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テラーノベルの小説コンテスト 第3回テノコン 2024年7月1日〜9月30日まで
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また吸ってる…


ガチャッ


「コラッ!吸いすぎだよ!病気にでもなったら嫌だから、もう少し本数減らしてって言ったよねっ!?」


1Kの狭いアパート。

朝目覚めると隣にいるはずの彼氏の姿が見えず、キッチンへと続く扉を開くと案の定換気扇の下でタバコを吹かしていた。


「わりぃわりぃ。でも、勿体無いから最後まで吸わせて、な?」

「もう…それで午前中は最後だよ?」

「わかってるって。ああ…目覚めるぅ…」


わかっている。あたしが甘いことくらい。

でも仕方ないよね。これが惚れた弱みなんだから。


あたしは二十歳を過ぎたばかりだけど、彼はもう三十手前の二十八歳。


そんな私達あたしたちが出逢った切欠きっかけは、よくある客と店員という形だった。


単純に説明すると、あたしは風俗で働いていて、彼は偶々たまたまそこを利用したお客さんに過ぎなかった。

そんな風俗へ来る客の多くは女の子にアプローチするんだけど、女の子からすればお客さんはお客さんにしか思えない。


でも、彼は違った。


大人のお店に来たのに、彼は何もしなかったのだから。


『職場の先輩と話の流れで来ることになっただけだから、何もしなくて良いよ』


これまでお店に来る男性の全ては、欲望に眼をギラつかせている人達ばかりだった。だから、こんな人は初めてで戸惑ってしまう。


『ホントに大丈夫だって!?だから脱がないで!?』


まさか童貞じゃあるまいし。

焦る彼は年上なのに少年に見えて、なんだか可愛く思えてしまった。


『可愛いよ。持って帰りたいくらいには』


あたしに魅力がないからか?と問い詰めると、凄く大人な対応をされた。


『番号?じゃあ、これを』


そんな彼のことが既に気になっていたあたしは、連絡先を交換して欲しいと初めてお客さんに自分の方から伝えた。

二度と来る気はないから営業しても無意味だと告げる彼を押し切り、あたしは見事連絡先を交換することに成功したんだ。


渡されたのは一枚の名刺。

そこに記されていた名は山田仁志。


『仕事中以外なら返信できるから』


そう告げる彼の無邪気な笑顔は、あたしの心を酷く掻き乱した。




















「健康診断に引っ掛かったって言ってたよね?大丈夫なの?」


ここは地方都市。車がなければ移動に困るという程ではないけど、あれば便利だから大体の大人が免許と車を所有している。

彼もそんな大人の一人。

運転する彼に向けて、あたしは少し前に二人の中で話題となった話を掘り返すことにした。


「問題ないよ。単なる不摂生をお医者さんに咎められただけだから。ね?だから…」

「ダメ。タバコは1日5本までだからね」

「はぃ…」


ふふ。

こんな一回り近くも歳下の言うことを、彼は決して無碍むげにしない。そんな彼がとても愛おしく感じる。

勿論それだけじゃないの。

だらしないあたしをいつも優しく起こしてくれて、準備の遅いあたしを嫌な顔一つせず待ってくれる。

料理も決まって週二で作ってくれるし、掃除が出来ていないと一緒にしてくれる。

洗濯も。


そんな世界一優しい彼のことが、あたしは世界一好き。


だから、身体には気を遣って欲しいと切に願う。

例え、喧嘩になったとしても。


















「山田さん。山田さんから見て、最近の山下麻衣さんはどうですか?」


ここは病院の診察室。部屋の中にはお医者さんと彼とあたししかいない。


「変わりなく。とても安定していると素人ながらに思います」

「そうですか。良かったですね。山下さん」

「はい。ありがとうございます」


あたしには学生の頃に発症した持病がある。

あたし的には特に普通と変わりないと思うんだけど、周りは違うみたい。

そんな病院通いにもここ数年は彼が付いてきてくれているから、今は苦でもなんでもないけれど。


あたしには頼れる親族がいない。


親はいるけど、幼い頃に離婚して、お母さんと兄弟三人で暮らしてきた。

離婚理由は知っていて、誰が聞いてもお父さんに非があることだった。


そんなお母さんは子供を育てる為にバリバリ働きに出て、家のことはなにもしないような人だった。

子供ながらに仕方ないと諦めて過ごしてきたけど、やっぱり少し変わったお母さんだったと今でも思っている。


その疑問はあたしが大人になるにつれて大きくなり、いつしか喧嘩ばかりするようになってしまった。


私達あたしたちが大きくなるとお母さんは漸く自分の生活を手に入れて、好きな人と県外で暮らすようになり、離れて暮らすことで私達あたしたちの蟠わだかまりも次第に薄まってきたように感じるこの頃。


