コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
都内の一等地。
だだっ広い敷地に、緑の森や大きな池。外界の音など全く聞こえない、まさに別世界だ。
ここは、もう2度と来ないと思っていた場所。でも、俺は戻ってきてしまった。
「お帰りなさいませ、坊ちゃん」
「ああ、爺。ただいま」
車を降りるとすぐ、俺の教育係りでもあった爺が涙ぐんで迎えてくれた。
「心配掛けたな」
小さい頃から両親よりも側にいてくれた爺。
8年も会わないうちに、老けてしまった。
「旦那様と奥様がお待ちです」
「うん」
曾じいさんの時代に建てたという洋館の玄関を入り、俺は大きく息をついた。
フー。
あんなにイヤだったはずなのに、なんだか懐かしいな。
やっぱりここは俺の育った家。良くも悪くも俺を作り上げた場所だ。
「坊ちゃんのお部屋はそのままにしてありますよ」
ニコニコと笑いながら、声を掛ける女性。
「雪」
思わず声が大きくなった。
「ふふ、覚えていてくださったんですね」
「当たり前じゃないか」
忘れるはずがない。
雪は俺の乳母の娘。小さい頃から一緒に育ってきた、乳姉弟。
2つ年上の雪はいつも俺と遊んでくれた。
「懐かしいな。ばあやは元気か?」
ばあやとは俺の乳母。雪の母親だ。
「母は3年前に亡くなりました」
「そうだったのか。すまない、知らなかった」
あんなにかわいがってもらったのに、申し訳ない。
「いいんです。坊ちゃんも大変だったんですから。母はずっと坊ちゃんのことを心配していました」
「そうか」
できることならもう一度、ばあやに会いたかった。
「坊ちゃん」
爺が先を促す。
「ああ」
わかっている。
ここで立ち止まってはいられない。
***
「お帰りなさい鷹文さん」
「帰りました、お母さん」
駆けよるわけでも、抱きつくわけでもなく、どことなくよそよそしいのが俺の母親。
根っからのお嬢様だ。
「元気そうですね」
「はい」
最後に会ったとき、俺はボロボロだったから。
「心配したんですよ」
そっと手を重ねられ、目から涙が流れるのが見えた。
「すみません」
母さんだって母親なんだ。
一人息子がおかしくなって、心配しないわけがないんだよな。
「帰ってきてくれて、よかった」
ハンカチで目元を押さえ肩をふるわせる。
「心配を掛けてすみませんでした」
俺の方から近寄り、そっと抱きしめた。
「鷹文さん」
困ったように俺を見る母さん。
子供の頃、母さんは俺が嫌いなんだと思っていた。でも、違ったんだな。
「大きくなったのね」
随分と場違いなことを言われ、照れてしまった。
「お母さんは、小さくなりましたね」
「もう、鷹文さん」
ククク。
母親に言う台詞じゃないが、かわいいな。
俺の両親は結婚が早くて二人ともまだ40代。
小柄な母さんは俺と姉弟でも通るだろう。
「坊ちゃん」
また爺の声がした。
どうやら親父の所へ行けと言いたいらしい。
「お母さん。父さんは?」
「書斎ですよ」
はあー。
仕方ない、行くか。
***
トントン。
「鷹文です」
「入りなさい」
重厚なドアを開け、壁一面を本に囲まれた書斎に足を入れた。
机から頭を起こし、俺を見る親父。
確か、46、いや7だったかなあ。
とても30前の息子がいるようには見えない。
「帰ったのか」
相変わらず難しそうな顔。
「俺が帰らなければ、鈴森商事はつぶれてしまいますから」
嫌みを込めて言ってみた。
「そこまでするつもりはない」
どうだか。
すでにかなりの損を出しているはずだ。
「これで、鈴森商事から手を引いてくれますね」
そのために帰ってきたんだと、主張した。
「ああ」
「約束ですよ」
たとえ口約束でも反故にすることは許さないと、念を押した。
「随分と本気だな」
不思議そうに俺を見る親父。
「俺が6年も働いた会社です。愛着だってあるし、守りたいと思っても不思議ではないでしょう」
少なくとも、今回の騒動の黒幕が親父だったことに俺は怒っている。
