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生まれ育った町の中を縦横無尽に逃げ回る。
―――助けて……誰か……!!
後ろを振り返る。
ナイフを逆手に持った母親が追いかけてくる。
―――なぜ俺は、逃げているんだ。
生き返るためには捕まらなきゃいけないのに。
でも、足が―――。
足が、止まらない……!!
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
家を建てて単身赴任をしてほしいという聡子の申し出に渋々応じた孝作だったが、その条件として次の五つを突きつけた。
① 祐樹にはピアノ、柔道、水泳に通わせ、成果を月ごとまとめて孝作に動画データで送ること。
② 祐樹は塾に通わせ、成績表やテストは孝作に郵送すること。
③ 土日の夕食はネットテレビを繋ぎ、三人で食事を摂ること。
④ レシートを保管し、家計簿をつけて孝作に郵送すること。
⑤ 祐樹の交友関係を完全に把握し、悪い人間と付き合わないように徹底的に監視すること。
あとからわかったことだが、気弱な聡子は当時、孝作の出世への妬みからか、職員宿舎の奥様集団のいじめに合っていた。
その壮絶な経験から、宿舎に戻ることをかたくなに嫌がった彼女は、孝作が深く考えもしないで出した条件を完璧に守ろうと躍起になった。
「祐樹、今日のブルグミュラーはどこまで終わった?」
ピアノのレッスンが終わったバスの中で、聡子は決まってこう聞いた。
「彩羽(いろは)ちゃんは『小さな嘆き』まで終わったって言ってたけど」
彩羽ちゃんというのは、祐樹の前の枠にレッスンをしている女の子で、待っている間いつもその母親と待合室で二、三言話すらしい。
「……僕は今日は『バラード』の途中までしか終わらなかった」
膝に置いた幼稚園鞄のチャックをカパカパと開けながら言うと、聡子はぶん盗るようにピアノバックを引き寄せた。
先生が赤鉛筆でいろいろ書き込んだ楽譜を睨む。
「この曲は難しいの……?」
聡子はピアノを弾くどころか楽譜も読めなかった。
祐樹はため息をつきながら、
「難しいってわけじゃないんだけど、ちょっと右手と左手が合わないところがあったから」
「そう。じゃあ―――」
彼女は微笑みながら祐樹を見下ろした。
「ちょっと練習が足りなかったのかな?」
「―――ちゃんと練習してるよ。だってーーー」
―――彩羽ちゃんは小学生で……僕は幼稚園じゃん。
その言葉は出てこなかった。
優しかったはずの聡子の目は笑っていなかった。
「帰ったら練習しましょう?できるまで」
「―――うん」
想えばこのころから、聡子はおかしくなっていた。
◇◇◇◇◇
「今月はクロールのタイム、大して伸びなかったのねえ」
聡子は、水泳教室で月一回ある測定結果を見ながら、ため息をついた。
「フォームの改善をしてるんだ。ちょっと水のかき方に変な癖がついてるからって」
言いながら真新しいランドセルを下ろした祐樹は、リビングに寝転がった。
「もう疲れた。今日体育でもリズムダンスやったんだ」
「そう」
「すっごいウケるんだけど、ようちゃんがさ―――」
「洋一郎君?小野田洋一郎君ね?最近仲いいのね」
すかさず冷蔵庫に貼ってある名簿を見て聡子が言う。
「うん。しょっちゅうつるんでるよ」
意味も良くわからないまま大人な言葉を使ってみる。
「そんで、ようちゃんが腰振ってチンコ踊りとかしてさー!」
「……へえ」
「男子みんな真似してさ、女子が嫌がってた!」
「そう。面白い子ね……」
嬉々として語る祐樹に、聡子が微笑むことはなかった。
次の日、学校へ行ってみると、洋一郎は他の男子生徒たちとつるんでいた。
祐樹が声をかけてもどこか反応が悪く、中休みも、昼休みも一緒に遊んでくれなかった。