でも、近くにいると喧嘩してしまうのがわかるから、私達あたしたちは一緒には暮らせない。


他の兄弟はもっと違う。何せお母さんとは違い性別すら違うから合うところなど無く、喧嘩別れのように別々の人生を歩んでいる。


だから。あたしには頼れる人がいないの。

ううん。いなかったの。


「では、これで終わりです」

「「ありがとうございました」」


診察の終わりが告げられると、私達あたしたちは揃って老年の主治医へとお礼を伝えた。


そして、この後の予定が近頃では一番の楽しみだったりもする。


「今日は何を食べようかなぁ」

「薬の副作用で太りやすいんだから、あまり高カロリーな物はやめておけよ?」

「失礼ねっ!こっちは乙女なんだから、もう少し言い方を考えてよね!」


ははっ。すまんすまん。

彼の乾いた笑い声を背に受け、駐車場へと向かうのだった。


そう。診察の後にはご褒美の外食が待っている。

病院に行きたくないと駄々を捏ねるあたしを説得する為に、彼が提案してくれたご褒美。


彼はただ時間を割かれるだけなのに、あたしの為に色々と動いてくれる。


こんなに素敵な人は、世界中どこを探しても彼しか存在しいない。

ううん。

他に居たとしても、あたしには、あたしの人生には、彼一人だけ。

彼一人だけでいいの。


だから神様…この時間を永遠に……





















「ただいま」


アパート部屋の鍵を開ける音とほぼ同時に、彼の声が聞こえた。

私達あたしたちは同棲しているわけじゃないけど、必ず『ただいま』と言ってとお願いをしていた。

そんな彼が家に来る日。

それはあたしの待ちに待った時間なの。

それなのに……


「麻衣さん。お邪魔させてもらうね」

「橋詰さん…も」


そう。彼の職場の先輩がたまについて来るの。

なんなの!?あたしと彼の時間を邪魔しないでっ!


とは、言えず……


「上がってください。今、お茶を出しますね」

「いいよ、いいよ。気を使わなくて。山田くんとお話ししたらすぐに帰るから」

「そ、そうですか」


まさか、彼まで連れて帰らないわよね?

この人はいつも勝手だから、つい身構えてしまう。


「先輩。上がらせてもらいましょう」

「仁志。自分の家でもあるんだから、そんな言い方はやめて」

「ははっ。そうだな。先輩。どうぞ」


たった一つしか部屋の無いあたしの小さなお城。

嫌だけど、橋詰さんとも同じ空間で過ごさなくてはならない。


先を行く二人の背を追い、あたしも部屋へと向かうのであった。











「もうっ!なんなのあの人!」


勝手に来て、満足したら勝手に帰る。

あたしも十分身勝手で他人ひとのことは言えないけれど、それでもフラストレーションは溜まる。

彼をその捌け口にしてはいけないことくらい分かっているんだけど、溜まったストレスは内から勝手に溢れ出てしまった。


「ごめん、ごめん」

「仁志は悪くないよ。先輩なんだから断れる筈がないんだもん。

それよりも、今日は泊まれる?」

「…ごめん。今日も無理なんだ。この後も仕事が残っているから。でも、朝には起こしに来るから、それで許してくれないか?」


彼はいつも忙しい。殆ど一緒に居られないくらいに。


うん。

何となく気付いている。

いくら馬鹿なあたしでも、そこまで鈍感じゃないから。


彼はあたしに隠し事をしている。

でも、それを暴く気はないの。


秘め事が外に出て良くなることなんて、絶対にないから。


あたしが彼の隠し事を見つけてしまえば、二人の関係は壊れてしまう。

それだけは嫌。それだけはダメ。

私が私で・・・・でいられなくなってしまう。


この幸せを壊すほどの大切なことなんて、この世には存在しないのだから。
























〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓


「山下さーん。お加減は如何いかがですかー?」


まただ。この不躾ぶしつけなお姉さんは、いつも返事を待たずに部屋へと入ってくる。


「ノックしてって言ったよね?」

「ごめんなさいね。あ。ちゃんと朝のお薬を飲んでるわね。えらいわ。麻衣さん」

「ねえ。いつになったら退院できるの?」


数日前。目が覚めると、そこは真っ白な病室だった。

部屋にはあたしが横になっているベッドがあるだけで、他には何も置いていない。テレビすらないの。

あ。一つだけ。

ベッドの脇に、先生が診察の時に使用する小さな椅子だけはあるわ。


「先生に聞いておくわ」

「…そういって、いつもはぐらかすんだから」

「それはそうと、今日は来たの?例の彼は」


この話題だけは話したい!

この退屈な入院生活で、たった二つの楽しみの内の一つなんだから!

