一時間後、部屋の前で待機していた使用人がフェーデの部屋を覗くと誰もいなくなっていた。
「あ、アベル様! アベル様! フェーデ様が!!」
「なんだと」
アベルが駆けつけると開け放たれた窓が残されていた。ロープの代わりだろう、刻まれ結ばれたカーテンがベッドの足に結びつけられ、窓から垂れている。
ここは城の上階だ。まだ子供とはいえ人を抱えて降りられる高さではないはずだが、実際に降りている。
来客用のテーブルには一枚の手紙が残されていた。
『あなたとの生活はもううんざりです。実家に帰らせていただきます。
フェーデ・ヴィドール』
とある。
明らかにフェーデの筆致だった。
ありえない。
鶏鳴卿に無理矢理書かされたのか?
「すみません、ドアの前で待機していたのですが、物音もなく」
確かに争った形跡はない。
声ひとつあげられなかったというのは、どういうことだ?
ただ一声あげればそれで鶏鳴卿は捕縛されたはずだ。だから、二人にさせた。
これではまるでフェーデが鶏鳴卿に協力しているかのよう。
「事情は後で聞く、門を確認しろ」
「はい!」
使用人が走り出す。
アベルはフェーデが客間から出るとき囁いた言葉を思い出していた。
『あなたを愛しています。何があっても』
一時間前。
振りかぶられた椅子に驚くことなく、フェーデは前進した。父は戸惑いから、振り下ろせずに、ただ足を抱きしめられる。
(この……!)
蹴り上げようとした父よりも早く、フェーデは父を愛した。
凍りついた父の心が解け出し、ガヌロンに激痛が走る。
「ぐ、あっ、うう」
床に伏せて苦しむ父を見下ろしながら、フェーデは「やっぱり」と思った。
その心は氷の中でひび割れ、砕けている。
凍りつくことで維持されているその形は愛されることで崩壊する。
これが父ガヌロンが誰からも愛を受け取ることができなかった理由である。
愛が死に直結するガヌロンは凍り付いたままでなくてはならない。
なんのことはない、愛されそうになるたび生存本能が死を回避しているだけである。
身も蓋もないことではあるが、この構造上ガヌロンは愛によって満たされることはない。愛を手に入れることなど土台不可能であった。
フェーデはそんな父の姿に自分を重ねる。
今回のわたしはたまたま壊れる前に助かっただけだ。
数多あるループの中にはガヌロンのようになったフェーデも存在した。
凍結姫となったフェーデの心を癒やしたのは、アベルの愛ではなく、ガヌロンの氷のような冷たさである。
誰かの過去は誰かの未来、誰かの今は誰かのIF《もし》。
劇は繰り返される。少しずつその姿を変えながら。
フェーデは大きく息を吸った。
このわたしでは役割を果たせない。
では誰なら?
記憶をたぐると、まるで神様がそのためにしつらえたかのような過去があった。
今のわたしにぴったりな赤髪の少女が想起される。
黒猫一座で一番人気のその役は傲慢でチャーミング。
気分屋でワガママで、人の心がちょっとない。
典型的な悪役令嬢。
(マリー、あなたの役を借ります)
フェーデの重心が少し落ちる。
背はいつもより少し後ろに、表情は見下すようなワルい顔。
台詞は、まるで煙たがるように。
「何してるのよ、早く立ちなさい」
「ここから連れ出すつもりだったんでしょ? 協力してあげます」
見透かされた父が敵を見る目でこちらを見る。
溶けかけた心がみるみる凍りつき、安定していた。
そうだ、それでいい。
「あと。ぶったら二度と協力しません。いいですね」