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12月21日 水曜日
20時に青池こども公園前で待ち合わせ。そう決めて一足先に着いた凪は、ネイビーのコートのポケットに左手を突っ込んで、右手だけでスマートフォンを操作していた。
千紘が来るまでの間、溜まったDMを返そうと思い、無表情で片っ端から文章を打ち込んだ。
待ち合わせ時間に遅れないのはセラピストの基本。美容師がちゃんと20時きっかりに仕事を終えて待ち合わせ場所まで来れんのかよ、なんて思うが恐らく千紘はやってくるだろう。
「俺が合わせるよ」
そう千紘が言った通り、凪の仕事の合間にデートの時間を組んだ。とはいえ、凪も多忙である。23時から120分+お泊まりの予約が入っているため、時間制限が設けられている。
それでも千紘は「1時間でも2時間でもいいよー」と嬉しそうに承諾した。
千紘は仕事終わりからの夜の時間、定休日の月曜日ならいつでも可能だと凪に伝えてあった。後は凪の予約と相談しながらとなったが、写真の存在を恐れた凪は、残念ながらポッカリ空いてしまった予約と予約の間に千紘との時間を取った。
「わぁ、凪の方が早く来てるとか、俺感激」
急にそんな声が聞こえて凪は鬱陶しそうに顔を上げた。
「仕事からそのまま来たから。別に早く来たわけじゃない」
「それでも嬉しいなぁ。凪とこうやって待ち合わせするの」
「ああ、そう」
「手繋いでいい」
「ダメに決まってんだろ」
「でもお客さんとは手繋ぐんでしょ?」
「客はな。お前は客じゃねぇだろ」
「ふふ。いいね、お客さんじゃないのに凪の時間独り占めできるの」
千紘は頗る機嫌がいい。まるで凪自ら好意で千紘の為に時間を作っているかのような物言いに、凪の苛立ちは募る。
しかし、散々やり取りをしていてまともな会話が成立しないこともわかっているため、凪は何も言わずスマートフォンをポケットの中に入れた。
「んで、どこいくわけ?」
「凪ご飯食べた?」
「まだ」
「じゃあ、ご飯行こう」
千紘にしてはまともな提案だと思い、凪は目を瞬かせた。夕飯を共にして2時間で解散する、健全で合理的なプランだと思った。
「ああ。何食うか決まってんの?」
「美味しいお店あるから行こう」
千紘は楽しそうに目を輝かせた。初めて出会った時のような女性的な美しさはなかった。化粧もしていないし、服装だって男性そのもの。
ただ、ミルクティー色の髪だけはあの時と同じで、艶やかに揺れていた。
不信感を抱きつつも凪が頷くと、千紘はどこかへ電話をかけ始めた。
「2名で入れる? うん、個室空いてる?」
個室!?
凪は電話の内容にビクリと肩を震わせた。まさか、個室で2人きり……なにかするつもりなんじゃないかと身震いする。
あの時の恐怖が再び頭を過ぎった。
「じゃあ、今から行く」
そう言って電話を切った千紘は、怯えた凪の表情を見てふっと笑った。
「別になにもしないよ。凪、好き嫌いない?」
スマートフォンと一緒に上着のポケットに両手を突っ込んだ千紘が、流し目を向けながら後ろを向いて歩き始めた。
凪は慌てて1歩を踏み出してその後をついていく。
「別にないけど……」
「俺、ピーマン嫌い」
「子供かよ」
「でもね、今から行く店のピーマンは食べられるんだぁ」
本当に子供のように言う千紘。あんな出会い方さえしなければ、嫌なヤツには見えなかった。ただ、一度襲われている凪にとってはどんな態度をとられようとも、嫌なヤツでしかない。
「へぇ……」
さほど興味なさそうに返事をする。そのあとも千紘がほとんど一方的に喋って、素っ気ない返事を凪がする。そんなふうにしながら辿り着いた先は、オシャレなイタリアン居酒屋だった。
「イタリアン……?」
「居酒屋なんだけど、本格的なイタリアン食べられるんだ。俺、仕事帰りに結構行くの。遅くまでやってるから」
千紘はそう言ってから、店長の姿を見つけて小さく手を振った。30代半ばと思える清潔感のある男性だった。
目元は涼しげだが、穏やかな雰囲気がある。すぐに2人の元にやってきて「いらっしゃいませ。お席取ってありますよ」と店の奥を掌で指した。
それから凪に目を移すと、改めて「いらっしゃいませ」と頭を下げた。
凪はつられるように会釈をし、案内されるがままに個室に入る。4人がけのテーブル席が用意されていて、凪はぐるっと辺りを見渡した。
店全体は暖色系のライトで照らされており、個室も同じように少し暗めの照明が2人を包んだ。
居酒屋というよりもバーに近い雰囲気だ。酒もズラリとカウンターに並んでいたし、料理よりも酒がメインだと言われても頷いてしまうほど。
しかし、しっかりと個室が完備されていたり、カウンターの上に掲げた黒板にチョークでズラリと料理名が記載されていたのを見れば、千紘が言った本格的なイタリアンを提供してくれるというのも納得できそうだった。
千紘はメニューを広げて凪の方に向けると、そのまま差し出した。
「飲み物何にする? この後仕事でしょ?」
「うん。烏龍茶」
「おっけー。食べ物は? この牛タンのワイン煮込み美味しかったよ」
そう言ってメニューを指さす千紘。凪も覗き込むようにしてメニューを見る。パスタの種類もピザの種類も豊富だった。
「ふーん。じゃあ、それでいい」
「あとは? チーズフォンデュやる?」
「チーズフォンデュね……まあ、いいけど」
千紘に合わせるように返事をする凪に、千紘も柔らかく笑う。
「じゃあ、チーズフォンデュとパスタは?」
「なんでも……」
「じゃあ、ナポリタンにしよう」
「ああ、それでピーマン?」
凪は頬杖をついたまま、ふっと口元を緩めた。それはとても自然な笑みで、千紘は営業向けでない笑顔を初めて自分に向けてもらった気がした。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が小さくキュンと鳴った。
「ん。……凪ナポリタン好き?」
「うん。好き。別に好き嫌いないって言ったじゃん」
話の流れで言った好きという言葉。千紘は誘導したつもりもなかったが、不意に飛び出した凪の無防備な「好き」に心が飛び跳ねた。
「うん……。あとは」
「とりあえず来てからでいいだろ。そんなに食えんのかよ」
「食えるよ。俺、結構食べるよ」
「ふーん」
背は高くても細かっただろ、と凪は千紘の裸体を思い出した。しかし、忘れたかった過去を自然に思い出してしまった自分に驚き、平然を装った。
あっぶね……。言いそうになったわ。細かったっつっても、俺が力で敵わなかったくらいだからちゃんと筋肉もついてんだよな。
そんなところまで見てる余裕なんかなかったし。
何度も抱かれた余裕のない自分を思い出したら心が折れそうだった。
「まあ、とりあえず頼んじゃうね」
焦る凪に気付かない千紘は、2人で決めたメニューを代表して注文した。