もう一つは、勿論彼がお見舞いに来てくれること。


「勿論、来たよ。仁志があたしに会いに来ないわけないよね?だって、私達あたしたちはずっっとラブラブなんだから!」

「…ご馳走様」

「あれ?ここからが面白いのに、もう出ていくの?」


何よ。折角、朝仁志が起こしに来てくれた話がしたかったのに。


「貴女にお客さんが来てるのよ。通すわね」

「客?」


まさか、こんなところまでお店の客が…?イヤ!会いたくないっ!


ガラガラガラ…


個室の扉が開くと、恐る恐るそちらへ視線を向ける。その先に立っていたのは想像していたお客ではなく、見知らぬおじさんと、仁志とそう年の変わらないお兄さんだった。


「山下麻衣…さんですね?」


スーツを着たお兄さんの方が話しかけてくるも、何故か呼び捨てにされ、隣のおじさんの肘打ちにより訂正が入った。


「はい」


誰だろう?

知らない親戚…にしては他人行儀が過ぎる気もする。


「少しお話を伺っても?」

「良いですよ。でも、その前に…其方そちらは…」

「失礼。私はけ…いたっ!?…鈴木と申します」

「初めまして。私は佐藤と言います」


幾らいくら個室と言えど、ここは病院。

何もないだろうと考えて、あたしは二人に入室の許可を出した。

何故かお兄さんはおじさんに小突かれているけど……


「大変だったね。ここへ来る以前のことは覚えているかな?」


あれ?お兄さんが話すんじゃなかったのね。

それにしても、この人達誰なんだろう?

あたしが忘れているだけで、実は知り合い…だったら失礼よね……


「気付いたらこの部屋に居ました。それ以前ですか……うーん。思い出せません」


あれ?何で入院してたんだっけ?

確か先生は…持病が悪化したって…あれ?でも。あたしって何の病気だったっけ?


「ここへ来るまでで、一番最近の記憶はどうかな?」


まるでお医者さんみたい。

でも、優しそうなおじさんだから、ちゃんと答えなきゃ。


「最近ですか…えっと…彼…お付き合いしている山田仁志さんと、借りてきたDVDを観てた…と、思います…」


あれ?DVDだっけ?


「そう…ちなみにこれに見覚えはあるかな?」


そう言っておじさんが黒皮の鞄から取り出したのは、見たことのないノートだった。


「いいえ。知りません。何のノートですか?」

「これかな?これはね。…私の娘の落書き帳だよ」

「…知りません」


何なの…?この人。


「山下さん。その彼はお見舞いに来てくれているのかな?」

「はい!彼はあたしを起こす為に毎朝ここへ来てくれていますっ!…すみません」

「良いんだよ。若いというのはそういうものだからね」


恥ずかしい…

さっきまでボソボソと喋っていたのに、彼の話になると歯止めが……


「ありがとう。話が出来て良かったよ。また来るかもしれないけど、なるべく手間は取らせないから邪険にしないでね」

「い、いえ。こんな話でよければ…」


そう。あたしは飢えている。

この閉鎖された空間で、話し相手は担当の看護師さんくらいだから。


「それじゃあね。脚。早く良くなるといいね」

「ありがとうございます」


そう。目覚めた時から何故か脚が動かない。

痛みもないから寝てる分には問題ないけれど、いつになったら動くんだろう?これも先生に聞いておかなきゃ。


じゃあ。


その言葉を残し、二人は病室を出て行った。


はぁ…早く朝にならないかなぁ……


あたしは溜息と共に窓の外を眺める。

視線の先には雲一つない青空が広がっていた。

そして窓際には、仁志が吸っているタバコが置かれている。


「病院で吸ったらダメなのに…はぁ…仁志にはやっぱりあたしが必要だねっ!」


孤独な時間が増え、独り言も増えた気がする。

でも良いの。

朝には仁志に逢えることとびきりの出来事が毎日待っているのだから。






















〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓


俺の名前は鈴木省吾。五年前に警察官となり、今年の春から刑事として殺人事件などの捜査を担当している。今は秋だから、配属されてまだ半年。まだまだ新米刑事デカとして、勉強の日々を送っている。


「やっぱりよく理解出来わからないですね」

「ん?ああ…まだ言っているのか…」

「だって、殺人犯ですよ?どんな理由であれ、人を殺しているのに法の裁きを受けないなんて…狂っていますよ」


この男性は俺の上司で佐藤警部補。

自他共に認める頑固者の俺へと、決して投げ出すようなことはせず現場のイロハを教えてくれている稀有な先輩だ。

その上司へ向け、やるせない感情をぶつけていた。


わかってはいる。頭ではわかっているのだが、心が納得出来ないんだ。


「鈴木。俺達の仕事はなんだ?」

「事件の捜査及び解決、犯人の検挙です」

「そうだ。他のことは他の奴らの領分だ。今のお前の悩みは検事や裁判官の領分ってことだ。

仕事も組織も違うけどな、みんな同じ目標に向かっている同志なんだ。だから、信じろ」


わかってます。

そう喉から声が出掛かるも、既の所すんでのところで呑み込む。


この人は経験者だ。

俺よりも遥かに多くの経験を積み、今では考えられないような理不尽な想いもしてきたことだろう。


そんな人がそう言っているんだ。


今は納得できなくても、いつかは納得出来る。いや、出来なくてもいいんだ。

俺達の戦場しごとは別に有るのだから。


そう言われた気がした。


「わかりました。ここでくだを巻いていても仕方ないですもんね。

行きましょう。山下麻衣容疑者の元へ」

「それでいい。ま、容疑者っていっても、聞いた話だと不起訴だろうがな」


…ぶり返しますか?またくだを巻きますよ?