「自分の息子を6年も面倒見てくれた会社に、感謝もせずによくもまああんな酷いことができましたね」
言っているうちに、語気が強くなってしまった。
***
「お前、変ったな」
「はあ?」
「お前はいつも俺のことを怖がっていたじゃないか。オドオドして言いたいことも言えずに、困ると黙ってしまって。そのうち逃げていく。いつもそうだっただろう?」
フン。
「一体いつの話をしているんですか?いつまでも子供ではありませんよ」
親父の中では俺はいつもでも10代の反抗期らしい。
「まあいい。すぐにでも戻ってこい。それなりのポストを用意するから春までは本社で過ごして、春になったら系列会社を回ってこい。3,4年実績を積んで本社に呼び戻す」
「はあ」
絵に描いたようなコースだな。
「不満か?」
きっと俺が文句を言うと思ったんだろう、親父は俺の顔を見ていた。
「いいえ」
戻ってくるからには覚悟はできている。
それに、大きな舞台で自分の力を試したい気持ちもある。
トントン。
「失礼します」
入ってきたのはスーツ姿の男性。
「お久しぶりです、鷹文さん」
「守口さん」
「お元気そうですね?」
「ええ」
遠慮なく部屋に入ってきたのは、守口一郎さん。
確か、40歳くらいだと思う。
俺が子供の頃から父さんの側にいた、父さんの腹心だ。
「守口をお前につける」
「いや、それは・・・」
正直、俺は守口さんが得意じゃない。
「よろしくお願いします。鷹文さん」
「・・・ええ」
これは監視か?嫌がらせか?
「旦那様、お時間です」
爺が呼びに来た。
「ああ」
どうやら仕事で出かけるらしい。
「遅くならないように帰るから、守口と打ち合わせをしておけ」
「はい」
完全に親父のペースなのがしゃくに障るな。
***
「本当に戻ってこられたんですね」
2階に上がったホールスペースで、守口さんは口を開いた。
「もう戻らないと思っていましたか?」
「ええ」
遠慮もなく言われ、ムッとした。
昔から、この人は俺に遠慮をしない。
親父の前では基本無視されるし、2人になればズケズケものを言う。
子供の頃から、苦手な人だ。
「何で俺につくことに同意したんですか?」
守口さんが反対すれば、親父も無理強いはしなかっただろう。
そのくらい彼のことを信頼している。
「何を勘違いしているんですか?僕の方から立候補したんですよ」
「えっ」
驚きすぎて言葉に詰まった。
「そんなに意外ですか?」
「ええ」
親父の第一秘書として大きな権力を手にしておきながら、今なぜ俺につくのか、メリットなんてないように思えるが。
「足を引っ張ってもらっては困るんです」
「はあ?」
それはどういう意味だと聞きたくて、声にならなかった。
きっと深い意味なんてないんだ。
そのまま、言葉の通り、『親父の足を引っ張らないでくれ』とボンクラ息子に言いたいんだろう。
「そんなに心配なら、俺を呼び戻すことに反対してくれれば良かったのに」
そうすれば、今のまま暮らしていられた。
「しかたがないじゃありませんか、浅井の後継者はあなたしかいないんですから」
「だからっ」
俺は浅井の跡取りになりたくはないんだ。
俺なんかじゃなくても、優秀な人材は山ほどいるだろう。
浅井の跡を継ぎたい縁戚だって大勢いる。
「営業職をしていらしたと聞いて、忍耐力がついたと思いましたが、」
まだまだですねと言いたそうだ。
「すみませんね。わざと怒らせようとする人の前なのでつい」
「このくらいで腹を立てられては、先が思いやられます。もう少し大人の対応をお願いします」
大人の対応ねえ、守口さんが子供扱いしているだけだと思うけれど。
***
「お部屋の方に資料を運んでありますので、目を通しておいてください」
「はい」
「かなりの量になります。すべては無理でも、できるだけ頭に入れておいてください」
「わかりました」
「・・・」
守口さんが俺の方を見ている。
「何か?」
「いえ、随分素直だなって思いまして」