放課後、一緒に帰ろうと声をかけると、「いや、アキラの家に寄っていくから」
と断られた。
「―――ようちゃん。俺、なんかした?」
堪えられずに聞くと、洋一郎はやっと祐樹と目を合わせて言った。
「……昨日の夜中、お前の母ちゃんから、もう一緒に遊ばないでくださいって、うちの母ちゃんに電話がきた」
洋一郎の目に涙が溜まっていく。
「――ねえ。俺、なんかした?」
何もしてないよ。
仲良く遊んでくれただけだよ。
俺、ようちゃんが大好きで、
中学校も同じでよかったなって思ってて、
明日も明後日も、こうやってずっと一緒に遊んでいくんだと思って、
「――――」
でも、何も言えなかった。
祐樹は、塾に向かう車の中で、聡子の顔を見つめた。
「―――今日の休み時間は誰と遊んだの?」
聡子は正面を向いたまま聞いてきた。
「………寺ちゃんと」
「学級委員の寺島義人君?」
「―――うん、そう」
ろくに話もしない男子の名前を言うと彼女は口元を綻ばせた。
「……虫の図鑑見て、楽しかった」
「そう。よかったわね」
寺島義人。
いつも虫の図鑑ばっかり見て、
引き出しにはダンゴムシが入ってて、
みんなに嫌われてるんだよ。
学級委員を押し付けられても何も文句言わないで、
だからといって仕事もろくにしないで、
いつも机のダンゴムシ撫でてるんだよ。
気持ち悪くない?
僕、大っ嫌いなんだ。
祐樹は言いたい言葉を全部飲み込んで、窓の外を見た。
公園で子供たちが遊んでいる。
どこかで見たような顔だったけど、誰だったかはっきりと思い出せなかった。
でも自分は、
永久にあの中に混ざれないことだけは、
はっきりと分かった。
◆◆◆◆◆
「お父さんに報告するからね」
それが聡子の口癖だった。
それは、100点が当たり前だったテストや、体力テスト、スイミングスクールの記録や、ピアノコンクール、全ての過程において、いくらでも浴びせられた。
そしてそれらは往々にして、痛くないビンタや、痛くない拳骨という、軽微な暴力とセットだった。
祐樹は成長し、結果の報告に、多少の言いわけが加わるようになった。
「答えはわかってたんだけど、式で間違っただけ」
「朝からお腹が痛くて、走れなかった」
「今日はたまたま水が冷たかったから。みんなもタイム悪かったんだよ」
「体育の授業で指を怪我したから、痛くて弾けなかった」
そのたびに聡子は、顔を般若のように歪ませながら、
”式を間違った頭”を、手元に合ったリモコンで殴った。
”朝から痛かったお腹”を蹴った。
”プールで冷えた身体”に冷水を浴びせた。
”体育の授業で怪我した指”を捻った。
「――――」
塵ひとつ落ちていない広い家。
名前も意味も分からない絵画に囲まれ、
習い事と塾で埋まる毎日。
祐樹の心が壊れていくのに、時間はかからなかった。
ただ母親の顔色を窺い、月一度、帰ってくる父親に抱きつき、年に2度遊びに来てくれる祖母に微笑み、一日、一月、一年が過ぎていくのをただ待っていた。
母が怖かった。
母にここまでさせる父は、
もっと怖かった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
―――どうして……。
小学校の頃、一人で歩いていた通学路。
遊んだ記憶のない公園。
味のしなかった給食を作っていた給食センター。
色のなかった桜並木。
それらを走り抜けながら、祐樹はいつの間にか泣いていた。
―――どうして逃げているんだ……!
俺はもう―――
あの女に怯えなくてもいいはずなのに―――!!
「そうだよ……」
祐樹は足を止め振り返った。
後ろから聡子が右手にナイフを持ったまま、ものすごい形相で走ってくる。
「俺はもう、あんたなんか、怖くない……!」
祐樹は足を軽く引くと、拳を握りしめた。