やはり警察この世界の先輩は厳しい。

そう思いつつも黙って車から降り、目的の人物が入院しているであろう病室を目指した。










ガラガラガラ…


五階にある病室の扉を開けると、室内には二人の女性がいた。

一人は看護師の服装なのでそうなのだろう。肝心なのはもう一人の方。


……やはり、俺にはあの子が人殺しには見えない。


何処にでもいる少し垢抜けた女子大生にしか見えない。

そう感じる俺に、刑事は向いていないのだろうか?


「山下麻衣」ドンッ


俺が容疑者の名前を呼ぶと、真横から強烈な肘打ちが飛んできた。


「さん…ですね?」


犯人へ敬称を付けることに戸惑いはあるが、ここは佐藤警部補に合わせなくては……

仕事なんだ。私情を挟んではならない。


「少しお話を伺っても?」

「良いですよ。でも、その前に…其方そちらは…」

「失礼。私はけ…いたっ!?…鈴木と申します」

「初めまして。私は佐藤と言います」


しまった。いつもの癖で、刑事であることを伝えそうになってしまった。


…警部補からの視線が痛い。

俺は頷いて合図を送り、佐藤警部補に続きを任せることに決めた。この事件を扱うには、まだまだ経験が足りないと気付いた為である。


「大変だったね。ここへ来る以前のことは覚えているかな?」


流石熟練の刑事。

たったこれだけで、我々が警察とは想像出来ない程の温和な空気を作り上げた。仮に警察だと気付かれたとしても、味方にしか思わないだろう。


「気付いたらこの部屋に居ました。それ以前ですか……うーん。思い出せません」


山下麻衣の視線の動かし方や身振り手振りからは、嘘を吐いているようには見えない。


「一番最近の記憶はどうかな?」


「最近ですか…えっと…彼…お付き合いしている山田仁志さんと、借りてきたDVDを観てた…と、思います…」


「そう…ちなみにこれに見覚えはあるかな?」


何処にでも売っているそのノートは、容疑者宅から押収したものだ。


「いいえ。知りません。何のノートですか?」

「これかな?…これはね。私の娘の落書き帳だよ」

「…知りません」


やはり、嘘を吐いているようには見えない。

佐藤警部補も同じなのだろう。咄嗟の嘘に、本当の家族構成を使ってしまっているのだから。多少なりとも佐藤警部補は動揺している。


…いや。警部補の考察はよせ。

余計なことを考えるんじゃない!今は目の前の容疑者に集中するんだ!


「山下さん。その彼はお見舞いに来てくれているのかな?」

「はい!彼はあたしを起こす為に毎朝ここへ来てくれていますっ!」


馬鹿な……本当に?いや、しかし…本当に…?


「ありがとう。話が出来て良かったよ。また来るかもしれないけどなるべく手間は取らせないから、邪険にしないでくれると助かるよ」

「い、いえ。こんな話でよければ…」


やはり、普通の女の子にしか見えない。


「それじゃあね。脚。早く良くなるといいね」

「ありがとうございます」


何故こんな子があんなことを…

いや、警部補から言われたばかりじゃないか。

俺は俺の仕事をしよう。


それが亡くなった彼に出来る、精一杯の供養になると信じて。






















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「それじゃあね。脚。早く良くなるといいね」

「ありがとうございます」


ガラガラガラ…


その言葉と共に病室を後にした。

後ろ髪を引かれ、心へと残るのは『疑念』という名の心情だけ。


長い刑事生活において、詐病さびょうを使う容疑者とは何度も遭遇してきた。


しかし、本物。


初めて会う本物は、何処にでもいる少女だった。


自ら病気であると訴えることもなく、ただただ普通に接してきた。

それもそうだろう。我々が刑事であることも、自分が事件の容疑者であることも理解出来ていないのだから。


それでも……


「あそこまで普通なのか…」

「はい。自分も…もっとこう…普通の、健常者とは異なる部分があるものだと思っていました」


駐車場までの道中。私の零した言葉を拾ったのは、未だこの仕事に青い情熱を持ち続けている後輩だった。

彼には厳しく接してきた。

時には感情を殺してでも任務を遂行するようにとも指導した。


それがどうだ?


