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夕食後の片付けもひと段落し
礼拝堂裏にある執務室には
穏やかな静けさが戻っていた。
明かりが揺れる机の上には
今日の出来事を記した簡易な報告書と
シスター・エミリアの手による日誌。
その前に座るライエルの指が
一枚の紙の端を震わせたまま止まる。
「──門の外まで、ですか?」
静かに訊ねた声の奥には
動揺を抑えるための冷静さが滲んでいた。
「はい⋯⋯
正門の外、街の広場の角まで
出ていたそうです」
シスターは伏し目がちに答えながら
手元の日誌に視線を落とした。
「幸い、すぐに見つかりましたが⋯⋯
あと五分、いや三分遅れていれば
夜の人通りの中に
紛れていたかもしれません」
扉の外からは
まだ眠りきれない子供たちの囁き声が
時折響いてくる。
ライエルはそっと椅子の背に身を預け
深く息を吐いた。
広場へ出てしまったのは
入所したばかりの幼い子だった。
食事の後に中庭で遊んでいた際
転がったボールを追いかけて
門を抜けてしまったという。
そのことに気付いたのは
彼と遊んでいた年上の子の
報告があってから数分後。
幸い職員がすぐに捜索に出て発見したが──
「⋯⋯まだこの環境に
安心しきれていないのでしょうね」
ライエルの呟きに、シスターが小さく頷く。
「ええ。
それに、建物もまだ〝家〟とは呼べないほど
殺風景です。
〝誰かがずっと側にいる〟
という感覚を
持てていないのかもしれません」
窓の外では
尖塔の先に夜の帳が下りかけていた。
一日の終わりの静けさが
かえって深く胸に染みる。
ライエルはゆっくりと椅子から立ち上がると
窓辺に歩み寄り、外の風を感じる。
そして
迷子になった子が戻った時に見せたという
安堵と笑顔を思い出す。
──間に合ったことは、奇跡ではない。
だが、次はどうか。
「人員を⋯⋯増やすべきでしょうか」
ライエルは振り返りながら問う。
「最低限の体制で運営するつもりでしたが
想定以上に目が離せない状況です。
あるいは──
施設内の動線を、子供たちに合わせて
見直す必要もあるかもしれません」
「はい。
居室から中庭への通路に
柵を設けることは可能です。
ただ、それでは閉じ込める印象を
与えてしまうのでは、とも⋯⋯」
「難しいですね⋯⋯」
ライエルは、胸の前で指を組み
しばし思案に沈んだ。
彼の中で交錯するのは
〝保護〟と〝自由〟の線引きだった。
それは、彼がかつて知らなかった感覚。
自由を持たずに育った記憶の中では
選択肢という概念すら、存在しなかった。
だからこそ、今──
この場所で生きようとする子供たちに
同じ孤独を与えてはならない。
アラインと同じ孤独も──⋯
「⋯⋯明日から
夜の見回り体制を一名増やしましょう。
そして中庭への出入りは職員同伴を原則に」
「かしこまりました」
ライエルはもう一度だけ窓の外を見た。
そこにはただ、月と、静かな夜風と、灯の落ちた広場があった。
「⋯⋯この子たちが
〝戻ってこられた〟という事実を
奇跡ではなく当然のことにしたいのです」
祈りのような呟きに
シスターは深く頭を下げた。
その場の誰も気付かなかったが──
その夜の月は、不思議なほどに澄んでいた。
まるで、この家に戻ってきた小さな命を
静かに見守るかのように。
⸻
「⋯⋯人員の増員、ねぇ⋯⋯
簡単に言ってくれるけど」
それまで
静かに祈りを捧げるようだった
ライエルの目に、わずかに陰りが走った。
机に置かれた報告書に視線を落としたまま
指先が不意に止まる。
静かだった空気が、ほんの一瞬
ぴんと張り詰める。
その表情の変化を
目の前のシスターは見逃さなかった。
彼女──
シスター・エミリアは
ノーブル・ウィルの中でもごく少数
〝ライエル〟と〝アライン〟が
同一の肉体を共有するという事実を
知る者だった。
だからこそ、彼女は何も言わず
ただ静かに膝を折り、頭を垂れる。
「⋯⋯お疲れ様です、アライン様」
その一言に応じるように
ライエルの姿はわずかに変化を見せた。
肩の力が抜け、指先の動きが止まり
そして、次の瞬間には
眉の角度も、口元の微かな歪みも──
すべてが〝アライン〟のものになっていた。
「ボクが居ない間に
また騒がせてくれたんだね、可愛い子達が」
アラインの声は穏やかだったが
低く抑えられた皮肉が僅かに滲んでいた。
シスターはすぐに立ち上がると
手早く衣装棚へ向かい
神父服を脱がせ
畳まれた黒のシャツとベストを取り出して
アラインに差し出す。
「シュバルツへ向かわれますか?」
「あぁ⋯⋯
この身体でいるうちに
動いておきたいことがいくつかあるからね」
シャツのボタンを留めながら
アラインは窓の外へ一瞥を送った。
そこにはまだ
子供達の夜の賑わいが微かに残っていた。
あの小さな命たちのために
自らが動かねばならない──
そう理解していた。
「まずは内部の資格取得者を数名増やす。
あの辺りのスタッフなら
記憶を書き換えても負担は少ない⋯⋯」
ボタンを留め終えると
彼はベストを羽織りながら淡々と続けた。
「それでも足りないなら
外から新しく入れるしかない。
〝孤児院〟って看板を掲げてるだけで
物好きな連中は案外釣れるもんさ。
慈善活動がしたい?
可哀想な子供たちを助けたい?
──美談って、集客力があるからね」
口元に笑みを浮かべながらも
その瞳は冷めていた。
感情ではなく、論理と計算。
それがアラインという男の本質。
「イベントの主催も悪くない。
配布物に〝子供達の絵〟でも印刷しておけば
受けはいい。
あとは⋯⋯Schwarzの常連たちに
数名声をかけてみるよ。
動機が綺麗かどうかなんて
最初はどうでもいい。
必要なのは〝手〟と〝役割〟だけだ」
ネクタイを結び終えると
彼は手元の時計を確認し
やや口調を緩めた。
「──まぁ、それでも。
最終的に〝綺麗な理由〟を持てるなら
どんな始まりでも、構わないんだけどね」
その声には、ほんのわずか
ライエルの影が混じっていた。
それを感じ取ったシスターは
そっと頭を下げる。
「では、私の方でも
現場から信頼のおける者を数名
選出しておきます。
⋯⋯必ず、子供たちが
〝護られている〟と感じられるように」
「お願いするよ」
アラインは、微かに微笑むと
コートを肩に引っかけ、扉へと向かった。
その足取りは軽くも重くもない。
だが確実に
あの小さな命たちの未来に向かっていた。
扉が閉まり、夜風が少し吹き込む。
蝋燭の炎がわずかに揺れたその瞬間──
それは
ただの〝対策〟ではなく
〝構築〟のはじまりだった。
孤児院という小さな器に
〝組織〟という骨が加わる。
それが意味するものを
アラインは誰よりも理解していた。