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「……おはようございます」
経理部のフロアに入った瞬間、周囲の先輩たちが驚いたように一斉に僕を振り返った。
いつもギリギリに出社することなんてないから、今日も休みだと思われていたらしい。
「さすがの僕でも、出勤日を間違えたりはしないですよ……」
小さく苦笑いを浮かべて席に着き、パソコンの電源を入れる。
けれど画面の数字を見つめていても、頭の中はしゅんの事でいっぱいだった。
仕事で大きなミスをしていないだろうか。
体調を崩して倒れたりしていないだろうか。
心配で胸の奥がキリキリと痛む。
ブーッ、ブーッ……。
デスクの脇で、スマホが静かに振動した。
メッセージの送り主は、はやちゃんだった。
《大丈夫か。何かあったら絶対に連絡しろ。俺との約束忘れんなよ?》
画面に並ぶ文字を見つめながら、僕は小さく唇を噛んだ。
もうしゅんとふたりきりでは会わないという、はやちゃんとの約束。
心配をかけたくなかった。
甘えたくなかった。
でも僕のことを心から心配してくれているはやちゃんを裏切っている自分が、とんでもない恩知らずに思えてならなかった。
それに朝の会議室でのしゅんのボロボロに怯えた様子を思えば、彼がもう一度僕を傷つけるなんてことはないと思えた。
……ここで嘘をついて有耶無耶にするより、正直に言ったほうがはやちゃんも安心するだろう。
僕は今日の仕事終わりの約束のことも、ちゃんと伝えることにした。
僕は大きく息を吐き出し、スマホのキーボードを叩いた。
《ありがとう! さっき会社でしゅんに会ったよ。昨日のこと凄く謝ってくれたし、俺も無神経だったこと謝れた。だからもう大丈夫そう!》
文字を送信すると、すぐに既読がついた。
《そうか。もう会ったんだな……油断はすんなよ? 連絡まってるから》
《帰りにしゅんともう一回、ちゃんと話すことになった。だから今日、お迎えは大丈夫だよ!ありがとね》
はやちゃんならきっと、僕を信じて納得してくれるはず。
そう思った瞬間だった。
ブブーッ……、ブブーッ……!
激しいバイブレーションの音。
画面に表示されたのは、はやちゃんからの着信だった。
僕はスマホを掴んで経理部の事務所を飛び出すと、廊下の隅ですぐに通話ボタンを押した。
「……はやちゃん、どしたの?」
『いや、まさかお前、あいつのとこ一人で行くんじゃねぇよな?』
受話器の向こうから、地を走るようなはやちゃんの低い声が響いた。
「えっと……うん。一人で行くつもりだったけど……」
『はぁ、お前あほか。昨日、あいつに何されたのか、もう忘れたわけ?』
「忘れてないよ!忘れてないけど……でも、しゅんは本当に反省してたし、あんなに泣いて……」
『あのなぁ、柔太朗。ああいう理不尽な暴力を振るう奴は、また絶対に同じことをすんの!』
「しゅんは違う!!しゅんは今まで、ずっと優しかったもん!!」
反射的に、語気が強くなった。
しゅんを一括りに「危ない奴」として扱われるのが、どうしても耐えられなかった。
『はぁ?お前あいつに殴られたんだぞ?ちゃんと分かってんのか?』
「でも!しゅんは絶対に違う!!」
『お前……ほんと懲りねぇな、』
はやちゃんの声に呆れたような、ひどく落胆したような熱が混ざる。
「……分かっているよ。自分の言っていることの矛盾くらい、分かっている。でも、このまま逃げてちゃダメでしょ?毎日会社で顔を合わせるんだから……っ」
『俺がどんだけお前のこと心配してると思ってんだよ……っ』
「それは分かってる!!伝わってるよ!でも、本当に大丈夫だもん!!」
『お前なぁ……!』
「はやちゃんは過保護すぎ!!!俺だってこれくらいのこと、一人で解決できる!!……もう、ほっといてよ!」
胸の奥の焦燥感から自分の感情が完全に制御できなくなって、気がつけば僕は、一番言いたくなかった最悪な言葉を彼にぶつけながら、勢い任せに通話終了のボタンを乱暴にタップしていた。
プープープー……。
自分の指先で一方的に切ってしまった電話。
受話器から流れる冷たい電子音が静かな廊下に響き、僕はスマホを耳に当てたまま、その場に固まった。
あぁ……どうしよう。
僕はなんてことを…。
激しい後悔が一気に押し寄せてきて、頭がどうにかなりそうだった。
はやちゃんをどれほど深く傷つけ、裏切ってしまっただろうか。
「ほっといて」なんて言って、自ら突き放してしまった。
大切なはやちゃんに、今度こそ完全に見捨てられてしまったかもしれないという底なしの不安が、冷たく頭を支配していく。
だけど、しゅんとはこれから先も毎日会社で顔を合わせるのだ。
だから早く話し合ってこの歪んでしまった関係を解決しないと、僕のほうが精神的に耐えられなくなってしまう。
それにしゅんとの楽しかった時間を思えば、昨夜のたった一度の突発的な出来事だけで彼のすべてを終わらせるのは絶対に違うと思った。
ちゃんとしゅんと話をしたい。
そして、あの優しかった元の関係にちゃんと戻りたかった。
はやちゃんへの凄まじい罪悪感と、しゅんへの嫌いになりきれない恋心の狭間で、僕はただ激しく揺れ動き続けていた。
to be continued………