幾ら自分の子供と同じ年頃の女性が容疑者とはいえ、幾ら病気だからとはいえ、幾ら何もわからないとはいえ…未来ある若者の指導者である私が動揺してしまうとは、情けない。


「戻ろう。我々に出来ることは、ここにはない」

「…そうですね」


不承不承ながらも、鈴木は歩みを再開した。

その実。私の内心は言葉とは違う方へと既に向かっていたのだった。












長らく休みというものを取っていなかった私は、数日の纏まった休みを取り、現在は自宅の書斎へと籠っていた。


「本来であれば証拠品の類は持ち出し禁止なのだが…私もまだまだ青かったということ、か」


手に取るのは一冊のノート。

表紙には何も書かれていない。

裏返すとノートの隅には……


「『もう一人のわたしへ』か」


ここだけ見ると、思春期の若者特有の日記か何かかと思ってしまうが、事実これは日記であって日記ではない。


私はノートを元に戻し、表紙をゆっくりと捲っていく。








『もう一人のわたしへ』


その書き出しから、独白にも似た日記は始まる。


わたしが統合失調症を患ったのは、高校二年生の秋だった。思春期の影響もあり、片親である母とは折りが合わず、日々襲ってくる幻覚と幻聴に一人怯えていた。

当時のわたしからすると、その幻聴は幻聴ではなく本物で、その幻覚も幻などではなかった。

学校では噂話が聞こえ、こちらを盗み見る視線に怯えた。

家に帰ると盗聴されているのではないかと、全ての電子機器の電源を落とし、電灯は新聞紙とガムテープでふたをした。


そんなわたしの異変に気づいたのは、月に一度会話があるかどうかの母だった。


「何、これ…麻衣?何をしているの?」

「何って…言ったでしょ!?盗聴されているって!」


当時のわたしには味方が誰もいなかった。

勇気を出して、母に『盗聴されている。外に出ると陰口を言われる』と伝えるも、『気のせいでしょ?』と取り合ってもらえなかったのだ。


その母も、何の為かわからないけど久しぶりにわたしの部屋へ入ると、同時に違和感を覚えたようだ。

わたしの部屋は、電灯に新聞紙で蓋がしてあり、カーテンの隙間はガムテープで押さえられ、一切の明かりが入らないようになっているのだから。違和感どころではなく、異常そのものに感じたことだと思う。


