1度は諦めてくれた。直系は俺しかいないけれど、分家は多いし優秀な社員だってたくさんいるからな。でも、俺がこうやって元気になったのを知って欲が出たんだろう。やっぱり俺に継がせたいと言い出した」
「じゃあ、今回の件は」
「浅井からの圧力だ」
だから悠里さんは、『1度鷹文を元の場所に戻していただけませんか?』と言ったのか。
今さら、色んな事が納得できた。
***
「これからどうするの?」
ご両親からすれば、元気になった息子に戻ってきて欲しいと思うのは当然のことに思える。
ちょっと手法が乱暴だけれどね。
「できることなら、このままでいたかったんだが・・・無理だろうな」
寂しそうな顔。
どれだけ抵抗しても、鷹文はうちを辞めることになるだろう。
それだけ浅井の力は大きい。
「俺がもっとボンクラだったら、親父も変な欲を起こさなかったんだろうけれどな。俺って優秀だから」
クスッと笑った。
「勝手に自惚れてなさい」
確かに、鷹文は優秀な男よ。
私が愛した男なんだから。
「ごめんな、一華」
ギュッと抱きしめられて、唇を塞がれた。
鷹文の暖かさが流れ込んできて、頭がもうろうとする。
「オイ、息をしろ」
ああ、忘れてた。
「疲れているなら帰ってもいいぞ。お兄さんかタクシーを呼ぼうか?」
「イヤ、帰りたくない」
私は鷹文の首に手を回した。
「仕方ないなあ」
鷹文は私を横抱きにすると、寝室へと運んでいった。
「ねえ、シャワー浴びてないけれど」
「今は無理、シャワーも食事も後でいいだろう?」
「うん、そうね」
私に異論はありません。
こんな余裕のない鷹文を見たら、止められない。
***
朝。
窓から差し込む朝日で、目が覚めた。
「う、ううーん」
布団の中で伸びをすると、かすかに残る倦怠感。
そうか、鷹文と寝たんだ。
「一華、おはよう」
絶妙なタイミングでドアが開き、スエット姿の鷹文が顔を出した。
「おはよう」
「とんかつ揚げたけれど、食べるか?」
「今?」
さすがに寝起きだし・・・。
「じゃあ、中華サラダと肉じゃがで朝飯にしよう。とんかつはサンドイッチにしてお昼に持って行こうか?」
「いいわねえ」
おそろいのお弁当なんて素敵。
その後、交代にシャワーを浴び、置いていた服に着替えて、朝食をとった。
「美味しい」
普段はコーヒーしか飲まないのに、今日の朝ご飯は美味しい。
「そう言えば、結局昨日は食べ損ねたからな」
「う、うん」
顔が赤くなってしまった。
「今日、専務と部長に話すよ」
えっ、そんなに急に?
「お兄ちゃん怒るよね?」
昨日は黙って泊ったし。
「外泊のことはお母さんに電話してあるから」
へー、さすが鷹文。
***
「実は、親父からは少し前から連絡が来ていたんだが、今さら浅井に戻る気にはならなくて無視していた。でも、専務を見ていて気持ちが変った」
「お兄ちゃん?」
「そう。代々企業を継ぐ家に生まれて、勝手に将来を決められて不満だってあると思うんだ。実際俺も親父に反抗していたし。でも、お兄さんは運命を受け入れて責任を果たそうとしている。立派だと思ったよ。お前のことだって、誰よりも心配しているしな」
「そうかなあ」
ただ単に、過保護な兄としか思えないけれど。
「お前だって一緒だろ?」
「え?」
「社長の娘としてすべてが決められていくのがイヤで、反抗していたんだろ?.」
まあ、そう言えばそうかもね。
「でも、うちと浅井コンツェルンではスケールが違いすぎるわ」
「一緒だよ。要は背負っていく覚悟。気持ちの問題なんだ」
そんなものかなあ。
確かに、お兄ちゃんは私以上に厳しく育てられていた。
本当は絵を描くのが好きで、美大に行きたいって父さんに言ったのに反対されて結局諦めていたっけ。
「一華、俺は家に戻る。そうすればうちの会社への嫌がらせはなくなると思う」
「うん」
とっても寂しいけれど、仕方ないのかな。
「それにしても、酷い話よね。鷹文を連れ戻すためにここまでするなんて」
つい、本音が出てしまった。
「そうだな。でも、親父もそれだけ必死だって事だ。経営者としていつも損得しか考えていなかった親父が、ここまでの犠牲を払って俺を連れ戻そうと思ったんだ」