よほど意外らしい。
フー。
俺は大きく息をついた。
「俺なんかよりよっぽど大人な守口さん。一体何が言いたいんですか?先ほどからのあなたの発言には含みがあるように感じます。そんなに気に入らないのなら、俺についてもらわなくても結構。俺の資質について疑念があるのならそのまま親父に忠告してやってください。あなたの言葉なら親父も無視できないでしょうから」
そうしてもらえれば、俺も助かる。
「何も含みなんてありませんよ。鷹文さんこそ、被害者意識が強いんじゃありませんか?世の中全員敵に見えていませんか?それでは人は離れていきますよ」
一番の敵は目の前にいるような気がするんだが。
「大人な上に、この俺の守り役を買ってでた守口さん。短気で、わがままで、浅井のことを何も知らない若造を、どうするつもりですか?」
それが一番聞きたいこと。
「立派な後継者に育てて差し上げます」
「えっ」
マジか。
「私の家は代々浅井本家に仕えてきたんです。父も、祖父も、先代先々代の側にお仕えしました。私はあなたにお仕えするようにと育てられました。浅井に入り、あなたが入社してくるのを」
そこまで言って、守口さんは黙った。
そうか、あの事故さえなければ・・・
「申し訳ありません。余計なことを」
珍しく、守口さんが謝った。
「いいんです。事実は消えませんから。それに、もう逃げないと決めています。どんな現実も受け入れるつもりでいます」
こう言い切れるまで、8年かかった。
「鷹文さん」
感慨深そうに見つめる守口さん。
彼は壊れてしまった俺を知っている。ボロボロのあの頃を。
「一生懸命勤めさせていただきます。よろしくお願いいたします」
守口さんが立ち上がり、深々と頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします」
.俺も立ち上がって、守口さんの手をとった。
***
8年ぶりに帰った部屋の机には、山のような書類が置かれていた。
うわー、鬼だな。
これもみんな守口さんの仕業。
一瞬俺を追い出そうとしているんじゃないかと思った。
「失礼します」
ノックもなく入ってきた鬼、じゃない守口さん。
「何度も言いますがこれを全て頭に入れる必要はありません。隆文さんはずっと浅井から離れていたんですから、みんな最初から完璧を求めてはいません」
意地悪く笑う鬼。
こいつはきっとわかっている。こんな言い方をすれば俺が必死になることを。
クソッ、覚えてやるさ。
完璧な跡取りとして振る舞ってやる。
「今日は泊られますか?」
「ええ」
「では、明日また伺います」
守口さんが言うように俺は浅井のことを何も知らない。
今の俺に頼れるのは、守口さんしかいないんだ。
「明日までに目を通しておきます」
「お願いします」
満足そうに出て行った。
その夜、俺はほとんど眠らなかった。
ひたすら資料をめくり頭に叩き込んだ。
感心なことに守口さんの資料は本当によく整理されていて、重要度に合わせていくつにも分けられていた。
***
「早いですね。ここまで目を通したんですか」
朝、顔を出した瞬間言われ
「ええ、まぁ」
照れてしまった。
「そこまで頭に入れれば充分です。後は私がその都度教えます」
そう言うと書類を片付けだす。
「もう少し見ますよ」
「いえ、奥様も鷹文さんを待っていらっしゃったんです。一緒にいてあげて下さい」
そうか、帰ってからあまり顔を見ていない。
「行ってあげて下さい。これからは私が側におります安心してください」
苦手だった守口さんを頼もしいと感じた
「ありがとうございます」
正直俺だって不安だった。
今更浅井の跡取りに戻る自身なんてない。でも、彼がいてくれれば心強い。
「それから」
守口さんが困ったように俺を見た
「敬語をやめていただいて、守口と呼んでください」
「あ、ああ、はい」
ほらまたと、ニタッと笑われた。
きっとすぐには無理だろう、でも慣れていかないといけないな。