「病院に行かないと…」


その言葉に、勿論わたしは拒否を示した。

病気ではないからだ。

確かに聞こえる声。確かに感じる監視の目。

やはり、この他人ひとわたしじゃない。心配する振りをして、他所に追いやろうとしている敵でしかない。


長い問答の末、結局病院へ行くこととなった。


『病気じゃないってわかったら、引っ越しして』


この条件に母が頷いたから。







そして、わたしにつけられた病名は『統合失調症』という聞き慣れないモノだった。







この統合失調症という病気は精神の病いで、原因は不明であり、誰でも、何歳でも罹患りかんする可能性のある病気だった。


症状は幻聴、幻覚、被害妄想など多岐たきに渡り、少し前までは精神分裂病という酷い名前の病気として割と有名だったりもする。


現在は投薬により症状が抑えられ、日にち薬に近い感覚ではあるものの治すことが出来る病いとなっている。


早い人では半年で治る例もあるが、大半の患者は数年から数十年を要する病気だった。


その患者は、最初の内は病気であることを中々受け入れられないことでも知られているけれど、わたしはすぐに受け入れることが出来た。


その最たる理由が……


「そ、そんな…まさかウチの子に限って…」


他人の動揺する姿。それを見たことによりわたしは冷静さを取り戻し、自身を俯瞰ふかんして観察するみることが出来た。だから、病気を受け入れることが出来たの。


そんなわたしは三人兄弟の真ん中。二つ上に兄がいて、四つ下に弟がいる長女だ。

兄は既に家を出ており、わたしは高校に通い、弟は若干の知的障害があるので学校に通ったり休んだりを繰り返している。

母はわたしが小学生の時に離婚して、わたしの高校卒業と共に今お付き合いしている男性と県外で弟と共に暮らす予定だった。


しかし、わたしがこの病いを発症したことにより、母の計画は崩れ去る。


わたしが精神病を患ったことよりも、きっと、自身の予定されていた未来が崩れたことに絶望しているのだろう。


母は昔からそうだった。


そんな母の考えが透けて見えるから、今も尚、わたしはこの他人ひとを受け入れられないでいる。


でも…

それでも、育ててくれた。

ご飯を作ってくれた記憶がなくても、パンを買い与えてくれた。

癇癪持ちで自分の考え以外は認めなくても、女手一つで最低限のことはしてくれた。

それだけでも、今の日本の現状を考えると感謝しなくてはならない。


わたしよりも不幸な子供なんて五万といるのだから。


だから。


「お母さん。いいよ。わたしが病気だとしても、気にせず幸せになって」


母は強い人間だ。

わたしの看病をしつつ暮らしていくことを苦にせずやり遂げるだろう。


でも、わたしは嫌だ。


だって、そうなればいつでもいつまでも


『アンタが病気になった所為せいで、私は一人なの』


と、言われてしまうから。

ううん。言われなくても気付いてしまう。

それがわたしにとってはこの病いよりも辛いこと。


だから、放っておいて幸せになって




そんなわたしは大学に行けるような経済状況でもなく、高校卒業と共に自分の力で生きていかなくてはならなくなった。この病いを抱えて。


そんな何の力も持たない人間が行き着くところは、決まって犯罪かそれに近い場所。


病気が原因薬の副作用で朝は中々起きれなくて、普通の仕事に就くことが難しいわたしも、漏れなくそんな場所で働くことになった。


「どんなことをするか、理解わかる?」


叩いた扉は風俗店。

この人はその店の店長さん。

何処にでもいるお兄さんで、言われないと夜の店の店長だとはわからない見た目だった。


「男の人を気持ちよくさせる、ですか?」

「ははっ。そうだね。先ずはDVDを観て勉強しようか」

「は、はい」


わたしの男性経験はゼロ。

何をするかは何となくわかる。ここへ来る前にネットで調べたから。

でも、具体的な内容を口に出すことははばかられた。

だって、元クラスメイトの友達ともそんな話をしたことがないのだから。


真っ白だったわたしは、すぐに夜の世界へと染まる。


店長曰く、経験がある子の方が毛嫌いするみたい。

何も知らないから、何色にも染まっていないから、すぐに慣れることが出来たのだと言っていた。










「ここが職場ですか」


この人は市役所の福祉課の方。


「はい。ダメですか?」

「…いえ。頑張ってください」


わたしは病気のこともあり、福祉の人を頼りに暮らしている。

今日はわたしの担当の職員さんへ職場を案内したところだ。


何かあれば対応してくれるのだから、隠し事は出来ない。


『〇〇市役所福祉課 山田 仁志』


渡された名刺にはそう書かれてあった。


これからはこの人が母に代わり、私の生活を見守ってくれる。

といっても、頼りなく愛想もない人だけど。









ピンポーンッ


「山下さん。おはようございます。どうですか?何か変わったことはありましたか?」


定例文。

この人はまるで機械だ。


「…おはようございます。いえ、特に」


朝は機嫌が悪い。

それもそのはず。

統合失調症の薬には副作用が付き物で、代表的な副作用としてア・カシジアというものがある。


アカシジアは多動症に似ていて、じっとしていられなくなる副作用の名前だ。

横になっていることも辛く、夜はベッドの横に立ち尽くし、気絶するまでそうしてしまう。

口は半開きになり、涎を溢しながら。


その副作用が辛く、闘病を始めた初期から私は睡眠導入剤を手放せなくなっていた。


最初は副作用が辛かった。

母に高校卒業後は一人で生きていくと言ったが、お風呂にも一人では入れず、トイレも…

そんな状況になるとは思ってもいなくて、かなり後悔をしていた。


そこでお医者さんへお願いしたのが、睡眠導入剤。

他にも色々と試したけど、わたしにはこれがハマった。


この薬のお陰で夜は眠れるようになり、体力が回復したことにより、最低限の生活が出来るくらいには戻れた。


その反面。

朝が苦手になった。


だから、起こされるとイライラしてしまう。


「わかりました。また来ます」


もう来なくていい。

喉まで出かかった言葉を呑み込み、山田さんを見送った。





もう私も・・気付いたと思う。


私達わたしたちは二人で一人なの。


山下麻衣という人間は、多重人格を持ってしまったというお話。


これは統合失調症の症状ではない。

統合失調症を患い、過酷な副作用とも戦った結果、現実から逃れる為にもう一つの人格が生まれてしまった。

それが『貴女』なの。


ううん。どっちが主人格とか、どっちが偽物とかはどうでもいいの。


でも、わかって欲しい。

そうじゃないと、誰かに迷惑を掛けてしまう。


だから、この日記を残すことにしたの。


勿論、福祉の人を始め、行政の人にこのノートを見られるワケにはいかない。

そうなると、わたしは一生他人ひとのお世話になって生きていかなければならなくなるから。


これ以上他人の迷惑になってまで生きたくはない。

そうしないと、お母さんがまた癇癪を起こすから。


聞きたくない。

あの無駄に甲高い声で喚き散らすひとを。


見たくない。

普段は無関心な癖に他人ひとの粗ばかり指摘する母を。


言いたくない。

実母に対して『仕方ないじゃない』とは。


だから、見つけて。

何か酷いことが起きる前に。












最近、私の・・時間が短くなっている。

理由はわかるの。


わたしが見知らぬ男達に身体を許すことを耐えられなくなってしまったから。


だから、仕事中は貴女に頼ってしまう。


わたしがあの無関心で機械的な福祉職員とのやり取りが苦手だから。


だから、人付き合いも貴女に頼ってしまう。


だから、わたしは私でいられる時間を失っていく。


今日も貴女は幸せな夢を見て、

今日もわたしは独り暗闇の中で泣いている。


『仁志さん!明日はデートをしましょう?』

やめて!その人は裏でわたしのことを気味悪がっているんだからっ!