それだけ、鷹文を側に置きたいんだね。
「今日は一緒に会社へ行こう。もうじき会えなくなるんだ。一緒にいられる時間を大切にしよう」
「はい」
好きな男にこれだけの覚悟を見せられれば、私だって腹をくくるしかない。
この先はわからないけれど、ただ鷹文を信じてみようと思う。
***
翌朝出勤しても、会社に変化はなかった。
事態は悪化もしなければ好転もしていない状況で、みんなの表情も暗いまま。
「おはようございます」
私は精一杯明るく声を掛けた。
「ああ、おはよう」
みんな返事をしてくれるけれど、やっぱり元気がない。
「おはようございます」
駐車場で別れた鷹文も、遅れて入ってきた。
「部長、ちょっといいですか?」
真っ直ぐ部長のデスクに行くと、小さな声で話し始めた。
しばらくして、部長と鷹文は会議室へと向かった。
「あれ、髙田課長は?」
「部長の決裁が急ぐんだけど」
突然姿を消した2人を、みんなが探している。
「なかなか帰ってきませんね」
「そうね」
事情を知らないはずの小熊くんも心配そう。
「一華さん、何か知ってますか?」
可憐ちゃんにも聞かれるけれど、
「いいえ」
知っていても今は答えられない。
しばらくして、鷹文が戻ってきた。
デスクを片付け急ぎの指示を出すと、どこかに電話をしてからまた席を立った。
チラッと私を見て何か言いたそうにしたものの、声を掛けてはくれなかった。
「どうしたんでしょう。随分厳しい顔でしたね」
「・・・そうね」
鷹文にとっても苦渋の決断だから。
「鈴木」
遅れて戻ってきた部長が私を呼んだ。
「何でしょう」
立ち上がって返事をすると、
「ちょっと来てくれ」
と会議室を指さす。
「はい」
何か言いたそうな小熊くんを残して、私は会議室へと向かった。
***
「お前、髙田と付き合っているのか?」
会議室に入ってまず聞かれたのがそれだった。
「ええ、まあ」
今さら隠してもしょうがない。
「いつから?」
「最近です」
嘘ではない。
6年間もずっと同僚でしかなかった。
「お前達いつも一緒にいたくせに、やっとくっついたかあ。遅すぎるくらいだな」
「そうですか?」
部長がそんな風に見ていたことがびっくりなんですけれど。
「2人とも、人を避けていた感じがあったからなあ」
「人を避けるって・・・私達の仕事は営業ですよ」
人の懐に入って行ってなんぼでしょうよ。
「お前も髙田も絶対に人を入れない部分みたいなものがあるじゃないか、面倒くさい奴らだなって思っていたぞ」
「そうですか?」
そんな風に見られてたんだ。
でもそれって、2人とも秘密を持っていたからかもしれない。
「で、髙田と付き合っている鈴木に聞きたいんだが、」
「はい?」
「あいつはなぜ、このタイミングで会社を辞めるんだ?」
「えっと・・・」
困った。
私に聞かれても困るのに。
「彼は何て言ったんですか?」
それを聞かないと答えられない。
ジーッと私を見た部長。私も見つめ返した。
百戦錬磨の部長に駆け引きしたって勝てるわけはない。わかってはいるけれど、今は鷹文の正念場。ここでひくわけにはいかない。
「ッたく、食えねえ奴だなあ」
苦々しそうに言うと、ポケットからたばこを出した。
「部長、ここは禁煙です」
思わず叫んだ私。
「わかってる。わかっているが・・・クソッ」
辛そうな表情。
***
「すみません、部長」
きっと今、部長は裏切られた気がしているはず。
鷹文のことを本当にかわいがっていたから。
「馬鹿野郎。お前が謝るな」
「でも」
辛い気持ちは私にだってわかる。
「あいつは、髙田は、実家の家業を手伝うために会社を辞めると言っていた。本当か?」
「ええ」
間違いではない。
家業って物に対するイメージがかなり違うと思うけれど、嘘は言っていない。
「お前はそれでいいのか?」
望んだ結果ではないけれど、他に選択肢がない以上、
「しかたがありませんよ。言って聞く人じゃありませんし、悩んで出した結論でしょうから」
私はただ受け入れるしかない。
「で、お前はどうするんだ?」
「はあ?」
「だからその・・・結婚とか、」
「イヤイヤそんな、今はそれどころではありませんし」
そんなこと考えてもいなかった。
「そうか、良かった」
「部長?」
思わず声に出た。
良かったって、どういう意味よ。
「お前まで辞めるって言われたら、さすがに堪える」
珍しい、鬼部長の弱音。
その声がどれだけショックを受けているかを覗わせて、居たたまれなかった。
「部長、彼も悩んで出した結論なんです。できることならずっと、この会社にいたいと思っていたはずですから。わかってあげてください」
すべてを明らかにすることはできないけれど、鷹文の気持ちは伝えたいと部長に力説した。
「これからは髙田の分まで働いてくれよ」
「ええ、もちろんです」
私は鷹文のライバルですから。
その日一日、鷹文がデスクに戻ってくることはなかった。
何度か電話で仕事の指示は出していたみたいだけれど、姿は見せなかった。
***
夜。
私達は鷹文のマンションで一緒に過ごした。
ソファーに座り、ひどく疲れた顔の鷹文をそっと抱きしめる。
「部長、何か言ってたか?」
「何で辞めるのかって聞かれた。これからはあなたの分まで働いてくれって言われたわ」
「そうか」
部長も鷹文も辛いのは同じ。
背中に回した腕に、少しだけ力を入れた。
「ごめんな、一華」
「私は大丈夫」
この温もりを忘れないでおこう。私が愛した人だから。
***
鷹文に送られ、10時には家に帰った。
送ってくれた鷹文は家に顔を出すことなく帰ってしまった。
「ただいま」
「おかえり」
珍しく、お兄ちゃんも家にいた。
「あいつは?」
「帰ったわ」
いつもなら玄関まで送って挨拶して帰るのに、今日は車から降りなかった。
「あいつ、今日俺の所に来たぞ」
「へー」
なんとなく想像できた。鷹文なら、兄さんか父さんに会いに行くだろうなって。
「お前、知っていたのか」
「え?」
何をと聞こうとして、言葉に詰まった。
「浅井の御曹司だったこと」
やっぱり兄さんには話したんだ。
「どえらい秘密を隠していたもんだな」
「そうね」
本当に。
せめて相手がうちくらいの会社なら、他の選択肢だってあったものを。
相手が大きすぎて、現実味がない。
「どうするつもりだ?」
「どうもこうも。私に何ができるって言うの?」
「それでいいのか?」
「もー、お兄ちゃん、何が言いたいのよ」
あんなに鷹文との交際に反対していたくせに。
「あいつ、会社を辞めるんだぞ。浅井に戻ればもう会えなくなるかもしれない」
「わかってるわよ」
だからってどうしろって言うのよ。
「このままでいいのか?」
「だ・か・ら・お兄ちゃんは何が言いたいの?まさか鷹文を追いかけて行けって言うつもりじゃないよね」
今まで散々反対しておいて、鷹文の素性がわかった途端このままでいいのかなんて、おかしい。
「まあ、悔いが残らないようにするんだな」
「うん。わかってる」
たとえこのまま会えなくなっても、鷹文を好きになったことに後悔はない。
***
ピコン。
鷹文からのメール。
『明日の土曜日は実家に帰る。親父と話して、鈴森商事への嫌がらせを必ず辞めさせるから』
『うん。無理しないでね』
『ああ。お前も早く寝ろ。週末は実家に泊ることになると思うから、会えるのは週明けだな』
『そうだね』
『月曜には俺の退社が発表になるはずだ。騒々しくなるから覚悟をしておいてくれ』
『はい』
そうか、もうすぐ鷹文はいなくなるのね。
やっと好きだと気づいたのに・・・クスン。
「バカ、泣くな」
おでこをコツンと小突かれた。
「だって・・・」
お兄ちゃんの前だというのに涙が止らなくて、その場にしゃがみ込んだ。
「なあ一華、素直になれって言っても意固地なお前には無理かもしれないが、本当に欲しいときにはわがままになれ。そうしないとお前が後悔するぞ」
「うん」
わかってる。
でも、これから先浅井に戻った鷹文を支えてあげられるのは私ではないと思う。
一緒にいても返って足を引っ張るだけ。
それに、鷹文のお父様がうちの会社にしたことは、やっぱり許せない。
事情を知った父さんが私と鷹文のことを許すとも思えない。
もう、先は見えているのよ。