『仁志。覚えてる?私達あたしたちが付き合って今日で半年だって?』

やめて…その人は仕事上仕方なく合わせているだけなの…お願い……


私達あたしたちが出逢った場所は最低だったけど、仁志があたしを指名してくれて、今では良い思い出だよ』

違うの…もっと以前からその人はわたしの担当なの…お客はその人じゃなくて、私達わたしたちの方なの……





【そんな状況が一年近く続いた】





最近のわたしは諦めの境地に立たされている。


貴女に生活の大半を任せているのだから、それは失礼な物言いだよね。


貴女はわたしと違って、強く、自分の考えを持っている。

まるで母のように。


無垢な貴女はいつもニコニコとしていて、仕事の評判も良いみたいね。

偶にわたしが外に出ると『何かあった?』と周りから心配されるもの。


別に生理でもなんでもないの。これが本来のわたしなのだから。


そんな貴女でも、病気であることは覆せない。

妄想の中の彼も、現実では病人扱いのまま。


でも、貴女が幸せならわたしはそれでいいと思えてきた。

それがわたしの諦め。


でも、漸くその呪縛から解き放たれる。


今日病院の先生から言われた言葉は、諦めの境地に立っていたわたしを救ってくれるものだった。


『頑張ったね。薬を減らしていこう。うん。通院は必要だけど、寛解と言っても過言ないでしょう』


治った。

ううん。統合失調症に治癒は存在しない。

でも、治ったと言える。

『私は普通』だと、精神科の先生に認めてもらえたのだから。


薬が減れば副作用もなくなり睡眠導入剤を飲まなくても寝れるようになるから、これからは普通の仕事が出来る!


普通の仕事に就き、自立した生活を送れるようになれば障害者手帳も返還して、福祉課にも頼らなくて済む!


わたしの暗闇に一条の光が差し込んだ。


そして、光が射せば影もできる。


その影はもう一人のわたしへと差し込んでしまった。





「おめでとうございます。では、私はこれにて」


アパートの玄関前、福祉課の山田仁志さんから告げられた言葉。

今日はわたしの記念すべき日。の、はずだった。


「別れよう。僕達の関係はこれまでだ(おめでとうございます。では、私はこれにて)」


違うっ!そんなことは言っていない!彼とは何もなかったの!全部、貴女の妄想だよ!


彼との会話は、わたしへと湾曲して伝わる。


「待って!捨てないでぇっ!」


やめて!治ったのに!治ってないって思われちゃうよ!


「…山下さん。何度もお伝えしましたが、私達はお付き合いなどしていません。

先生にお伝えすると、これまでの努力が水の泡ですよ?」


そう。この事を、何故かこの人は医者へと伝えていない。

わたしにとっては有り難いことではあったけど、結局それを脅しに使うような人だった。


ね?こんな機械的な人はやめて、新しい恋を探そう?


わたしはそう願うも、もう一人のわたしには伝わらなかった。

そして、最悪の事態を巻き起こしてしまう。


「さ、最後に…お茶を…」


もう一人のわたしも馬鹿ではない。

薄らとではあるけど、現実と妄想の狭間で葛藤し、何か不可解なことが起こっていることには気付いていた。


「ふう…わかりました。三年も担当だったのですから、それを送別会としましょうか」


外で痴話喧嘩(妄想)をするわけにもいかなかったのだろう。

彼はわたしに先導される形でアパートへと入っていってしまった。









「可愛い寝顔」


彼は不用心にも、おかしな言動を繰り返すわたしが淹れたコーヒーを飲んでしまう。

そのコーヒーには、処方されている睡眠導入剤が大量に入っているとも知らず。


あたしの仁志は私から離れないの。返して。ね?私の仁志を返して、ね?」


そう告げると、わたしは彼の・・・・・』




その後の日記ページは全て白紙だった。

私は深い溜息と共に日記を閉じると、すっかり冷め切ったコーヒーを啜る。


「この前話したのは…恐らく別人格。本当の彼女は何処へ行ってしまったのだろう?」


この事件の被害者は殺された山田仁志だけではない。

本来の山下麻衣もまた被害者の一人なのではと、私は考えるようになっていた。


山田仁志を殺害した後、彼女も後を追うように自殺した。

彼女が生きていることから分かるように、その自殺は未遂に終わったのだが、その代償として下半身不随となってしまった。


この自殺を敢行したのが、本来の人格だったのではと、私は考えている。

理由としては、『これ以上他人の迷惑になりたくない』と記されているように、殺人という迷惑の最上級を犯してしまったことを悔いて、自らの命を断つ決断に至った。

そのことからも、彼女は被害者であると。


では、加害者は?


私にはわからない。

わからないが、『罪を憎んで人を憎まず』。

この言葉が脳裏を過ったのは、被害者が私の家族ではないからなのかもしれない。





















〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓


「いつまで続くんですかね…」


そう愚痴るのは、ここ福祉課に勤める同僚であり後輩でもある山田くんだ。


「そう言わずに…大変だろうけど、それが私達の仕事だから、ね?」

「先輩は良いですよ…担当でもないし、微妙に距離を置かれてるんですから」

「ははっ…」


はあ…彼との会話では、溜息しか出てこない。


今はこう言っている彼だけど、山下麻衣さんの依頼があった時は、いの一番に立候補していたのだけどね……

『18歳!?うわっ!写真も可愛い…俺!俺が担当になります!』

なんて言ってね。


今の彼はその時の記憶を失くしているのだろうか?


何にしても、私たちの仕事は市民の暮らしを支えること。

そこに邪な感情が入っても個人的には構わないと思うけど、それさえもなくなると……福祉を受ける人は嫌だろうね。

嫌々サポートされるなんて。


山下麻衣さんは今でこそああ・・だけど、最初の頃はもっと大変だった。


一人暮らしの彼女の家を山田くんが訪ねると、部屋の中からはいつも異臭がしていた。

薬の副作用で何も出来ないのだから仕方ないけど、彼は対象者が若い女性と言うだけで幻想を抱いていたから耐えられなかったのだろう。


すぐに私へと連絡をしてきて、私も清掃の手伝いをさせられたっけ。

『爺さん婆さんのは慣れてますけど…』

同じ人間だよ。

山下さんはただ若くて、君が別の感情を抱いていたに過ぎないのだから。異性に対しての高過ぎる幻想と共に、ね。


『付き合ってるって言われました…』

良かったじゃないか。元々そういう邪な気持ちを持っていたのだから。


『無理っすよ!だって、うんこのついた下着を洗ったんですよっ!?女として見れるわけないじゃないっすか!』

元々ダメだよ。異性として見ては。

彼女は困っている市民。私達が支えなくてはならない人なのだから。


「兎に角、仕事は仕事。困ったら助けるから、絶対に投げ出してはダメだよ?本当に困っている人達が、私達に助けを求めているのだからね」

「…わかってますよ」


はあ…やはり溜息しか出てこない。



もう少し愚痴を聞いてあげれば良かった。

そう後悔するのは、やはり取り返しがつかなくなってからだった。






















〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓


「おはよう」

「おはよう!今日も早いねっ!」


朝日が差し込む窓。

そこを背景に話しかける彼は、まるで後光が差しているように見えた。

あたしにとっては神に等しい存在なのだから、そう見えちゃうのも当然よね。


「この部屋は狭くないか?」

「確かに狭いけど…いや?」

「麻衣がいたらそこが天国だから。でも、抜け出さないか?」

「もうっ!…抜け出すって?看護師さんに怒られちゃうよ」

「麻衣との新居を借りたんだ。そこから通院すればいいさ。さ。そこに引っ越そう」

「えっ!?本当っ!?」

「本当さ。さ。行こう?」

「ま、まって!私、脚が…」


待って!

そう大声を出そうにも、何故か出すことが出来ない。


そうこうしている間に、彼は窓の外へと向かっていく。


待って!置いていかないで!

動いて!あたしの脚!


「くっ…」


ガタッ


「うっ…」


麻痺により脚は動かなくとも、上半身は普通に動かすことが出来る。


あたしはベッドから転げ落ち、腕力だけで窓へと縋ったすがった


「あ、開かない…待って…」

「さあ、行こう」


待って…


普段であれば、手を差し伸べてくれるのを待つだけ。

でも、今は自分の力で立たなきゃ。


そうじゃないと、新生活で彼に迷惑をかけちゃう。これ以上、彼の負担になりなくはないっ!


そうだ。

新生活。


「うぅ…」


あたしは持てる全ての力を使い、小さな丸型の椅子をベッド脇から手繰り寄せて手に取ると、それを窓へ向けて投げた。


ガシャンッ


「出来るじゃん。さ。おいで」

「はぁはぁ……う、うん!今行く!」


彼は待ってくれている。足が動かなくなっても、変わらずに。


あたしは無我夢中で窓へと攀じ登り、彼が待つ場所へと。


「あっ。タバコの匂い…」


空へと投げ出されたわたしの最後の記憶は、幻想の彼の嗜好品の香りだった。



今日も天気が良い。

こんな日は、カフェでテイクアウトしたコーヒーをお外で彼と飲み歩きたい。


それだけで、あたしは世界一幸せなのだから。

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